[02] 頭をなでなで 【久恋 右京×三咲】
アルバムの写真が色褪せていくように人の思い出もぼやけていく。楽しかったことも悲しいことも遠くへ流れ、やがて過去の出来事という大きな箱にひとくくりに入ってしまう。時々振り返り懐かしむことはあっても、失われた鮮明さを取り戻すことはない。だけど、稀に色落ちしない思い出というものがある。どれほど時間が流れても、どれだけ距離が開いても、少しも朽ちることない、思い出と呼ぶより記憶に留まっているようなものが。
小学校へ上がってすぐの日曜日。頭がクラクラしていた。熱や痛みはない。身体のどこにも異常はないが心が重たい感じ。人見知りだったから、まっさらな環境にポンっと放り込まれたストレスから疲れが噴出してしまったのだろう。
明日からまた一週間が始まると思えば落ち着かず、気分を紛らわすために居間のソファでテレビを見ていた。二時間ドラマの再放送で、連続殺人を解決する主婦の話だったと思う。幼かった私にはさっぱり理解できなかったけれど、犯人が誰かだけでも知らなければ気持ち悪くて見続けていた。だけど面白いと思えない内容をじっと座って見るのは拷問だ。次第に私の身体は傾きソファに横になってしまう。そうして夢を見た。サスペンスなんて刺激の強いドラマを見ていたせいか恐ろしい夢だった。内容はほとんど忘れたけれど、私は見知らぬ荒廃した町にいて、崩壊をくいとめられず恐ろしさに立ち尽くしていた。世界の終焉に一人ぽっちでいるざらざらとした頼りなさと心許なさが生々しくて、誰かを叫びたいけれど喉が開かず、そういうところも現実っぽく、自分の身に何が起きたのか混乱した。そうであるのにどこかで諦めたような脱力を感じてもいた。
――三咲お嬢様。
聞き慣れた声がする。家政婦の加世子さんだ。
――三咲。
力強くて明るい声は姉のものだ。
寂しい世界が揺らぐ。声のする方へ行けばここから抜け出せる。そう、思うのに、私の身体は動かない。身体の感覚そのものがないのだ。気づけば視界は真っ暗に染まり立っているのか座っているのかもわからなくなっている。
姉と加世子さんが交互に私を呼ぶけれど、私もそちらへ行こうとするけれど、うまく進めず、やがて声が遠のいていく。置いていかないでと思い必死にもがいても状況は変わらない。このまま静寂が訪れると今度こそ本当に一人きりだと思うと、心臓の音が大きく鳴り始める。身体の感覚がもてないのに心音だけがはっきりとわかるなど奇妙だけれど、大きくなるそれが静寂を強調しているようにも感じられますます怖くなった。そこへ、
「ああ、いいよ」
別の声がする。穏やかそうな、深みのある男の人のものだ。その人は笑っているように思えた。声はどんどん私の傍に寄ってくる。
相変わらず視界は黒く見えるものは何もないのだが気配だけはしっかりと感じる。
「なんだか疲れているように見えるし、このまま寝かせてあげた方がいいんじゃないか。慣れない生活に疲れがたまっているのかも」
「……でも、夜、眠れなくなったら困るじゃない?」
二人の会話で自分が夢を見ていたことを自覚する。テレビを見ていてうたた寝した。
そうだ。明日、私はまた学校へ通わなければならない。
思い出し、憂鬱さが蘇る。
そして、二人の交わしたやりとりを反芻させる。きっと、姉の言い分の方がもっともだと思う。明日のことを思えば昼寝なんてするべきじゃない。睡眠不足で学校へ行けば勉強に集中できない。寝かせておいた方がいいなんて無責任な台詞だ。だけど不思議と嫌な気持ちにはならなかった。それよりも、明るい方へ、正しい方へ導こうとする声よりも、その人の物言いの方が私には優しく感じられた。この人は他の人とは違う。漠然とした何かが広がる。
「一時間ぐらいなら平気だろう。ここじゃ寝苦しいだろうし部屋まで運ぶよ」
言いながら私の頭に触れる手。私はすっかり目を覚ましていたけれど寝た振りをしたままでいたから、動作は少しも見えない。でも、見えなくてもわかる。長く、少し繊細な指先で髪をすくように撫でられている。小さな子どもをあやす仕草だ。
私、もう子どもじゃないよ。
いつもならばそう言っていた。違う。いつもはみんなが私にそう言った。私のことをしっかりしているって、聞き分けの良い子だって、繰り返された。だから私も自分のことを大人だと思っていた。我が儘なんて言わないし、寂しいとも辛いとも言わない。自分のことは自分で出来る。平気、大丈夫だと思っていた。でもその人は私のことを子ども扱いする。そのことがくすぐったくて、同時に何故だか切なくなった。他の人から大人と見られるとどこか息苦しく感じるのに、その人に大人扱いされないのは寂しいことだ思えた。
ふわりと身体が軽くなる。
ゆらゆらと揺れる浮遊感と、抱きかかえられている安心感が心地よくて、私は寝たふりをしたままでいた。
この人は違う。
何が違うのか。どこが違うのか。違いがよいものなのか悪いものなのか。一つも答えられないけれど、ただ、置いて行かれる焦りや、どうにも出来ない無力さが、いつのまにか消え失せて、この人は違うと繰り返す。
私の忘れられない記憶だ。
眠りに落ちたところをベッドまで運ばれる――それはありふれた日常の一コマなのかもしれない。だけど私は彼に抱えられた日のことを特別なものとして覚えていた。
その想いの先に何があるのかも知らないまま、私の頭を丁寧に撫でる指先や、抱かれた腕の感触や、おそらく笑っていただろう吐き出す息遣いの何もかもを、ただ大切なこととして鮮やかなまま傍に置き続けた。
2012/9/14