
策士
「お前はそんな女だったのか」
野上昇平の憤りに、私は目をぱちくりさせた。
金曜日。学校から帰りリビングでくつろいでいると、ドタドタと廊下を踏み鳴らして現れるなり、そう告げられた。どうも罵られているらしい。それはわかる。ただ、なんでこの男に罵られることがあるのだろう。
昇平とは幼馴染で、小さい頃から姉弟みたいに育ってきた。誕生日は昇平の方が先だけれど、もし実際に血の繋がっていたら姉弟だ。昇平はそういう――つまり、精神的に幼い男だった。頭はいいけどね。それから顔も。だからモテるわけだが、そのせいで傲慢というか、人の気持ちをあまり考えないというか、正直女の敵である。それでもモテるのだけれど。だから更に偉そうになるという悪循環にどっぷりはまり込んでいる。そんな男に蔑まれる覚えはまったく、ない。
「どういう意味?」
それでも無視するのもどうかと思い聞いてみる。
「とぼける気か!?」
「面倒くさいな。言わないなら、いいよ。別に。」
CM明けでドラマが流れ始める。刑事もので、トリックを暴くいいところだ。私は昇平に背を向けてテレビを見た。
「テレビなんて見ている場合か!」
昇平はテレビの前に仁王立ちして、テーブルのリモコンを取り消す。
なんと勝手な男だろう。慣れてはいるけれど。
「何?」
「木原と付き合うってどういうとだよ」
「どういう、とは?」
「お前、一度もあいつと同じクラスになったことはないし、話したこともないのに、告白されたからってひょいひょい付き合うとか、そんな節操のない女だったのか」
なるほど。そんな女だったのかの全容は理解できた。だけど、それをこの男が言うか? 自分のことを棚上げするにもほどがある。告白されたらひょいひょい付き合い続けているのはどこの誰だと言ってやりたい――そんなこと言ったら火に油を注ぐだけなので言わないけれど。
「あのさぁ、あんたが私をどんな女だと思っていたかは知らないけど、私は、告白されて嫌な感じじゃなかったら、ちょっと付き合ってみようかなって思うような女だよ。ただ、これまでそういうことがなかっただけで」
「はぁ? なんだそれ。お前、そんな尻軽だったのか!」
「尻軽って……(あんたが言うな)」喉まで出かかった言葉を飲み込み「まぁ、そう思うなら思ってくれて結構。話はそれだけなら、はい」と手を出す。
「なんだよ」
「リモコン。返して。今、いいところだったんだから」
昇平の顔は見る見る赤く染まっていく。マグマが山頂へ向かい上ってくるように。
「お前みたいな奴、もうしらん。泣いてすがってきても面倒みてやらないからな」
そういうと、またドタドタと廊下を踏み鳴らして去って行った。
五分ほどして、今度は母が買い物から戻ってくる。
「ニュース見たいから、テレビつけて」
「無理。リモコンないから」
「え? テーブルにない?」
「ない。昇平が持って帰った。見たかったら取りに行って」
私が言うと母は目を丸くした。
*
面倒事は嫌いだが、世の中には嫌でも引き受けさせられることがある。
翌日、私は木原くんと出かけることになっていたが、その待ち合わせに昇平と昇平の現在の彼女である坂井美加もいた。偶然であればよかったが完全に意図的だ。私はチラリと木原くんを見る。彼は涼しげな顔で二人にはわからぬよう合図を送ってきた。
やれやれ、と思う。
白状しよう。
木原くんと坂井美加も私たちと同じ幼馴染である。私と昇平の関係と男女を逆転させたような関係。つまり――坂井美加はとても可愛らしく、モテる。世界は私のために回っているのよ、みたいなことを本気で思っていそう、というか思っているので、大変我儘で、女子生徒の間ではあまり評判が良くない。最も彼女は女子の評判などこれっぽっちも気にしていない。つまらない嫉妬にびくびくするなんてバカみたい、なんてことを平然と言ってのける。”女同士の友情なんかより、男の子にちやほやされるほうが百倍楽しいわ”とまで言う。ここまでくると返って清々しい。それでとことん突き進めばいいのではないか、と思うのだが。
彼女に振り回されている木原くんはそうもいかないらしい。
「あいつは、僕がずっとこの先も傍にいるものと思っているんだ」
水曜日の放課後だった。突然、声をかけられて駅前のファストフード店へ誘われた。神妙な顔つきなので断ることも出来ずに付き合うことにしたら、しんみりと告げられる。
「あいつって、坂井さんのことだよね」
「ああ」
「それを、何故私に?」
「同じ境遇だと思ったから」
「どうかな」
私は続けた。昇平は私がずっと傍にいるとは考えていないと思う。
実際、高校に入ってから急にうちに来なくなった。彼女と出かけるのに忙しいのだろう。このままどんどん疎遠になっていくはずだ。だから、木原くんのいう同じ境遇にはあてはまらない。
「だから、協力してほしいんだ」
木原くんは私の言葉を聞き流して続けた。
この人も案外勝手だな、と私はご馳走してもらったコーラを飲んだ。少し水っぽくなっている。
「協力っていうのは具体的にどうするの?」
「僕と付き合ってほしい。」
「それがどうして協力になるわけ?」
「……あいつに言ったんだ。僕に彼女が出来たらどうするのかって。そしたら今みたいな関係ではいられなくなる。だけどあいつは笑って取り合わなかった。僕に彼女ができるわけないって思ってる。だから目に物を見せたかったんだ」
言わんとしていることは理解できる。ただ、それで偽物の恋人を作ろうとするのはどうかと思うし、何故その役を私がしなければならないのか。私はまんま、その疑問をぶつけた。
「あいつと野上が付き合い始めただろう? ずいぶんお熱のようで、なんたってこれまでの男の中でも俄然男前だし、自慢したいらしくってさ。やけに比べてきたりして。だから、あの男の幼馴染である笹原さんと付き合って同じ仕打ちを味あわせたい」
わかるような、わからないような理屈だった。
何よりも、である。
「私のことを坂井さんに自慢するわけ? こんな素敵な彼女が出来たって? 無理あるんじゃない? 彼女がそれで承知するかなぁ。こんな女って鼻で笑われる気がする。そしたら傷つくのは私なわけで、どう考えても私にデメリット大きすぎるでしょう」
幼馴染というだけで、昇平を好きな女の子からそうやって蔑まれを受けてきた。どうしてあんたみたいな女が昇平君の傍にいるのよ、と本当に理不尽に罵倒される。高校に入り距離が出来てからそれも減ったけれど、正直なところ堪えていた。頭では気にすることないと思うけれど、心はダメージを受ける。
「コーラ飲んだし、ポテトも食べたんだから、交渉は成立だよ」
ところが、木原くんは決めてしまう。
たしかに、コーラは飲んだし、ポテトも食べたけれど。
「それで契約成立って、私って安い女だなぁ」
目の前の人物にまでこんなに安く見積もられたのに、坂井美加に太刀打ちできるはずがない。この計画は絶対うまくいかないだろうと思いながら、私はもう何もかもが面倒で受けることにした。
で、デートすることになったわけだが。
待合場所に着くと、木原くんの後ろに坂井美加が、その傍には昇平までいた。
木原くんが私とデートすると坂井美加に話し、坂井美加が様子を見に来たのはわかるけれど、何故、昇平まで?
「こんにちは。えっと……名前なんだっけ。一年のとき、同じクラスだったような気がするけど忘れちゃったわ」
坂井美加は私を上から下までじろじろと見ながら言った。
早速のチェックだ。同じクラスであったことを覚えているのに名前がわからないとは、額面通り受け止めていいのか、覚えているけど故意に言っているのか、どちらだろうな、と考えるが答えは出ないので、
「笹原です。」とだけ言った。
「美加。失礼だぞ。……ごめんね、こいつ、人の顔とか覚えるの得意じゃなくて」
たとえば、私が本当に木原くんを好きだとしたら、この敵意むき出しの相手に何と答えるのだろう。「あんまり頭よくないんだね」ぐらいの嫌味で返すのか、そんなこと言って彼に性格が悪いと思われたくないからか弱い振りをするのか、どうだろうなぁと考えてもやはり答えは出ないので黙って頷いた。
「じゃあ、行こうか。笹原さん」
木原くんが言うので、私はもう一度頷いてとりあえず歩き始めたが、
「待ってよ、亮ちゃん。」
すぐさま坂井美加に呼び止められる。
「なんだよ。」
「あたしも一緒に行く」
「なんでお前がついてくるんだよ。お前はお前でデートしてくればいいだろう」
私は昇平を見た。着いてから一言もしゃべっていない。目が合うと思い切り睨まれる。たぶん、昇平は女の子にこういう態度をとられたことがないから傷ついているのだろう。昇平にベタ惚れでなんでも言うことを聞くようなタイプと付き合ってきたから、彼女が他の男について行くと言い出すなど、不愉快に違いない。……普通の人でも不愉快か。
それを考えれば坂井美加恐るべしである。
「じゃあ、ダブルデートしようよ。それならいいでしょ? ね? 昇平君もいいよね」
この微妙すぎる空気をものともせず、坂井美加は言ってのけた。
*
坂井美加恐るべし。私はもうこれを家訓にしたい。
結論から言えば、木原くんと坂井美加が付き合うことになった。デートの帰り。夕方に、である。
あれから映画を観に行ったが、木原くんが私に優しくしてくれるたび(たとえば飲み物を買ってくれたり、階段を降りるときに手を繋いでくれたり)邪魔してくるし、観賞後に行ったゲーセンのUFOキャッチャーでぬいぐるみを獲ってくれたのだが、「あたしもほしい」と駄々をこねる。木原くんは
「彼氏にとってもらえばいいじゃないか」
と言うが、
「違う! そのぬいぐるみがほしい!」と私の持っている(どう考えてもぶさいくな)ぬいぐるみをほしがった。
「我儘いうなよ。これは笹原さんのために獲ったものだ。お前のためじゃない」
木原くんは、ぴしゃりと言い切った。
それで諦めるかと思いきや、ついに坂井美加は泣き出したのである。だけどそれは、芝居の嘘泣きではなかった。涙を武器にする女がいるけれど、そして坂井美加はそういうことをする(実際現場を見たことがある。一年のとき、同じクラスだったとき、女子との折り合いが悪かった彼女がやり玉にあげられて、ポロリポロリと涙を流した途端、傍にいた男どもが彼女の味方をしたのだ。女優さんのようにマスカラを汚すことなく泣く姿に絶対嘘泣きだ、とその場にいた女子全員が確信していた。)タイプなのだが、このときは違った。本気で、おいおい、化粧が崩れるのも構わずに声を上げて泣き出したのだ。
「いやだー。いやだー。亮ちゃんが他の女に優しくするのも、付き合うのもいやだー」
うわーん、とまるで子どもだ。子ども……だけど、そうやって人目も憚らずに泣ける素直さに私は胸を打たれた。我儘で自己中な女だけれど、自分が本当に好きなものが何かわかり、それが目の前からなくなってしまうかもしれない、となったらプライドも何も忘れてこんな風に泣けるのが可愛いと思ってしまう。初めて、彼女がモテる理由が少しだけわかったような気がした。そして、それは何よりも木原くんが感じていたようで、結局私は振られて、二人は仲良く帰って行った。
というわけで、たった一日で、木原くんの復讐(!)は二人が恋人になるという形で終止符が打たれたわけである。
しかし、だ。良かった、良かった。これで私もお役御免――とはいかない。
一人、蚊帳の外に追いたてられた男がいる。昇平だ。
完全に坂井美加は昇平のことを忘れているのだろう。目もくれずに、木原くんに慰められながら手を繋いで帰って行った。というか、私も忘れていた。それくらい坂井美加の号泣はすさまじかった。
ぽつりと残されて、私はこれからどうしたらいいの!?
チラリ、と昇平を見る。不機嫌そうに突っ立っている。
「えっとー、私たちも帰る?」
慰めの言葉も思いつかず、出来れば別々に帰りたいけれど、家が隣同士だからそうもいかず、聞いてみる。
「ありえねぇ」
昇平がつぶやいた。
「なんで俺がこんな目に遭わなきゃなんねーの?」
憤りはごもっとも。けれど、それを私に言われても困る。
何と返せばいいのか、かなり難題だ。
「ダメだ……立ち直れない」
そう言うと昇平はズルズルとその場に崩れ落ちた。
無理もない。これは堪えるだろう。それまで自信があっただけに、初めての挫折なのだ。全てが崩れ去って自信喪失になるのも頷ける。
私は傍に近寄ってかがんだ。
「なぁ、俺って、そんなに魅力ない? 木原に劣ってる?」
「……そんなことないと思うけど」
「目が嘘だ」
それは疑心暗鬼というものだろう。
「嘘じゃないって。だから、元気出しなよ」
「いや、無理だ。もうこの先一生、無理。俺は生涯一人で孤独に生きていくしかないんだ」
いくらなんでもそれは大袈裟すぎるだろう。とはいえこの落ち込みようは見ていられない。坂井美加、さっきは一瞬可愛いと思ったけれど、やっぱり酷い女だ。
うなだれる昇平の背中をさする。
「そんなことないって」
「嘘だね。だってお前も木原と付き合うことにしたじゃん。木原と俺となら木原をとるくせに」
「……被害妄想はやめてよ。だいたい、別に木原くんをとったわけじゃないし」
木原くんと昇平とどちらかを選べ、と迫られたわけではない。(というか、その”付き合う”も嘘なのだけれど。流石にこれは黙っておいた方がいいだろう。まさかこんな結末になるとは思っていなかったとはいえ、事実上、坂井美加の本音を自覚させることに一役買ってしまったのだから。昇平にとっては余計なことだ)
「じゃあ、選べよ」
「選ぶ?」
「今ここで、お前は、俺と木原とどっちが好きなわけ?」
何か話の矛先があらぬ方向へ進んでいる気がする。支離滅裂というか……それほどショックを受けているのだろうけれど……でもそれで多少慰められるものがあるならいいか。
「昇平」
「ホントに俺?」
「ホント」
「ホントだな。嘘はないんだな」
「ホント、ホント」
私は繰り返す。すると、しょぼくれていた昇平の顔に笑顔が戻った。ああ、単純な奴で良かったと私は今度こそ本当に終わったと、良かった、良かった、と心の中で唱えた。
「よし、じゃあ、俺と付き合うんだな」
「もちろ……ええ!?」
「ええ、じゃねーよ。俺を好きって言っただろう?」
「いやいや、それとこれとは関係ないでしょう」
「関係なくない! 俺は愛に飢えているんだ。誰か俺を愛してくれる人がいなきゃ立ち直れない」
「大丈夫だよ。私じゃなくても、昇平ならすぐに新しい彼女が出来るから」
誰もが認めるモテ男である。こんな振られ方をしたと噂が流れれば、可哀相だと女の子たちはますます同情するだろう。そしたら力になりたいという子だって現れるはずだ。それを思えば、むしろ、これぐらいの痛い目に遭った方がいいのかも。たまには反省が必要だ。
「……いや、ダメだ。誰でもじゃダメなんだ。お前でないと」
ところが昇平は、はっとした顔になって、それから真顔で言った。
そして、私の手を握ってくる。
「そうだ。お前でないとダメなんだ。美加は亮を好きで、亮はお前を好きで、そのお前が俺と付き合えば、つまり俺が一番頂点ってことだろう」
「はい?」
「そうだ。そうだ。どうしてこんな簡単なことがわからなかったのだろう。そんなわけだから、今日からお前と付き合う。いいな」
「ちょっと待ってよ。どうして私があんたのプライドのためにそんなことしなきゃなんないの。冗談じゃない」
私は非難の声を挙げるけれど、すっかり決めてしまった昇平は立ち上がって、私のことも引っ張り上げる。目の前に昇平の胸元があった。高校に入ってからもぐんぐんと背が伸びて今では見上げないと目線が合わない。
傍で見るとこんなにも男らしかったっけ? と不思議な気持ちがした。知らない人みたいだ。
「大丈夫。付き合えば、お前は俺を好きになるよ。絶対」
そして、にっこりと笑う。その笑顔は多くの女性を虜にし、同時に地獄へ突き落してきた魅惑の笑みである。けれど、子どもの頃から見てきた私にはなんともないはずの笑顔だったのに――どうしてこんなにドキドキするのだろう。
「よし、じゃあ帰ろう」
手を繋いだまま歩き出す。私もつられて後を追う――ってそんなことで誤魔化されるか!
「ちょっと待った! あんたさっき、木原くんのこと親しげに亮って呼んでなかった?」
たしかに、たしかに、そう言っていた。それまでずっと木原と言っていたのに、忌々しいはずの男のことを下の名前で呼んでいた。間違いない。
「は? 何言ってんだよ。よ、呼んでないし」
昇平は振り向きもせず早口に言って、ぐいぐい先へ進んで行く。
後ろめたいことがあるとき、絶対に顔を見ない。それが昇平の癖だ。
「あんたたちもしかして……」
木原くんと私の密約はそもそも計算だったのではないか。木原くんと昇平の。彼が私を彼女役にした理由も無理やりっぽかったし。考えれば考えるほど疑惑は濃厚になっていく。だってどう考えても変だ。
「早く帰ろう。そうだ。お前の家のリモコン返してやるから、うちに寄って行け」
無茶苦茶不自然な話題転換が物語るのは私の推測の裏付けだろうか。――いや、けれど、それだとおかしい。もし私が考えることが正しいなら、どうして昇平がそんなことをするのか。それでは昇平が私を――。
半歩前を歩く顔を見上げる。耳が赤く染まっていて、私はそれが指し示すものにたまらなくなって俯いた。
2013/8/23