[10] おでこにチュー 【意地悪な悪魔 ロキ×カヤ】
カヤが生地の買い付けに行くので一緒についてきた。
カヤは放っておくと浮気するから大変だ。だけど、俺が「浮気するな!」と言うと、いつも不機嫌になる。まったく、理不尽だ。理不尽、だけど不機嫌な顔をされるのは嫌なので、仕方なく黙ってカヤが浮気しないように見張ることにしている。
「ここで待ってて。すぐに終わるから」
「わかった」
店の前。俺は大人しく待っていた。
カヤは俺と一緒に外を歩くのを嫌がった。注目されるからだろう。付き合うようになって、俺は容姿を元に戻していたから。カヤが嫌がるなら外にいる時は別の容姿にしても構わない、という気持ちは多少ある。今の容姿でいると腕を組んでもらえないし。でも、腕を組むよりも優先させたいことがあった。牽制だ。これでカヤの傍にいれば、カヤに言い寄ってくる男はいなくなる。勝ち目はないと思わせるのには有効だ。だから腕を組むことを我慢して、傍を歩くにとどめている。そういう気持ちをカヤはちっとも理解せず嫌がるんだ。我儘だと思う。
それにしたって、悪魔の俺を待たせたり、言うことを聞かせたり、カヤって人間のくせに一体何なのだろうか。どうして俺はそれを素直に聞いてしまうのだろうか。嫌な気持ちにもならずに。不思議だ。これが恋というものなのか。おそろしい限りだ。だが辞めたいと思わないからこれまた不思議だった。
「あら、ロキじゃない?」
物思いにふけっていると突然声をかけられる。
見ると、美しい女が俺を見て微笑んでいる。
――……誰だっけ?
女は俺に近寄って来て、そっと腕に触れてきた。
「久しぶりね。元気だった?」
しっとりとした眼差し。おそらく、以前に関係した女の一人だろう。むっとくるほどの色気にクラクラっとなる。
「近頃は、夜会に顔を見せなくなって残念だわ。どうしているかと思ってたのよ」
「約束してるから」
「約束?」
「そう。もう夜会には行かないって」
「あなた、束縛されているの?」
女はくすくすと笑う。綺麗な女だ。こういう女を夜毎に相手していた頃が懐かしく思われる。あれは、あれで楽しかった。やはり俺は綺麗な女が好きだ。
「そんなに雁字搦めじゃ窮屈でしょう? 可哀相ね。辛くなったら私がいつでも相手してあげるわよ」
女は腕に触れていた手を頬に持ってきて、妖艶に微笑んだ。
「いや……」
別に窮屈ではない。大勢の見目麗しい女より、カヤが一人いてくれればいい、と言おうとした。だけど、その前に、
「ロキ?」
カヤが店から出てきた。
「時間切れみたいね。じゃあ、またねロキ」
女はそう言って、俺の頬を撫であげて去って行った。
――マズイ。
明らかに女には作為がある。言葉も仕草も。「何かある」と匂わせている。遊び慣れた女の悪戯なのだろうがそれでは済まない。カヤはそういうのは嫌がる。俺の心臓は跳ね上がった。チラリとカヤを見る。怒った様子は見受けられないけれど、
「ち、ちがうぞ。別にあの女とは何もやましいことは……昔、ちょっと関係しただけで、い、今は何も、会ったのだって偶然で、これは浮気とかそういうのじゃ断じてない」
「何を慌てているの? 何も言ってないわ? それに私は気にしてないし」
「え?」
途端に俺は喉が痛くなった。
***
店から出てくるとロキは綺麗な女の人と一緒だった。私に気付くと、その人は挑発するように
「時間切れみたいね。じゃあ、またねロキ」
と言って、ロキの頬を撫であげて去って行った。
それを見て私は、「何もない」ことを直感した。強固に親密な間柄なら、わざわざ見せつけるようなことはしない。からかっているのだ。このことで私がロキを責めてケンカにでも発展すれば思う壺だ。だから私は見なかったことにしようと思った。だけど、
「ち、ちがうぞ。別にあの女とは何もやましいことは……昔、ちょっと関係しただけで、い、今は何も、会ったのだって偶然で、これは浮気とかそういうのじゃ断じてない」
慌てふためいてロキが言う。
そんな風に動揺される方が返って疑ってしまうのだけど。ため息が出る。
「何を慌てているの? 何も言ってないわ? それに私は気にしてないし」
告げた。
それで「そうか」と引いてくれたらよかった。
だけど、ロキは……
「どうしてあなたが泣くの!」
私はギョッとして大声を上げた。
そう。ロキはポロポロと泣いているのだ。
よく泣く悪魔だとは思っていたけれど、この状況で何故泣く必要があるのか。どちらかというと泣くのは私の方だろう。
「そうやって簡単に泣かないの!」
「だってカヤが……俺が他の女といても気にしないっていうから。俺のことなんて興味がないって言った」
何をどうしたらそういう解釈になるのだろうか。気まずい状況を見なかったことにされて、気にしていないと言われて、ほっとするならわかるけど。意味がわからない。悪魔の思考回路は。というかロキが独特なのだろうか。
「誰も興味がないなんて言ってないでしょう?」
私は宥めるようになるべく静かな声で言う。
「本当に? 俺に興味がなくなったわけじゃない? じゃあ別れない?」
「どうしてまた『別れる』とかそんなに話が飛躍してるの?」
「カヤがそう言ったんじゃないか! 興味がない相手とは別れるって、だから、俺は……」
「…そんなこと言った? いつ?」
「先月の頭に、オードリーさんが来た時」
「ああ」
そういえば、そんな話をしたことがあった。
オードリーさんは私のお得意様だ。
夫婦で出かけた時、ご主人が他の女性に目を奪われたことに憤慨したと怒っていた。確か、あの時、
「ですが、焼きもちを妬かれるなんて、奥さまはご主人さまのことがお好きなのでね。興味がなければ嫉妬はしませんもの。嫉妬は愛情の裏返しですから。仲がよろしい証ですよ。相手に関心がある証拠です。関心が持てなくなって別れた夫婦は沢山いますから」
と言った。
そのことを思い出して、自分への興味がなくなって、別れを告げられると泣いているの? なんなの、その乙女な発想。それだけ私の傍にいたいってことでもあるから、可愛いと言えなくもないけど。
「あなたと別れる気はないわよ?」
まだ泣きやまないロキに告げる。それにしたって何故この悪魔はこんなにもよく泣くのだろう。涙もろすぎる。おまけに、
「本当に? 俺のこと好き?」
こんな街中で聞く? これはもしかして嫌がらせ?
私は狼狽えた。言えない。言いたくない。恥ずかしい。だけど、答えない私に、ロキはさらに泣く。
「やっぱり俺のこともう好きじゃないんだ」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、好きか?」
言わなきゃ状況は収まらないのだろう。
私は周囲を見渡す。行きかう人々がチラリチラリと視線を送って来ている。これはもう、長引かすより、早いところ言ってしまった方がいい。私は覚悟を決めた。
「……好きよ」
小さな声で言う。だけど、ロキには伝わっている。
「ホント?」
「ホント、ホント」
私は二度三度頷く。
「だから、」
――泣きやみなさい。
と言う前に抱きつかれる。
ヒーっと声にならない悲鳴が上がる。だけど、ロキはそんなことお構いなしで、
「カヤぁ」
私の名前を呼びながら、場所も考えず額にキスしてきた。私は火が出そうで、逃れようとするけれど、更に強く抱きしめられる。周囲の視線も体もぎゅうぎゅうと痛い。だけど、抵抗すればするほど、ロキは執拗になるので私は諦めた。それから、キスされたのが唇ではなくおでこでよかった。まだましだと自分を慰めることにした。
2011/6/21