蜜と蝶

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※本編第25話読了後推奨。


   観 劇    

 
 環は離れた。感じていた温もりが消えて私も我に返る。
 玄関先で抱きしめて口づけた。不躾な振る舞いだ。名残りもなく身を離した環の行動に不安がよぎる。気分を害したのではないか。軽薄だと思われ嫌悪されてはいないか。
「申し訳ございません。はしたない真似をしました」
「はしたないなど……お前がすることにそんなことあるはずがな、い…」
 何を口走っているのだ。そういうことじゃないだろう? はしたないとかはしたなくないとか。環だって本当に行儀が悪いという意味で言っているわけじゃない。だから、私が言わなければならないのは、
「すまなかった。こんなことをするつもりはなかったんだ。でもけして浮ついた気持ちでしたわけじゃ……」
 環は真っ赤になって俯いている。初々しい態度に見惚れてしまう。改めて、自分がこの人に口づけたのだと実感する。唇の柔らかい感触を思い出し眩暈がしそうだ。甘い官能。だがそれは環にとってはどうか。考えるとひやりとする。せめて場を和ますようなことを言わなければと思うのだが、考えつくのは取り繕うような言い訳だ。情けない。だがそんな私の言葉に、
「わかってます」
 小さな声ではあったがそう返ってきた。だが、安堵していいのかわからない。彼女の真意を読み間違えないように慎重に様子を伺う。そうでなくとも、私はこの人の初めてを強引に奪ってしまったのだ。なんの準備もしていない状態で、心が伴っていたわけでもなく、ただ私の猛った感情を一方的にぶつけた。彼女はその件に関して一言も責めなかった。別れ話を切り出されたあの時でさえ。そして今もまた。
 私が動揺してはいけない。後悔や自分の恐怖心を優先させて彼女に気を遣わせるようなことがあってはならない。せめて堂々としていなければ。私は彼女の傍にいると決めたのだから。自分の過去の過ちに怯えて逃げ腰になっていてはいけない。
 一呼吸する。
「……それで、どうしようか? 出かける? 」
「少しだけお待ちいただけるなら」
「いくらでも待つよ」
 環は微笑んでくれた。

☆★☆

 会場に着くとすでに結構な人がいた。流石は人気劇団だ。
 特別室は二階だ。階段を上がって最奥。中は座敷になっていてくつろげる。ここには幾度か来たことがあった。私自身さほど観劇は好きではない。だが付き合っていた何人かにせがまれて券を取ったことがあった。彼女たちもまた、たいして芝居が好きなわけではなかったと思う。ただ、いい席で見て自慢したい。そんな打算的な感情が見え隠れしていた。それを分かりながら知らぬふりをして見に来る。すると案の定、彼女たちは徐々に退屈しはじめた。途中からいちゃついて戯れる。そんな遊びも悪くないなと楽しんだ。
「こんな風になっていたんですね」
 環は部屋を入って興味深く呟いた。それから会場を見渡して「舞台全体が見えて壮観だ」と感嘆の声を上げた。私にというより一人ごちている。興奮気味だった。舞台を見つめる表情は口元が緩んでいた。心底嬉しそうだ。こんなに喜んでくれるとは思わなかった。本当に芝居が好きなのだ。
 途端に、自分がとんでもなく罪深い真似をしていたことを思い知る。女を口説いて楽しむために利用していたが、この場所は真に芝居を愛する者に使われるべきだった。ろくに見ることもせず馬鹿な振る舞いをしていた。恥ずかしい。そして、そんな馬鹿な行為をしていた場所に環を誘えた自分の無神経さにもぞっとする。
 その場、その場の快楽を求めることしか知らない。彼女の傍にいるとそれが浮き彫りになる。自分がいかにちっぽけでつまらないか痛感する。辛い。惨めだった。 知らないままで暢気に生きて、からっぽの生涯を過ごすか、己の未熟さに打ちのめされながら一歩ずつ前に進むのか、どちらを選ぶと問われれば後者を選ぶ。そう思っていたけれど、実際に胸を貫かれると早く許されてしまいたいと思ってしまう。そんな自分がいる。
――私は本当に腑抜けだな。
 愚かな自分を知っていくのは悲しい。だが、今からこんなことでは環の傍にいられない。いづれ耐えきれず逃げ出してしまう。楽になろうと戻ってしまう。そんな自分が明確に想像できる。頑張れない自分が。でも、
「申し訳ございません。はしゃいでしまいました」
 そう言いながらまだ頬が緩んで楽しげな環を見ていると愛しさがこみ上げてくる。この人の傍にいたい。傍にいる。それが許されているのに、自分可愛さで手放すなんて、それこそ大馬鹿者だ。私は変わりたい。今度こそ本当に。
「寒くない? 」
 少し空調が効きすぎている気がした。だが環は興奮しているせいか「大丈夫です」と言った。そうこうしていると開幕を告げる音が鳴り響く。そして幕が開いた。男の声が告げる。


『姉は不幸な人だった、町の誰もが言う。そして、それは事実だ。だけど真実ではないことを私は知っている――』


☆★☆

 第一幕終了後。しばらくの休憩が入った。
 正直、こんなに熱心に芝居を観たのは初めてだ。これまでは女と戯れる目的だったから……という理由だけではない。芝居の内容と自分のこれまでの人生が重なって見えたのだ。
 劇中に登場するダンという男。献身に愛してくれるガラシャを顧みず好き勝手な真似をする。そしてガラシャを失う。彼女は過労で死んでしまう。ガラシャの訃報を知った村人たちはダンをなじった。お前がガラシャを殺したようなものだ。好きじゃないなら別れてやればよかった。彼女を自由にして開放してやればこんなことにならずにすんだ。村中から白い目で見られるダンの独白、

「みなが私を責めた。そうだ、私は非道な振る舞いをした。だが私の気持ちはあいつらにはわからない。私だってガラシャを愛していたさ。だがガラシャの傍にいると自分の小ささが嫌でも目に着く。それが耐えられなかった。他の女のようにちやほやしていい気分にさせてくれない。自分の身の丈を思い知らされる。それを受け入れられるか? 無理だ。自分をすごいと思いたい。誰だってそうだろう? だから逃げた……ああ、そうだ逃げ出したんだ。未熟な自分となど向き合いたくない。そんな自分を好きになれない。辛いだけだ。それの何が悪い? そう思っていた。だが、そうやって逃げ出しても私はちっとも幸せじゃなかった。私の幸せは彼女の傍にしかなかった。逃げずに、彼女の傍で自分自身と向き合っていればよかった。ガラシャは私自身が好きになれない私のことも全て愛してくれていた。彼女の傍でなら私は変われたのだ。彼女は私の良心だった。失ってやっとわかった。逃げた先に、幸せはない。ただ表面を撫でるような楽しさを幸せとは呼べない」

 その気持ちは嫌というほど理解できた。つい先ほど、私が感じていたことに酷似している。素晴らしい人の傍にいると自分の未熟さを知る。その悲しみに耐えられず逃げ出したダンの気持ちはわかる。だが逃げた先に幸せはなかったというのも。自分からは逃れられないから。愚かさに気づいてしまったら、それをなかったことには出来ない。知らないふりは出来ないのだ。そんな自分と付き合っていくしかない。それに、彼女は愛してくれているのだ。立派だからではなく、愚かで未熟な姿をそのまま愛してくれている。自分が自分を嫌って勝手に責めて辛いと逃げる。それこそが最も愚かな行為――見失ってはいけない。
「何か飲み物でも買ってきましょうか? 」
 環が言った。気を使ってくれているのだろう。私の顔を見ないよう視線を下にずらしてくれている。全く情けない。
「いや、私が行ってくる」
 これぐらいしかできないから。そう口の中でつぶやいて部屋を出る。扉を閉めて頬を拭った。【完】

2010/6/9


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