[03] 上目遣い 【蜜と蝶 草寿×環】
これを拷問と言わずして、何を拷問と言うのだろうか。
話は、一時間前に遡る。
環と正式に復縁し、婚約をしてから一月。私の屋敷で祝いの席を設けることになった。
私は相当浮かれ気分で、酒もすすんでいた。そうして、隣にいる環を眺める。だが、環は私とは反対に表情が硬かった。最初は緊張しているのかと考えたが、緊張ならば時間が経過すれは次第に緩んでくる。環の緊張は逆に強まっているようにも思えた。
――何故?
急激な不安。
もしかして環の心にはまだ迷いがあるのではないか。私との婚約にまだわだかまりを残しているのではないか。考えると酔いはいっぺんに醒めた。
私が何も言えずにいると、環の傍に私の伯父が近寄る。いい塩梅に酔っているらしく、上機嫌で環に酒を振る舞う。祝い酒を環は受ける。だが、お猪口を手にしたまま硬直している。
普段から、環は酒を呑まない。一緒に食事に行っても環が酒を口にすることはなかった。それは知っていた。呑めないわけではないらしいが、それほど強くはないから、というのが理由だ。
「環?」
声をかけると助けを求めるように見つめられる。だが私は、
「祝い酒だ。少し口を付けるくらいなら平気だろう? 後は私が呑むから」
呑むように促した。
呑んでくれれば、環も喜んでいるのだと思える気がした。私が感じている不安を一蹴できるような。環は一瞬躊躇ったが、小さくうなずくと本当に僅かに口に含んだ。
だが、それが、大きな間違いだったのだ。
環は見る見るうちにその白い肌を赤く染め始める。
ほんのりとした桜色の頬に、目は潤んでしっとりしている。――それは酷く扇情的な光景だった。私が環に惚れているから欲目で言っているわけではなく、誰の目から見ても危険なほど。
ここまで弱いとは思わなかった。などと、のんきに思っている場合ではない。私は焦った。焦って周囲を見渡す。幸いなことに皆ほどよく出来あがっていて、私たちの婚約祝いからすでに単なる酒宴に切り替わっている。誰も、まだ環の異変には気付いていない。気付かれてはたまらない。今の内に連れださなければ。
環の傍に近寄る。環の目は私の動きをじっと捉えている。そっと抱き上げる。声をあげられたら周囲にバレるとひやひやしたが、意外にも、抱き上げると私の首に両手をまわして抱きついてくる。甘い香りに眩暈がするが、そんな悠長に構えている余裕はない。そのまま環を抱き上げて広間を後にする。目的地は離れにある私の部屋。
環は広間を出ても私の腕の中で大人しくしていた。歩く振動が気持ちいいのかうつらうつらと夢見心地で、時々私を見上げてはにっこり微笑む。その度に、私の体の真ん中には電流のような甘い痺れが走る。これはかなりマズい。それでもどうにか私の部屋まで連れて行く。
――ここまでくれば、安心だ。
私はほっと息をつき、環を寝具の上に寝かせようと降ろした。
だが、環は私に抱きついたまま離れない。
「環?」
呼びかけると、ふっと私を見上げてくる。目が、あう。
あの電流のような甘い痺れが、三倍に強まって流れる。
そんな顔で見つめられたら、私は、
――いかん。
私はかぶりを振った。
婚約したとはいえまだ結婚前だ。しかも環はどう考えても正常な思考が出来ない。これで私が何かすれば、非難轟々だ。特に朝椰に。再三に渡り通告されている。「結婚するまで手を出すな。もし何かあれば別れさせる」と。あれは本気だ。あいつは私と環のことにちょっと口出しすぎる。それも当主の権力を使ってくるから厄介だ。
「ここで少し休んでいなさい。私は水をもらってくるから」
とにかく、一旦落ち着く必要がある。
私は首に回された環の腕をほどきながら、笑顔を作って言う。だが、環は、
「いかないで」
いかないで――それは幾度か女に言われたことがあった。いかないでと言われると可愛いと思う。特に別れ際に言われると愛らしくていいと感じる。だが、環のそれは可愛いとか、愛くるしいとか、そういう次元ではなく、凶器的だった。たった一言なのに、私の心臓は壊れてしまいそうで、苦しくて、それを誤魔化すように奥歯を噛みしめる。
そうでなくても普段は理性的だ。間違っても私に甘えるような言葉を言わない。控えめで、だからこそ私は不安になる。もう少し気持ちを出してくれてもいいのにとやきもきする。それが、酒のせいとはいえ情緒的で、直情的な言葉を告げている。滅多に見れない、というか初めて見る姿に、喜びというより恐怖を感じる。
逃げなければ。
私は、おかしくなる。
「すぐに戻ってくるから」
「いや、どこにもいかないで」
間髪いれずの言葉。おまけにぎゅっと抱きつかれてしまう。私はその手を掴んでゆっくりと離す。
「水をもらったらすぐに戻ってくるから」
「お水はいりません。ここにいてください」
下から見上げてくる。真っ直ぐに見詰めて言われる。
その眼差しに吸い込まれて、気が遠くなりそうだった。
目の前に、環の美しい顔があって、熱っぽい眼差しで見つめられて、
――ダメだ。
私はもう一度かぶりをふる。
ここで負けてはいけない。相手は酔っている。落ち着け、と繰り返し、気を取り直して、
「でも喉が渇いているだろう? 水が嫌なら、お茶か白湯でももらってくるから」
「いらない」
「じゃあ、他に何か欲しい物は?」
環は相変わらず私を見つめている。
瞳が揺れ動く様を私も見つめ返す。
「欲しい物……くれるのですか?」
環の物言いは、酔ってる今、欲しい物というニュアンスではなかった。意味が変わっている。だが、それでも別に構わない。
「ああ、お前が欲しい物なら用意させる」
私は告げた。
自分から何かを欲しがることはこれまで一度もなかった。何かをねだってくるような性格ではない。こういう状況とはいえ、欲しい物があると言われるのは嬉しい。可能な限り叶えたい。
「本当に?」
酔っているとはいえ、まだ理性が残っているのか、躊躇いがちに言われる。少し酔いが醒めてきているのかもしれない。いつもの状態に戻りつつあることに安堵して、言い淀んでいる環を促すようにその髪に手を伸ばして梳いてみせる。これならば、ここにいても大丈夫かもしれない。ささやかな余裕を取り戻す。が、それも束の間のことで、
「子が」
「え?」
「草寿様の子がほしい」
「草寿様……」
「……え、ああ。そうだ、環、水をもってこよう」
環は私をじっと見つめている。
「喉が渇いただろう? 水を、」「いりません」
きっぱりと告げられる。
「では、お茶か白湯でも……」
「いりません」
「じゃあ、他に欲しい物は?」
「草寿様の子がほしい」
「草寿様……」
「……えっと、」
環がじーっと私を見ている。
その目は先程より潤んでいて、
「私のこと、お嫌いですか?」
「ば、そそそそそんなことあるわけないだろう!」
「ならば、何故応えてくれないのですか?」
「何故って……子というのはだな、木の股から生まれてくるものではなくて、その、そういう営みをだな、」「草寿様」
環は美しい眉をわずかに顰める。
「そんなことはわかっております」
「わかっておりますって……」
「草寿様……」
ほんのり色づいた頬にうっすら浮かべた涙。それでにじり寄られて――無理。もう確実に、下腹部に熱が集中し始める。それでもここで暴走するわけにはいかない。強くもない理性をフル稼働させる。そんな私のことなどお構いなしに、環は抱きついてくる。悲鳴が漏れそうになるのを堪える。
何故惚れた女に迫ってこられてそれを拒まねばならぬのか。
意味がわからなかった。私からではなく(酔っているといえ)環の方から望んでいるのだ。いつもの私ならば、それなら言い訳も立つと行動してもおかしくないのに。だけど、この時は違った。体は反応しているのに、あまりにも強烈すぎる誘惑に心が怖気づく。情けない話だが、私は完全に怖気づいていた。今、もし、環を抱いてしまえば、私は間違いなくおかしくなるだろう。どうなってしまうか、自分でもわからない。
「環」
しがみついてくる環の体をぎゅっと抱き寄せる。
「今はダメだ。母屋には大勢人がいるし、私たちを探しに誰かがくるかもしれない。そうだろう?」
「……」
「傍にいるから、少し眠りなさい」
「……」
「いい子だから」
環は私の胸に埋めていた顔を上げてじっと見つめてくる。それからまた抱きついて、小さくではあるが頷いた。聞き分けのよさに安堵するが、どうもそれは納得したのではなく睡魔に襲われ始めていただけらしく、私に抱きついたままで、ほどなくして健やかな寝息が聞こえ始める。
――助かった……。
すぐに動いては起きるかもしれないと、しばらく動かずにいる。十分程度経過して、本格的に眠ってしまったことを確認し、それでも起こさないように慎重に寝具に寝かせ、ようやく心底の安堵のため息をついた。
それにしても、凶悪的だ。
だからか?
今頃になって気付く。
環が今日、終始緊張しているように見えたのは、自分がすぐに酔ってしまうと知っていて、だが祝いの席だし酒をすすめられ、それを断るのは難しいと懸念して固まっていたのではないか。
だからあの時、助けを求めるように私を見てきたのではないか。
それなのに、私はすすめてしまった。
自業自得――そうだったにせよ、えらい目に遭った。
それから、私はいろんな意味で結局一睡も出来ないまま朝を迎えた。
2011/6/29