時の春

1. 物の怪の山

 山裾に踏み入れば岩肌が剥き出し、折れた大木は中ほどから腐り、滅紫に変色した幹の周りに長い触角を堂々と伸ばした黄褐色と灰色のまだら模様のカミキリムシが何匹も宿っていた。
 音子(とこ)は足を取られぬよう注意深くして歩いたが、時々枝に袖が引っかかり立ち止まる。寒さに指先がかじかみ上手くほどけず、時間を要した。そうして山の奥深くへと進んでいけば折れた木々の中に天へ抜けるように高々と伸びた木が混ざりはじめる。それらは見事に空を隠した。いずれも、葉はない。土に落ち葉があるわけでもない。死木である。
 物の怪の山――里ではそう呼ばれている。
 遥か昔は生贄を捧げていたという。真か嘘か、わからぬほど昔の話。
 わからぬ話を、里の者たちは再び信じた。
 天変地異による不作、飢饉に流行り病、次から次へと里を襲う。
 原因のわからぬ、対処のしようもない不遇を前に、誰が言い出したか物の怪の呪いであると。平時であればそんなものと笑い飛ばし取り合わぬところであるが、食う物もなく、命を削るように生きる日々の中では、まともに頭が働くはずもなく、かつてそうであったように生贄を捧ぐことに決まった。
 選ばれたのが音子である。
 両親を失い、幼い弟と二人、身を寄せるように暮らしていた。
 お前が身を捧げれば、弟の面倒は見ると言われた。断れば、村八分にされ姉弟共々、餓死する。音子が頷けば、弟だけは助かる。否をいう隙はなかった。
 眼下に、唐突と湖が現れた。黒紅の底の見えぬ、触ればどろりとぬめっていそうな水の張ったその中央に、枯れ木が四本突き刺さっている。
 白い吐息が出た。
 崩れ落ちるように座り込む。小袖の裾が肌蹴、剥き出しの肢体が湿った地面に触れた。
 懐に短刀があり、取り出した。
 古書によれば、山の真中に湖がある。物の怪の暮らす場である。そこへ辿り着き自害せよと言われてきたが、易々と辿り着けるとは思っておらず、途中に獣にでも襲われるかと恐れたが、山に入って一刻も経ってはいないだろう、音子は、湖へ辿り着いた。
 死なねば――思うが、手が震える。寒さと恐ろしさに。死ぬことは未だ不明瞭で其の恐怖より、刀の、尖った切っ先の、貫く痛みが過り躊躇った。
 震えは次第に酷くなる。飲み込む唾液の、干からびた喉の、波打つ動きにむせ返った。
 音子は短刀を両手に持ち、切っ先を向けて、高々と掲げた。
 勢いに、一息に、そうしてしまえば――だが、覚悟は定まらない。次第に腕に短刀の重みがのしかかり痺れが走る。疲れに耐え切れず落ちてくれれば楽になろうか。
「他所でやれ」
 不機嫌な声がしたが、音子の耳には届かない。己の恐怖心と向き合うのに忙しい。
 酒に酔って呂律の回らぬ身体のように、震えというに怪しいほど指先が左右に振れるようになっていた。音子は目を閉じた。訪れた闇に、一瞬の安息を見る。わからなくなったうちに、音子は両手を離し後ろへ倒れ込んだ。短刀が何処か刺さるはずである。
 痛みは、思っていたほどなかった。というよりも、何処も痛くなかった。落ちどころが悪ければ死ねぬとは思ったが、落ちどころがよく痛みも感じぬうちに死んでしまえたか。
「おい」
 声がした。
「おい」
 聞き間違いではない。
 音子は閉じた目を開ける。頭の方に立ち、覗き込むように見下ろしている、人のようなものの顔が見えた。
「あっ」と漏れる声に
「あっ、ではない。こんなところで死なれては迷惑千万」
 不満げに続けられた。
 音子は身体を起こした。濡れた背に空気が冷たく触れ、寒さに両肩をさすった。
 声の主を見上げれば、目の前に短刀を垂らされた。
「他所でやれ」
 繰り返すのは其れである。
「でも、私、ここで死ななきゃ。生贄だから」
「何百年と昔の話を。最早誰も、人など求めておらん。里へ帰れ」
 音子が見上げた先に、顔がある。人と同じ口と鼻が一つずつに、眼が二つ。ただ、瞳の色が紺碧である。
「物の怪……」
 想像していた物とは随分異なった。
 異形の、獣のような、一目見て恐怖に震えあがる化け物と思っていた。だが、目の前にいるのは、眼の色以外は人と同じ――着ているのも人の男が着るのと同じ着物である。
 物の怪は冷え冷えとした眼差しで音子を見下ろしてはいたが、いらぬもの、邪魔者、と両親を失った音子たちに豊かな内こそ親切ではあったが、状況が違えた途端、あっけなく疎ましげに見られるようになった。さめざめとした眼差しなど慣れた身である。恐ろしいものではない。
「里の呪いを解いてください」
 続けた。必死であった。
「出来ぬ話だ」
「そんな……生贄なら、私が。私の命を差し上げますから」
「出来ぬものは、出来ん。帰れ」
 物の怪は、短刀を傍へ投げ捨て、立ち去るように再三と告げた。
 音子は短刀を拾い上げ、切っ先を今度は腹の前に向けた。柄の底を右手で覆う。
 此処で死ぬより、音子に行き場はない。先に命を捧げてしまえば、呪いが解かれるかもしれぬし、無理であっても後に様子を見に来た里の者に、音子の屍が、役目を全うした証拠と映れば弟の面倒を見てもらえるだろう。
 物の怪のおるうちに――焦りが恐怖を上回り、時を惜しむように、音子は強く瞼を閉じて勢いに任せたが。
 指先に衝撃が走り、勢いに小柄な音子の身は横倒しになった。
 手の甲を強かに蹴られ、持っていた短刀が湖に落ちた。ポチャリと間抜けな音と、みなもが幾重に揺れた。
 音子は這うようにして起き上り、水面が静寂に戻るまで、黙って見ていた。
「帰れ」
 物の怪の声がする。
 音子は立ち上がった。わなわなと粟立ち、あろうことか物の怪へ殴りかかる。
 流石に其れには物の怪も怯んだ。
「このぉ! さっきから我儘ばっかり!」 
 物の怪の着物の帯を掴み、前へ後ろへと揺すり、時に殴り、攻撃というよりは癇癪を起し当り散らしている風である。寒さと恐怖に囚われていた身は、飛んできた蹴りで感覚の琴線がほとんど切れてしまい、残されたのは怒りである。
 ぬぁあああ、と雄叫びとも遠吠えともつかぬ、意味をなさぬうめきが轟く。その声に物の怪が漸くの反応を見せた。
「何が我儘か。我らの領分に勝手に入り込み、勝手な願いを告げ、生贄など要らぬと言うに押し付けようとは、我儘を言うのはお前だろうが」
 物の怪は、音子の肩に手を置いて引き離しにかかるが、窮鼠猫を噛む、中々にしぶとく手こずった。
「私は我儘なんか言ってない! 村の為にこうして生贄に来たんだ! それなのに、このぉ!」
「何が、このぉ! だ。生贄などいらんと言うに。帰らんか」
 音子の興奮は益々と強まった。あらゆるすべてを喚き散らし、物の怪に掴まれた肩を振り払うために万歳し、その手で物の怪の両の頬を抓った。物の怪はその手を取ったが音子は踏ん張る。両手を伸ばした先の、身体の全てでぶら下がるようにしているものだから、物の怪といえ頬が下がり相当の痛みである。何とか離させようとするが、歯を食いしばり鼻息を撒き散らし、スッポンのごとく執拗さに、払うことを諦め、次に音子の頬を同じく抓り上げた。見る見ると抓られた周りの血が止まり赤らんで、音子の目に涙の粒が浮かび始めた。痛みを感じ始めると、急に頭が巡り出したか、鼻頭に皺を寄せ、目を開いて音子を威嚇するよう睨む姿に、ぞっとして恐ろしさに息を飲む。それをきっかけに、音子はついに両手を離した。其の後に、物の怪も音子から手を離した。音子の身体がずるりと崩れ落ちた。
 真っ赤に腫れた頬を、物の怪は片腕で乱暴に拭い、人間風情にと舌打ち、苛立ちに足を振り上げた。一撃入ればか細い音子には大層な衝撃である。其れが首に落ちればぽきりと折れて御陀仏である。しかし、振り下ろされる前に、
「なかなか戻ってこないと思ったら、何をしておる」と声がして、物の怪は動きを止めた。
 死木の合間より、いつの間には現れた、人のような物が二つ。双眸の色が萌葱と臙脂である。
 紺碧の目の物の怪は狼狽えたように音子に背を向けてそちらを見た。
「いや、このに……」「うわぁぁぁ、おかあさんの、たんとー!」
 物の怪が口を開いたが、それを遮るように音子が叫んだ。



2014/10/12