
彼女の場合 1
無言電話が続くときは泥棒に狙われている。家人の生活習慣を調べて不在時間が確定すると盗みに入る。無言電話は予兆だから続いたら気をつけてください。
忘れもしない小学校四年生の冬休み。炬燵でみかんの白皮を退屈しのぎに丁寧にとっていた。
(せっかくだから冷凍みかんにしようかなぁ、お父さんも美味しいって言ってたからお父さんの分も作ろう。お母さんはあんまりな感じだったけど一応しておこうかな)
よーしと張り切って二個目のみかんに手を伸ばすと傍にあったテレビのリモコンスイッチに肘が当たり電源が入る。分厚いブラウン管テレビから流れ始めたのは防犯対策特集だった。私は手を止めてアイドルの女の子の「無言電話怖いですよねぇ」とちっとも怖そうに見えない物言いを見つめた。この子は無言電話の不気味さを知らないのだなぁと忌々しく思う。
家に無言電話がかかってくるようになった。夜十時きっかり電話が鳴る。出ても何も言わない。音一つ立てない。気味が悪かった。目的がわからないことも不気味さを増させる。
「うわぁ〜、大変だよ。うち、狙われているよ」
仕入れたばかりの情報を持って母のいる台所に向かった。炊事場の換気扇の掃除をしている。綺麗好きの母はこまめに拭きとっているので油がべったりの頑固な汚れなどないはずだが執拗と思えるほど力いっぱいこすっている。
「あのね、今、テレビでしてたんだけど、無言電話って泥棒が留守時間を調べるためにかけてくるんだって! うちにかかってくるあれも絶対そうだよ。どうしよう。泥棒がくるよ!」
毎回かかってくる電話に律儀に出ているのだから夜十時は家にいると証明されている。それなのにしつこくかけてくるなどおかしい。相手は在宅を調べるというより自らの存在を示しているようにも感じられる。――少し考えればわかったはずだがそこまで頭が回らず「泥棒だ。泥棒がくる!」とはしゃぎながら訴えた。
「何を喜んでいるの!」
私の態度に母は振り返るや怒鳴り頬を打たれる。ゴム手袋をしていたからその厚みの分が重たい。水しぶきが飛びはねて右目に入る。洗剤が混ざっていたのだろうチクリとして涙が溢れた。穏やかで優しい母の激高に頬を叩かれた痛みより心がひりひりと悲鳴を上げる。諭すことも注意することもなく手を上げるなど母らしくなかった。
「ごめんなさい」私はおののき泣きながら謝った。
母は私を無視して換気扇を洗い始める。蛇口から勢いよく流れる水がタンクを激しく叩いている。
――なんで、どうして、私そんなに悪いこと言った?
横顔を見つめる。眉間に皺を寄せて苦々しげな表情で乱暴に換気扇を洗う。ごしごしごしと腕を大きく上下させて動かす。力任せにこすっても汚れは落ちないだろう。換気扇を傷つけるだけだ。
母がこんな風になるなんて、とんでもないことをやらかしたのだと思った。そして考える。考えれば考えるほど母の態度は最ものような気がした。泥棒は悪いものだ。怖いものだ。それがまるで喜んでいるみたいにきゃっきゃと「泥棒がくる」と煽った。か細い神経の母には堪えたに違いない。そうでなくともここのところ父の帰りが遅く母と私の二人きりで心許ない夜を過ごしているのだ。
「お母さん、ごめんなさい」呼びかけると母も泣いている。映画やドラマに感情移入してもらい泣きする様とは違う。自分の身に降りかかることで泣いている。大人になっても泥棒は怖いんだ。大事な物を奪っていく泥棒は恐ろしいのだ。――幼い私はそう解釈した。
「大丈夫だよ。お父さんがきっとなんとかしてくれるよ。やっつけてくれるよ」
警察は事件が起きないと動いてくれないが父ならばどうにかしてくれる。当時の私には父はこの世で一番信頼出来る大人だった。私たちにはお父さんがいてくれるから大丈夫だと本気で思っていたし母もそうだと信じていた。だから私は母を安心させようと口にした。大丈夫だよ。今から会社に電話しようか。ね、そしたら安心でしょ。と繰り返した。でも言葉は少しも母を励まさなかった。他になす術のない私は、唇を噛みしめて換気扇を洗い続ける母と壊れたみたいに流れ続ける蛇口の水とを交互に見つめた。
それから三ヶ月。
やはり電話は泥棒の仕業だった。その証拠に盗み出した途端にピタリと止んだ。泥棒ネコはまんまと私の家から大切な物を奪って姿をくらましたのだ。そして、両親は離婚した。私は裏切りというものを知った。
*
嫌な事柄というのは嫌な記憶を蘇らせる。"泥棒"という悪事から随分と昔の思い出が鮮やかに脳内再生された。生きていれば誰しも悲しい出来事の一つや二つぐらい経験しているし、それがふいと浮かび上がってくることだってあるし、そうなったら自分の力ではどうにもならず苦味が口の中に広がっていく。
居酒屋のテーブルの上に額をつけて突っ伏すと盛大なため息が出た。酔っ払いの多い騒々しい店内ではささやかな物だが目ざとく察知して、
「ため息つきたいのはこっち。どんだけ間が抜けているんだか」呆れた、と付け足して真島幸成は持っていたジョッキをドンっとテーブルに置く。振動が額を通して私の体に伝う。クラクラしたので顔をあげた。
泥棒に入られていた。たぶん。
自分で言うのも恥ずかしいが私はかなり横着な人間で整理整頓が苦手だ。足の踏み場ぐらいはあるし何処に何があるかは大方分かっているので不便はないが、人が来るとなれば前日から大掃除を決行しなければならない。だけどここのところ人を呼ぶことはなかったしかなりの惨状だった。これは流石にねぇと掃除をしたのが一昨日。そしたら、あるはずのものがなかった。私が生まれて初めて十万円以上を出して買った時計が。後生大事にするつもりで大切に扱っていた。時計だけはいつもちゃんと同じ場所に片づける。間違いない。絶対に。それなのになくなっている。
二週間ほど前、帰宅すると玄関が開いていたことを思い出す。朝の慌ただしさで鍵をかけ忘れて出たことが過去にも幾度かあったので「今日もやってしまったぁ」と落ち込みはしたが終わったことは仕方ないとやり過ごした。でもそうではなかった。あれは私のうっかりミスではなく泥棒の仕業だったのだ。
幸いといっていいか微妙だが被害は時計だけ。他に価値のあるものはなかったのだろう。いや、あの時計だって私には高価で(思い出プライスレス分も含む)大切なものだが、大量生産の代物だし一般的な評価は低い。それでも盗みに入ったからには何か持って行かねばと考えたのか。こんな庶民からなけなしの宝物を奪わなくてもいいではないか。
どんより気落ちしていたが予定していた飲み会に出席する。こういう時こそお酒を飲んで美味しいものを食べて気晴らしが必要なのだ。そう思ってやってきたのに――酒の勢いに任せて事の顛末を話すと真島は私を疑った。お前、ホントにちゃんと探したのか。どっかにあるじゃないのか。うっかり別のところに片付けたんじゃないのか。執拗に追及される。
「ないわ! あの時計だけは間違いなくちゃんと片付けてるの! 絶対に、盗られた」
「大声で自慢する事じゃない」
冷やかに浴びせられて泣きたくなる。割り箸を手に取りほっけの身をほぐす。粗方食べ終えていたので端っこの骨の間に挟まったわずかな残りを突いていると惨めになってきた。
「恵利子ー。恵利子はどこ〜? なんでー真島しかいないのー。恵利子の優しさが私には必要なのに〜」
「恵利子は残業で遅れてくるって言っただろうが」
忌々しげに舌打ちされる。そんなに嫌なら帰ればいいだろうと思うが真島は店員を呼びつけるとビールとほっけを追加注文した。
「どうして真島ってそんなに冷たいの。昔っからそうよね。落ち込んでる人間に優しくしようとは思わないの?」
「俺だって優しくするべき人間には優しくしますわ。そやけどなぁ、この場合は自業自得ですからなぁ。同情の余地なしや。お前は危機管理能力っちゅーもんが欠落しとるなぁ」
「……その、私をなじる時だけ使う変な大阪弁もどきやめてよ。腹立つわ〜」
悔しい! と私は割り箸を握りしめたままもう一度テーブルに突っ伏した。泥棒への怒りよりも真島への怒りが勝ってくる。酷い目に遭ったのだから「大変だったなぁ」と一言ぐらい言ってくれてもいいのではないか。それを――。
「わかった!」
割り箸を持った手でテーブルを叩きつけると思っていたより大きな音が出て周囲が一瞬静かになる。
「おい」真島の咎める声がして「すみません。なんでもありません」と今度は周囲に愛想のよい声で促す。その気遣いを私にも見せてくれてもいいと思うがもうそんなことは望まない。
「そんなに言うなら引っ越してやる。セキュリティ設備がしっかりした、たとえ私が部屋の鍵をかけ忘れたとしてもマンションそのものが防御してくれるような厳重なとこに引っ越す!」
「……いや、それは解決の方向が違うだろうが」
呆れるを通り越して呆れ果てたと真島は言ったが私は本気で引っ越す決意をした。
2012/6/10