蜜と蝶
※この作品の時間軸は「本編」と「夕凪の憂鬱」の間です。
For You ―とある休日にー
「柊夜様、起きて! お願いがあります」
……。
「起きて、起きて」
左右に揺らしてくるので、目を開ける。吸い込まれそうな瞳が覗き込んでいた。
「ん……彩? ああ、今日も可愛いね」
「寝ぼけないで起きてください。お願いがあるの」
「まだ早いでしょう? もう少し寝かせて? ほら、おいで、一緒に寝よう」
腕をとって引っ張るが、あっさりと振り払われた。
「もう! いいです。一人で行ってくる」
そういい残すとパタパタと可愛らしい足音が遠のいていく。静かになった寝室で再びまどろみが訪れた。うつらうつらと心地よい。しかし、何かひっかかる。働かない頭で考えてみる。ひどく重要なことを聞いた気がする。そう、確か「一人で行ってくる」と言っていた。
……。
――い、く?
ちょっと待て。今「行く」とか言ってなかったか? どこへ? いや、それより…。
「彩。待ちなさい。一人で出かけるんじゃない。連れ去られたらどうするの。彩未! 」
飛び起きて消えていく足跡を追いかけながら叫ぶ。廊下を小走りしているところを後ろから羽交い絞めにすると驚いたのか小さな悲鳴を上げた。
「こら。一人で外にでちゃダメだっていつもいってるでしょう? どうして守れないの! 悪い子だね」
ジタバタするのでこちらを向かせて目線まで膝を曲げて言い聞かせる。私の言葉に明らかに不服そうだった。
「だって、柊夜様、起しても起きなかった……」
「だからって一人で行こうとするなんて……誰かに連れ去られたらどうするの? 怖い思いしてもいいの? 」
「連れ去られたりなんてしない。私は小さな子どもじゃないの」
「小さな子どもじゃなくても連れ去られる。絶対に一人で出歩いちゃダメだ。わかった? 」
「だって、」
「だってじゃないでしょ? わかった? 行きたいところがあるなら、連れて行ってあげるから、どこにいきたいの? 」
こうして私の休日はいささか強引に幕を開けた。
「買い忘れはない? 」
「ない」
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
あの後、彩未のお願いを叶えるために出かけた。日曜の朝一は混雑していたが、テキパキ買い物をしていく。目的の品に決まっているらしく、実にスムースだった。ものの三十分ほどで全て買い終わる。だが、両手に買い物袋をさげているので手をつなげない。仕方なく、
「ほら、ちゃんと私の服の裾を掴んでるんだよ? 」
「……こっち持つ? そしたら手繋げるでしょう? 」
彩未は片方の袋を持つと言ってきた。手は繋ぎたかったが、
「重いからいいよ。でも、いい子だから私から離れるんじゃないよ」
彩未はにっこりして「ありがとう」と礼を述べた。可愛い。それから、言ったとおりに大人しく私の左腕を掴んで歩いた。服を掴まれて歩くのは嫌いじゃない。小さな子どもみたいで愛おしさが募る。
帰る道すがら、そういえば何のための買い物か聞いていなかったことを思い出す。
「それで、一体何をするの? 」
「お菓子を作るの」
「お菓子? 甘い物が食べたかったの? 」
「違うの。明日は栞祢姉様のお誕生日だから作って持ってくの。栞祢姉様のお誕生日には毎年お菓子を作っていたの。でも、栞祢姉様は痣の蜜として朝比奈を離れてしまったでしょう? だからお渡しすることが出来なくなってしまったの。だけど、今年は渡せる」
ああ、なるほど。そういうことか。
「朝比奈ではね、大切な人のお誕生日には菓子を焼いて贈るの」
「へぇ、そうなんだ」
「柊夜様のお誕生日にも作りますね」
大切な人と思ってくれているのか。その言葉だけで充分幸福感に包まれる。わりと本気で「生きていて良かった」と思うほど嬉しい。
「そういえば柊夜様のお誕生日はいつですか? 」
「一昨日だ」
二、三歩歩くと、私の左腕にあった感触がなくなる。振り返ると、固まって動かないでいる彩未がいた。目にはじんわりと涙が浮かんでいる。慌てて傍に戻ると、
「どうして教えてくれなかったの……」
「え…いや、その」
ポロポロと泣きながら訴えてくる姿に心拍数があがる。泣かせてしまって申し訳ないのと、たまらなく可愛らしいのとで体が熱くなっていった。
「私にお祝いしてほしくなかったの? 」
「そんなことない。そんなことないよ? ただ成人してからはお祝いとかしてなかったし…」
「お祝いしたかった」
消え入るように言うと、両手で顔を覆い本格的に泣き始めた。荷物を置いて抱きしめてみたが泣き止む気配はない。とりあえず、邪魔にならないように市場の外へ連れ出す。
「そんなに泣かなくてもいいでしょう? 」
「……」
「じゃあ、今日お祝いして? 」
「お誕生日はお誕生日の日にお祝いしなきゃ意味がないでしょう! 今日じゃダメなの! 」
「……それじゃ、彩のお誕生日は盛大にお祝いしよう? 」
「そういうことじゃないの! 」
私の提案に彩未はますます泣き出した。それから「柊夜様は意地悪したから、私もお誕生日は教えない」と拗ねはじめた。
「そんなこと言わないで機嫌直して? ね? 」
「柊夜様は何もわかってない。私はお人形じゃないの。ちゃんと感情がある人間なの」
「そんなことわかってるよ? 」
「だったらどうして私には何もさせてくれないの? 柊夜様は私にいろいろしてくださるけど、私には何もさせてくれない。私だって好きな人に喜んでもらいたい。でも柊夜様は私には何もさせてくれない。寂しい…」
――ああ。
そんな風に考えたことはなかった。ただ、彼女が傍にいてくれるのが嬉しくて。そのためだったらどんなことでもしようと思って……けれどそれは彩未の気持ちを顧みない行為だったのか。
「彩が一緒にいてくれるだけで充分だから。それ以上何かをしてほしいなんて思ってなかったんだ。それで寂しい思いをさせていたなんて気づかなかった。ごめんね。私が悪かった」
「柊夜様だけがそう思ってるわけじゃないです。私も柊夜様の傍にいれて嬉しい。柊夜様が私を思ってくださるように、私も思ってるの……」
「彩……」
ギュッと抱きしめると同じように抱きしめ返してくれる。
彩未が私を嫌ってはいないことはわかっていたが、いまいち好かれている自信がもてなかった。だから自分がどれだけ彩未を大事に思っているか伝えることばかりに執着した。私の気持ちが強ければ彩未の気持ちが薄くとも補えるような気がした。それは結局独りよがりな行為でしかなかったのだ。私が彩未を思うように、彩未も私を思ってくれているのか…。
「彩がそんな風に私のことを思ってくれてるなんて知らなかった。本当にごめんね? 」
「来年はちゃんとお祝いする」
「来年」という言葉が体の隅々まで響き渡る。いつかいなくなってしまうのではないかと、信じ切れずにいた私などよりずっと彩未は私との未来を見てくれているのだ。自分の小ささと愚かさに泣きたくなった。
「来年も、再来年も、ずっとお祝いして? 」
胸の中でうなずく可愛い人を失わないようにしっかりと強く抱きしめなおした。
2010/5/3
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