[06] 頬に触れる 【降伏せよ 紺野×トーコ】
好かれているのだなぁ、と実感したことはあまりない。
これまで、何人かの男性と付き合ってきたけれど、好き合って付き合ったはずが、ああこの人に好かれているのだなぁ、としみじみ思ったことはなかった。それでも寂しいとか、切ないとか感じたこともない。私はおそらく淡泊な性格で、べたべたしてりするのが好きではないのだ。また相手も同じようなタイプなのだ。私にとっての恋愛はこういうものなのだと思っていた。
だけど。
大きな手だった。
彼の家を訪れる。玄関をくぐると、大きな手が私の右頬に触れる。見上げると、口元に笑みを浮かべた彼が私を見降ろしている。声をかけられるわけでもなく、声をかけるわけでもなく、しばらくそうしていると、右頬に触れていた手が、顎を伝い、首筋、それから肩、背中へ移される。左手は腰に回されて、私は右耳をひっつけるようにして、すっぽりと彼の胸におさまる。
心臓の音がする。
それは穏やかな音だ。焦ったり、動揺したり、緊張したりしていれば、もっと激しい音だろうけれど、彼の鼓動は心地よく一定だった。
好きな相手に触れたなら、もっと興奮するものではないか。
だから、この人はこういうことに慣れているのか、或いはそれほど私のことを好きではないのか。と解釈してもいい。たぶん、普段の私ならばきっとそんな風に疑っていたに違いない。
でも。
右を向いたままじっとしている姿勢は首が痛くなる。私は解放を求めて腕の中で身じろぐ。すると彼は一度きつく抱きしめてからゆっくりと私の体を離す。そのわずか一瞬、ぎゅっとされた瞬間、私はこの人に好かれているのだと思えた。どうしようもなく、好かれていると。
何故だろうか。
自分でも不思議だった。
私の両肩に手を置いたままの彼を、もう一度見上げる。「どうした?」という風にまた私の右頬に、今度は手の甲で触れた。私もやはり何も言わず、その眼差しを見つめ返す。ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。鼻先が触れ合うほどに距離を詰めても、お互いに目線を合わせたままだ。たぶん、もう、きっと、瞑った方がいいのだろうけれど、私は馬鹿みたいにじっと彼を見続ける。彼はわずかに困ったような吐息を吐いて、私の唇の前で様子を伺っている。だけど零れる吐息はそれを楽しんでいるようにも聞こえた。戸惑いながら、戸惑っていることを楽しんでいる。
彼を相変わらず見つめ続けていると、触れられていた彼の手の甲が優しく頬を撫であげたので、それを合図に私は目を閉じた。途端、しっとりとした唇が落ちてくる。
ただ、唇を触れ合うだけ。それ以上何かをしてくるわけではない。啄ばむように繰り返したり、舌を差し入れてこようとしたりは一切なく、ひっついたまま動かない。時間は割とたっぷりだけど、唇を合わせているだけだ。そして、静かに離れていく。
目を開ける、まだ、近くに、彼の顔がある。再び視線が合う。彼は見つめ合ったまま姿勢を戻す。遠ざかっていく様子に込み上げてくるのは、涙だった。
悲しい。無性に。悲しくて。どうにもならない。
悲しくなるほど、私はこの人が、
背伸びをして、彼の首筋に両腕を回して抱きつく。彼の左肩に顎を乗せて強く抱きつくと、彼もまた応えるように両手を私の腰に回して抱きしめ返してくれる。ぎゅっと。一ミリの隙間もないほどピタリとくっつく。そして、彼は私のこめかみに口づけをくれた。
***
触れていたい。
小指を結ぶような、些細な接触でも構わないから、触れていたかった。
だからって、何も玄関先ですることないではないか、と思わなくはない。部屋にあげて、ゆっくりとくつろいでからでもいいではないか。彼女の顔を見るまでは思っていた。だが、顔を見た途端手が動いた。頬に触れると、彼女の体温が伝わってきて、そのままその存在を確かめるようにして抱きしめる。腕の中に納まった彼女に底知れぬ安らぎが生まれた。
欲望、よりも、安堵する。
そして、私は引き返せないほどこの子に惚れているのだなぁと認めるしかなくなる。
ただ、それが彼女に伝わっているかは怪しかった。
言葉で、直接的な表現で、告げたことはない。言ってしまえば、消えてしまう気がした。それに、知られたくない気持ちもあった。思っていることはわかってほしいが、ここまで心酔していることは隠しておきたい。そんな感情からか、私は彼女に自分の気持ちを言葉にしたことはなかった。
腕の中で彼女が身じろぐ。離して欲しいと合図。
離したくない――と喉まで出かかったそれを飲み込む。
彼女の両肩に手を置いて、ゆっくりと体を離す。彼女は私を見上げていた。不思議そうな顔をしている。その頬に触れる。唇が微かに動くが、何を言っているか読みとれない。顔を寄せる。彼女は私を見つめたままだ。何かを伺っている様子だった。触れた頬を撫でると、わずかにはっとなって目を閉じる。すさかずその唇に自分のそれを重ねる。
口づけはそれほど好きな行為ではなかった。
これまでも、せがまれてすることはあれ、自分から好んですることはほとんどなく。ただ、欲望が強まってくると、絡みつくようなものをすることはあった。だけど、彼女に触れるときは性的な意味合いが息をひそめ、何か神聖なもののようにさえ思えた。重ねた唇から、言葉にしていない全てを注ぎこむようにして静かな時間を感受する。
唇を離すと、彼女とまた目が合う。
その目に宿る光に吸い込まれそうになりながら、いつまでもここにいるわけにもいかないと、名残惜しさを押し殺して姿勢を正す。
だが。
今度は彼女の方から、私の首筋に腕を回して抱きついてくる。私の左肩に顎を乗せて抱きつかれて、それを私から引き離すなんて出来るはずもないし、するつもりもないし、彼女の腰に手を回し、遠慮なく抱きしめ返す。隙間なく寄りそった体。だがそれでも、まだもどかしい距離を感じる。もっと、近くにと願ってやまない。私は彼女のこめかみに口づけた。すると、彼女は顔を上げて私の耳元に唇を触れさせ、
「好き」
それまで黙っていた彼女が唐突に言った。
左耳が熱い。
「大好き」
私が言いたくて、だが言えずにいることを告げられて情けなくなりながら、彼女の首筋に顔をうずめた。
2011/7/21