蜜と蝶

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※夏越祓7話読了後推奨。

   恋 に も な ら な い    

 
 十歳くらいの頃だったと思う。
 その日、何かの集まりで私の家にはたくさんの人がいた。同じような年の子も何人かいた。私は体が弱く外で遊ぶことが出来なかったから年の近い子と遊んだことがなく緊張していた。仲良くなりたいと思ったけど上手に話せない。黙っている私は輪に入れずにのけ者にされていた。悲しくて大人たちの方へ行っても「子どもは子どもで遊びなさい」と相手にしてもらえない。どこにも行けない私は家を抜け出した。そしたら心配してくれると思った。私がいないことに気づいて追いかけてきてくれる、相手にしてもらえると考えた。でも玄関を出てすぐわかるところでじっとしていても誰も来てはくれなかった。 
 私は悲しくなって泣いた。両手で顔を覆って溢れてくる涙を拭った。その涙はいつもの涙とは違った。熱が出て苦しくて辛くてどうにもならない苛立ちを泣くことでしか晴らせずに、誰かにわかってもらいたくて大声を出すような涙ではない。自分が情けなくてみっともなくて、消えてしまいたいと思う真っ黒な涙だ。
――泣きやまなくちゃ。
 格好悪い。他の子は楽しく遊んでいるのに私一人だけが泣いている。こんな姿見られたら笑い者になる。だから泣きやまなくてはいけない。そう思うのに溢れるばかりだった。
 しゃがみ込んだまま、止め方がわからない涙と戦っていると、突然大きな影に包まれた。それから「よいしょ」という声がして体が軽くなった。宙に浮いてる。抱きあげられていた。手をのけると見知った顔があった。その人は私の顔を拭いてくれて、持っていた鼻紙で「ちんして」と鼻もかんでくれた。小さな子どもにするようなことを自然にしてくれた。私もまたそれを抵抗なく受け入れていた。
 それからその人は私をおぶり、近所を散歩しはじめた。
 日は傾きかけていて夕焼けが綺麗だった。橙色に染まった空はその人と良く似ていた。柔らかくて温かい。その人は何も聞かないし、何も言わない。私の気持ちをわかってくれているのか、わからずにしているのか。でもそんなことはどうでもよかった。
「夕凪。大好き」
 私が呟くと夕凪は笑った。
 でも気付いていただろうか。私は幼い頃から夕凪にべったりだったけど「大好き」と言ったのはそれが初めてだったこと。そして、この時、私はこの言葉を「兄さんのような存在として」という意味で言ったのではなかったこと。
 私は本当に夕凪が好きだった。
 けれど夕凪にとって私は庇護するべき存在だ。私のことを「女の子」として好きにはならない。それはよくわかっていた。それまでも「夕凪のお嫁さんになる」と繰り返し言っていたけれど言葉にする度に「でもきっとなれないなぁ」と心の奥では感じていた。それを悲しいと思った。寂しいとも思った。だけど仕方ないとも思えた。
 夕凪は私にとって正義の味方だった。
 困った時にはいつでも助けてくれる。どんな時でもかけつけてくれる。優しくて強い。けど正義の味方を一人占めすることはできない。それに人は大人になる。大きくなれば自分の足で立たなくてはいけない。そしたら彼は私の傍を離れるだろう。彼を卒業する日が来る。そうなったとき、それでも一緒にいてくれるとは思えない。きっと私の背を押して応援するだろう。どれだけ嫌だと言っても、それが正しいことなんだと笑って私の手を離す。残酷なくらいあっさりと。何故だかそう思えた。夕凪にとって私は人生を共に生きる相手ではない。不思議と確信できた。
――でも私は夕凪が好きだった。
 出来る限り一緒にいてほしい。だからいつまでも手のかかる子どもでいたかった。それが夕凪の傍にいられる唯一の方法だったから。
「大好きー」
 今度は大声で言った。恋にさえならない「好き」を初めて言葉にする。優しい背中におぶさって二度と口にすることはない言葉を紡ぐ。いつか私たちはそれぞれに大切な人を見つけるだろう。今こうして思っている気持ちも薄れていくに違いない。それでも私にとって夕凪は特別だ。そして「大好き」と思っていることも本物だ。それを証明するように馬鹿みたいに繰り返す。消えていくしかない想いを刻みつけるように何度も何度も、一生分を今、言葉にする。
 夕凪は最初は笑っていたけど、やがて黙った。いつもと違う私に困っていたのだと思う。でも何も言わなかった。ただ聞いてくれていた。受け止めてくれているんだと思った。それで私の涙はますます止まらなくなる。さっきまでとはまた違う甘酸っぱい涙だった。

 あれから月日は流れて――。

 私は恋をした。相手は蝶だ。呉羽本家の次男・柊夜様。歌えなかった私に声をくれた。私が最も欲しかったものだ。最初は気まぐれな蝶に心を許してはいけないと思ったけれど、一緒に過ごすうちに柊夜様を好きになった。けれど反対に柊夜様の気持ちがわからなくなった。私を好きと言ってくれるけど、疑って、柊夜様の元を飛び出し朝比奈に戻った。でも、すぐに恋しくなり戻ることに決めた。
 柊夜様の家の前。
――会いたい。
 そう思うのに体は動かなかった。私は好きだけれど、柊夜様はそうじゃないかもしれない。怖い。躊躇っていると、
「入らないの? 」
 振り返るとよく知った優しい顔の夕凪が立っていた。私はここへ送ってきてくれたのだ。
「柊夜が好きなんだろう? だったら自分の気持ちは伝えなければいけないよ。彩未は何も言わず悲しいからって朝比奈に帰って来た。柊夜が話を聞いてくれなかったというが、聞いてくれなくても言うべきことを言う強さを持たなければいけない。相手の言葉を遮ってでも自分の気持ちを伝えることも大事だ。聞いてくれるのを待っているだけではいつまでたっても何も変わらない。彩未が最初にここに残ると言った時『自分の気持ちを言えるようになる』と私と約束したよね? でも結局それが出来ずに逃げ帰って来た。でもそれで後悔していたんだろう? だったらもう逃げたらいけない」
 ああ、そうだ。いつも、私は、自分の気持ちを言えない。「ちゃんと」伝えられない。ずっと前もそうだった。だから今度恋をしたら伝えようと誓った。たとえ相手がどうであれ自分の気持ちを言おうと思った。
「夕凪……」
 名を呼ぶ。小さな頃から傍にいて助けてくれた人。本当ならとっくにその手を離さなければならなかった。私はもう大人だから。でも甘ったれて猶予をもらっている。
「ほら、柊夜が待ってる」
 私はまだ踏み出せない。すると夕凪は背を押してくれた。その手はどこまでも優しい。だから報いなくてはならない。一呼吸おいて、
「ありがとう」 
 とだけ告げて振り返らずに中に入った。【完】
 


2010/7/5

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