千年に一度の夜に.
私は、どうやら、酒癖が悪いらしい。
午後十時過ぎ。飲み会が終わり、いい気分で歩いていたら赤信号で立ち止まった。いつもなら、そのまま正面の信号機を見ているのだが、ふっと空を見上げた。星を見たかったのだと思う。ロマンチックに浸りたかったのだ。なにせ、酔っていたから。けれど、私の視界に入ったのは星ではなく歩道橋の上で佇んでいる男だった。
それがまた、浮世離れしているというか、影が薄いというか、この世の人じゃないっぽい、何かとんでもなく嫌な感じがして――絶対、この人、自殺する気だ、と直感的に思った。
――止めなきゃ。
酔った体で走ると動悸がするけれど、悠長に構えてはいられない。ものすごく早足に階段を上った。
男はまだそこにいた。暦の上では秋だけどまだまだ猛暑が続いているこの時期に、真っ黒な長袖のシャツを着ていて、同じく真っ黒なパンツをはいている。カラスでもそんなに黒くないわよってぐらい全身黒づくめで暑苦しい様子なのに、寒気を感じさせるほど冷え冷えして見えて、間違いなく死ぬ気だと確信した。
だから、私は近寄って腕を取った。
その人は驚いたように私を振り返る。
「死んだらダメですよ。絶対。」
すると、その人は言った。
「どうして?」
死ぬつもりなんてないとか誤魔化すこともなく聞いてきた。隠そうともしないなんて、これはかなり鬱傾向なのかもしれない。ああ、厄介だ。と、思ったけれど、このまま放っておくことはできない。だから、私は言った。
「どうして? そんなの決まってるじゃない。死のうとしている人を見過ごしたら、後味が悪いから。私のトラウマになる。」
鼻息荒く、息巻いて。
「……つまり、君が嫌な思いをするから、私に生きていろということか。」
「そうです。」
思い切り頷いて見せると、その人は声を立てて笑い始めた。
なんだ、笑えるんなら全然大丈夫じゃん、と思った。
「なるほど。それはとても重要な生きる理由だ。なら私は君のために生きることにする。だから君は責任をとって私の生きる目的にならなければいけないよ。」
彼はそう言って、さらに笑った。
*
私たちはファミレスに入った。
ドリンクバーとショートケーキ(マロンケーキが良かったけれどカロリー的にショートケーキのほうが50キロカロリーも低かったので、ささやかなダイエット!)に決めてウエイターに注文するが、男のほうはメニューをにらんだまま動かない。
「じゃあ、ドリンクバーとエビドリアにしたら? 温かい物を食べたら落ち着くし。」
「別に私は落ち着いているし、温かい物ならほかにもあるのに、なぜ、エビドリア?」
「ファミレスならありそうなメニューだから。」
「残念ながらエビドリアはないようだよ。エビグラタンならあるけど。」
「じゃあ、エビグラタンとドリンクバーで。お待たせしてすみません。」
私が言うとウエイターはにこりともせず去って行った。深夜のバイトは愛想がない。注文をなかなか決めずにいたら迷惑だろうけれど。
男は私が勝手に決めたことに特に何も言わなかった。にこにこと機嫌が良さそうに笑っている。
「先にいれておいで。」
「そんなことを言って、私が席を立っている間にいなくなるんじゃないの?」
「そんなことはしないよ。」
「言っておきますけれど、あなたに対する信頼度は限りなくゼロです。」
自殺しようとしていた人間のことなど信用できるはずがない。
彼は、ふむ、と腕を組みながら頷いた。
「見たところ、君はそれなりに酔っ払っているようだが、驚くほど解答が明快でよろしい。根拠は希薄だけれどね。」
まるで学校の先生みたいな口調で褒めてくる。
もしかして本当に先生だろうか。近頃は体罰問題や、モンスターペアレンツや、職員室いじめ、教師の心が病む事例が増えていると聞く。この人もその口だろうか。――まじまじと男の顔を眺めてみる。前髪は後ろへ流し(いわゆるオールバック)、顔だちは、まぁそこそこ……いや、かなり整っている。きっとモテてきたんだろうな、と思ったらなんとなく腹立たしい。チヤホヤされて生きてきたから打たれ弱いのではないだろうか、と勝手な憶測をしてしまう。
「そういえば、名前も聞いていなかった。君の名前は?」
「まりあ。」
「は? ……え? ホントに?」
男の驚きにうんざりする。
いつもそうだ。名前を言うとだいたい嫌な反応をされる。
「見るからに純日本風の、のっぺりとした顔のくせに、まりあ、なんて西洋風の名前なんて可笑しいのは自分でもわかっています。でも、親につけられちゃったんだから仕方ないでしょう。」
「いや、そういう意味で驚いたわけじゃないよ、まさか、私を止めたのが聖母マリアの名を持つ人だなんて運命的だと思って。すごいな。」
そういうと男はますます嬉しげに目を細めた。
「私は全然聖母ではないけれども。」
「そんなことはないよ。私には聖母だ。」
初対面の人間に聖母だなんて言ってしまえるこの男はどういう育ち方をしてきたのだろうか。なんだか少し怖い。
「ああ、誤解しないで。私は怪しくはないから。」
私の不安を察知したのか、男は言った。
「だいたい怪しい人ほどそういうものですけど? ……まぁ、いいや。」
酔いはさめるどころか、ぐるぐると思考回路を奪っていく。
考えることが面倒だった。
「まりあは少し無防備すぎるよ。私が本当に変な男だったら襲われているかもしれないよ。警戒心をもった方がいい。」
「……私は警戒しすぎて生きてきて、隙がなさすぎる。もっとゆるく生きた方がいいって、いろんな人に言われるくらいなんですけれど。」
「まさか。」
いったい何がまさかなのか。それも面倒で聞くこともせずにいたら、さっきの愛想のないウエイターがショートケーキを運んできた。
「では私が飲み物を入れてこよう。君はここから出入り口を見張っていればいい。逃げるつもりはないけれど。コーヒーでいい?」
うん、とうなずくと彼は立ち上がりドリンクバーへと消えていった。
*
「結局私が食べちゃったじゃないですか。ダイエットしてるのに。」
ショートケーキを食べたら寝ている子を起こしたみたいにぐぅっとおなかが鳴って、男は自分の前に置かれたエビドリアをぐいっと私の前に押し出して、スプーンまで取ってくれたので、一口だけと思って食べたら、とてもおいしくてすべて食べてしまった。
おなかがいっぱいになって、改めて男を見た。
「で、あなたの名前は?」
私の名前は聞かれたけれど、聞き返してなかったことを思い出して尋ねた。
「まりあは少し変わっているね。酔っているからか、しらふでもそうなのか。普通は、自殺しようとしている人間を捕まえて向かい合ったら、相手に興味を持って話を聞き出そうとするだろうに、君ときたら、目の前の食事に気を取られて、やっと私の名前を聞いてくれた。」
「……私のこと、バカにしてる?」
「まさか。」
男は言った。口癖なのかもしれない。
「無理やり聞かれたら話したくなくなるけれど、ずっと無視されていたから聞いてほしくてうずうずしているんだ。私は君には真実を話そうと思う。まりあなら、聞いてくれるだろう?」
「まぁ、聞きますけれど。そのつもりでここに来たんだし。」
私が言うと男は相変わらずにこにことして、それからゆっくりと話し始めた。
「私はね、不死なんだ。」
「フシ?」
「そう。死なないって意味だ。」
「……だから歩道橋から飛び降りても死なないって?」
息を飲んで彼を見た。
その目からは、嘘を言ったりからかっているような雰囲気はなかった。
「うん。まりあは変わっている。」
「どういう意味?」
「だって普通は、不死なんて言われたら、頭がおかしいのかと怖がったり、冗談にしたり、或いはふざけるなと怒ったりするものだろう?」
「そういうもの?」
「さぁ? たぶん。何せこの話をしたのはまりあ、君が初めてだから。」
私はもう一度じっと彼の目を見た。
どんなに嫌な風に見ても嘘を言っているようにもからかっているようにも思えない。少なくとも、彼自身は、自分が不死であると信じている。現実に本当かどうかは別にして。それを否定することは彼を否定することのような気がした。
「たぶんだけれど、驚いて何も言えない、ということじゃないかなぁ。きっと、話してみたらそういうタイプもいると思う。そして、私はそのタイプ。」
「なるほど。やはりまりあは変わっているね。」
彼はまた言った。
変わっているのはおそらく彼のほうだろう。変わり者の彼に変わっているといわれた私はごく普通の平凡な人間だ。
「じゃあ、話を続けるよ。」
「どうぞ。」
「不死といっても、死ぬ方法が一つだけあるんだ。」
「不死なのに?」
「そう。不死なのに。私の命は月の力によるもので、その月の力が千年に一度だけ地上に届かなくなる新月の夜があるんだ。それが、今日だ。この夜だけは不死ではなくなる。つまり、怪我をすれば痛むし、死ぬ。」
「それで死のうとしてたの?」
「ああ、生きているのが嫌になってね。」
生きているのが嫌――寂しく悲しい言葉だ。だけれど、そんな風に思える夜は、きっと誰にでもあるのだろう。具体的に困ったことがあるというのではなくて、漠然としたむなしさに心がとらわれてしまう。抽象的な解決のしようがないもやもやが濃霧のように広がり、だんだんと死の匂いがしてくる。それはがとても甘く優しいものに思えてしまう。
けれど、いざ本当に死のうとすると、怖くなる。最後の一線は簡単に越えていけない。それに人はいつか死ぬ。寿命が尽きれば死ぬ。それまで、もう少し生きてみようかと思う。
私はテーブルのアイスコーヒーのグラスについた水滴を人指し指で拭う。
「あなたが不死なら、その言葉はとても辛く思う。終わりがないんだもの。自然と、きちんと寿命をまっとうすれば終わりが訪れることは寂しいけれど大事なことだから。それがなく、終わらせたいなら、自分で終わりを決めなくちゃならないなんて、辛いだろうと思う。」
「まりあ。」
彼は今までになく強い調子で私の名前を呼んだ。
「君は私の話を半信半疑でいる。はい、そうですか、とすぐに信じられるようなことではないし。これはそういう類の話だ。けれど、それでも君は私の話を真剣に聞いてくれて、永遠に生きることを羨ましいと言わずにいてくれた。どうもありがとう。」
こんなに心を込めてお礼を言われたことがない、というほど彼の言葉は誠実にあふれていた。
「富や名声を得た者が最後に願うのが不老不死だ。けれどそれはけして得られない。死は平等に与えられ、人は死んでいく。私はそのサイクルから排除されてしまった。永遠は寂しく悲しく退屈でつまらない。私は今夜、それを終わらせようと思ったんだ。そうしないと、また千年の時を生き続けなければならなくなるから。全部、終わらせたかった。それを君に止められた。君は後百年も生きられないのに。そのあと、私は九百年の時を一人で生きなければならないのに。でも、まりあ。永遠よりも一瞬の、君の生涯に寄り添うことも悪くないかもしれないね。だから、まりあ。どうか私と――……」
彼は笑っていた。何を言っているのかよく聞き取れないけれど、その顔が切なくて私も切なくなった。
頭がガンガンする。酔いは醒めるどころかますます酷くなる。目が回る。そうであるのに何故かとても心地が良かった。
*
完全な二日酔いだ。昨日は調子に乗って飲み過ぎた。お酒を飲むといい気分になれるから、いっぱい飲んだのだ。だって、私が三年半も片思いしていた営業の村上くんが結婚することになったんだから! それも、今年入社したばかりの新入社員と出来ちゃった婚。たった半年で、私が三年半かけても埋められなかった距離を埋め、妻の座と子どもまで授かったのだ。
あまりの結末に、酒でも飲まずにいられるか、と飲んでいる内に、酒に飲まれていい気分になった。村上が何だ! 私を選んでくれる人がきっとどこかにいるはずだ。これでよかったのだ。と、気が大きくなっていたけれど、二日酔いの気持ち悪さと、失恋の衝撃のダブルパンチで泣きそうだった。
「うげぇ、気持ち悪い」
ベッドで寝返りを打ち、ごろんと天井を仰ぎ見る。
――そういえば、私。どうやって帰ってきたんだっけ?
駅についたぐらいまでは覚えているのだけれど……それから何か誰かと話をしたような。電話? 電話しながら帰ったんだっけ? まったく覚えていない。こんなの学生の頃以来だ。だいたい私は自制心が強い方で、家に帰るまではどれほど酔っても酔いきれることはないのに。
――よっぽどショックだったんだな。
そう思ったら、たちまちしょんぼりした気持ちになって、ぶんぶんと頭を振ったら、くらくらと目眩がしたので、バシバシと両頬を叩いて正気を取り戻す。
ベッドを抜け出して冷蔵庫へ向かいコップにミネラルウォーターを注いでいるとチャイムが鳴った。こんな朝早くに誰だ、と思ったが、時計を見たら昼を過ぎていた。
ドアフォンをとると、
「すみません。隣に越してきた者ですが、ご挨拶に。」
一人暮らし用のマンションで、引っ越しの挨拶とは律儀だなと思った。生真面目な人なのだろうか。
「あ、はい。少々お待ちください。」
着替えなきゃ、と思ったけれど服は昨日家を出た時のままだった。シャツは皺になっているが、これぐらい問題ないだろう。それよりも化粧を落としていない。ひーっと悲鳴をあげながら、洗面所で確認する。崩れまくっているのを、パフで押さえる。それでも酷い有様だったが、元々対した顔ではないし、廊下で待ちぼうけをくらわせる方が心証が悪いと、諦めて玄関へ向かった。
「お待たせしてすみません――……」
立っていたのは男の人だった。
すらりと背が高くて、とても整った顔立ちをしている。きっとモテてきたんだろうなぁというような。
「どうも。こんにちは。……昨日引っ越してきた神楽といいます。……ところで、昨夜は大丈夫でしたか?」
「へ?」
「随分酔っていたようで、途中で倒れていたので、お連れしたんですが。」
「ええ!?」
自分が失態を犯し、あまつそれをよく知らない人に介抱してもらったという事実は衝撃すぎて、二日酔いもぶっ飛んだ。
「それにしても、少しばかり警戒心を持った方がいいですよ。私が怪しい人間だったら、今頃どうなっていたか。」
「……すみません。」
――あれ?
既視感が起きた。
この人と、こんな会話を以前にもしたような。――いや、したのかもしれない。昨日。覚えていないだけで、ここへ連れ帰ってもらう途中に。
「謝らなくても結構ですよ。それより、約束は守ってくださいね。」
「約束?」
「そう。約束しましたから。私と――、」
瞳がゆらりと濃く揺らめく。まるで人間ではないみたいな、はかないのに強くて、綺麗なのに悲しげな、こんな目をした人を私は知らない。その真っ直ぐな眼差しに飲み込まれそうになって息を止めた。
「お礼に私と食事に行くと、気前のいいことを言ってました。」
「……あ、え? ……ええ、もちろん、お礼はさせていただきます。」
「そうですか。よかった。楽しみにしておきます。」
彼は私に持っていた箱を渡してきた。引っ越しの挨拶の品らしい。
「ではまた。まりあさん。」
そう言うと、彼は帰って行った。
扉の向こうに消えて行く後ろ姿を見つめながら、何かが、始まる予感がした。
2013/8/5