脆く散る
何も知らなかった。
友人の真理恵が結婚することになった。職場結婚だ。真理恵は相手の男性に二年片思いをしていたが、ようやく実り、晴れて結婚となった。大変めでたい。私は大いに喜んでいた。
「おめでとう」
報告を受けて興奮気味に告げると、真理恵は嬉しそうな声で
「二次会。フリーで彼女募集中の人を紹介するから、気合い入れておいでよ」
と言われた。
結婚式に出席すると男女問わず結婚したくなる。そのような精神状態での出会いはうまくいく可能性が高い。最高の合コン会場だ。真理恵の申し出に、もしかして、もしかするかも? なーんて私はちょっと期待した。
そして、当日。
約束通り、真理恵は私に男性を紹介してくれた。大切な結婚式の二次会。自分のことで頭がいっぱいになってもおかしくないはずなのに、私のことを考えてくれている。そのことに私は感動した。そして何より、紹介された西村清梧さんは素敵な人だったので、私はもうどうしようもないほど舞いあがった。久々のトキメキ。私は完全に一目惚れしてしまった。
それから、真理恵夫婦は懸命に私を誉めて、特に旦那様がプッシュしてくれて(なんていい人!)私は西村さんに送ってもらえることになった。
だけど、二人きりになると、西村さんは言ったのだ。
「一つ確認したいんだけど、君は、僕が、真理恵ちゃんを好きだったことは聞かされているのか?」
私は頭が真っ白になった。
この人は何を言っているのだろうか。
「あなたは、真理恵を好きだったの?」
「ああ」
考えるより自然に零れた問いかけを、彼は容赦なく肯定した。
だけど、私はうまくそれを飲み込めず、ぼけっとなる。それから馬鹿みたいに西村さんの顔を凝視した。彼の表情は、苦しげだった。それを見て、「好きだった」ではなく「好き」なのだと。真理恵が結婚してしまったから、過去形で言っているだけで、彼はまだ真理恵を好きなのだと。私は理解した。
彼は、好きな女の結婚を見て、憔悴している。
報われなかった恋を、悲しんでいる。
今、この瞬間も。
――知らなかった。
だけど、知らなかったことを知らされた衝撃よりも、もっとざわつく感覚がある。おそらく、知らない方がいいことだと何かが私に警告する。でも、私はそれを考える。
聞かされているのか? と彼は言っている。
つまり、彼が真理恵を好きなことを知っている人がいる。
その人から、聞かされているのか? そういう意味だ。
――それは、誰?
心音が、一挙に早まる。
冷たい汗が流れる。
「……真理恵も、そのことを知っているの?」
「もちろん、告白したからね」
サラリと告げられた。
瞬間、甲高い音を出して心が割れた。
じゃあ、何? 私は真理恵から、真理恵のことを好きな男を紹介されていたわけ? 真理恵はそのことを知っていて、私に西村さんを紹介したわけ? そういうこと?
――ああ、
失敗した。と私はうなだれた。
そうだった。真理恵の恋愛価値観と、私の恋愛価値観は随分違う。真理恵は好きになってしまえば、相手の過去なんて興味はない。事実、友だちの元彼を「カッコイイ! 話してみたい! 紹介して!」と言ったことがあるし、逆に自分の元彼を友だちに紹介したりしていた。私は正直そういう価値観にはついていけない。
そりゃまぁ、恋愛だから何が起きるかわからないし、好きになってしまったらどうしようもないだろうけれど、まだ好きではない状態なら、わざわざ友人と関係のあった人を紹介してもらうような真似はしたくない。いろいろ感情的な絡まりが出てきそうだから。私はおそらく粘着質なのだろう。でも真理恵はその辺はかなり寛容だ。そのことを理解できず困惑する。世の中、いろんな人がいるのだなぁと脱帽する瞬間だ。
と、話がそれてしまったけれど、ええっと、そうそう。だから、そうだ。元彼さえ普通に友だちの恋人候補として紹介する真理恵が、告白されただけの男を私に紹介するのは造作ないことだ。悪意は微塵もなく、善意の塊だと言える。ただ、
「その様子じゃ、君は何も聞かされていないようだね」
対する彼の物言いは、明らかに不愉快そうだ。
ああ、この人は、きっと真理恵の恋愛に対する価値観を理解しないタイプで、好きな女に別の女を紹介されたことに傷ついているのだ、ということが伺えた。
そりゃそうだよなぁ、と思う。好きだと告白した相手に、別の人を紹介されたら立つ瀬がない。完全に相手にされていないということだ。それも、どうもまだ彼は真理恵のことが好きなようだし。相当、傷ついたのではないだろうか。同情する。
「当り前じゃないですか。聞かされていたら、紹介なんてしてもらわなかったです」
私はなるべく普通に返した。だけど、
「僕はてっきり、何もかも承知で、それでもいいと思っているプライドのない浅ましい女かと思っていたよ」
と嘲笑まじりに告げられる。
言われて、私はしばらく茫然とした。あまりにもあんまりな言葉だったから。初対面の相手に、そのような無礼なことを言われたのは初めてで、咄嗟には理解できなかった。
――何、この人。
唇を歪めて、皮肉った顔を見ていると、じわじわ込み上げてくる怒り。
こんな男に少しでも気持ちわかるよ、と思ったことを後悔した。それから、トキメイてしまったことを死ぬほど後悔した。いくら傷ついているからって私に八つ当たりすることないじゃないか。そうだ。これは完全なる八つ当たりだ。自分の苦しみを、私を傷つけることで晴らそうとしている。そんなものを甘んじる気はない。
「私をそんな風に思っていたのなら、何故、紹介された時に断らなかったのですか? それも、ただの紹介じゃない。好きな女に、別の女を紹介されたんですよ。ふざけるなときっぱり断ればよかった。それも出来ず、私と二人きりになってから、ぐちぐち言い始めるなんて、呆れるほど情けない男ですね」
悔しい。あまりの悔しさに涙が込み上げてくる。泣いちゃダメだ、と思うけれど、一度暴れ出した感情をコントロールするのは難しく目から流れ落ちる滴。ただ、私はそれを拭うことはしなかった。滲んでぼやけていても、彼から視線をはずさない。それはささやかな矜持だ。
「でも、一番情けないのは私です。何も知らず、舞いあがって、喜んで、馬鹿みたいでした。ホント、馬鹿みたい」
彼は何も言わない。
私は「さよなら」と告げて去った。
あっという間に終わった、脆い恋心に。
***
傷つけてしまった。
好きだった女が結婚する。
相手は僕の同僚――高岡だ。
彼女は長い間、片思いをしていた。他の女と遊びまくる高岡を熱心に好きでいる。彼女の健気さを僕は好きになった。「あんな男はやめて、僕と付き合おう」と口説いた。だが、彼女の一途さは止まらず、最終的に二人は結婚した。
その結婚式の二次会に招待された。
会社の連中もみんな行くからと、当然に僕にも招待状が届いたのだ。正直、行きたくはない。ただ、行かないことでまだ未練があるのだと思われるのも癪だ。出席を決めた。
すると、そこで、女を紹介された。彼女から。
――何の冗談か。
僕は君を好きだと言っていたのに、その僕に他の女を紹介?
自分が幸せだから、僕にも幸せになってほしい。あなたの気持ちに応えられなかったから、気になっていた。というようなことらしいが……馬鹿にされているのかと思った。ぞっとする。それが自己満足でしかないことがわからないのか。僕の幸せを――僕の気持ちを本当に考えてなどいない。余計なお世話。善意にみせかけた無慈悲な振る舞いとしか感じられない。
ただ、それはどうやら彼女の意志ではなく高岡の提案らしい(最も、彼女も同意したのだから同罪だと思うけれど)。高岡は散々彼女をないがしろにしてきたのに、いざ、気持ちに気付くと掌をかえしたように独占欲を見せ始めた。彼女を好きだった僕に対しては、特に意識過剰だ。早く別に好きな女を見つけて、彼女を完全に諦めてほしいという狙いだろう。呆れた。それでも僕は、にこにこしてやりすごす。平気な振りをして。傷ついたと知られたくはなかったから。
そして、帰り道。
紹介された女――小畑深香を送っていく羽目になった。のんきに、そして嬉しそうに話をする小畑深香を見ていると無性に腹立たしくなってきた。僕たちはあの二人の手のひらで踊らされているのだ。それなのに、何を楽しそうな顔をしているのか。愚かに見えた。
傷つけてやりたい。
憂さ晴らしをしたい。
この女も、真実を知るべきだ。
「一つ確認したいんだけど、君は、僕が、真理恵ちゃんを好きだったことは聞かされているのか?」
小畑深香はきょとんとした顔で僕を見た。
それから黒目を左右に激しく動かした。
混乱、している。
「あなたは、真理恵を好きだったの?」
「ああ」
「……真理恵も、そのことを知っているの?」
「もちろん、告白したからね」
小畑深香は息をのんだ。
「その様子じゃ、君は何も聞かされていないようだね」
「当り前じゃないですか。聞かされていたら、紹介なんてしてもらわなかったです」
小畑深香は告げた。
その言葉に嘘はないように思えたが、
「僕はてっきり、何もかも承知で、それでもいいと思っているプライドのない浅ましい女かと思っていたよ」
馬鹿にして、嘲る。
小畑深香が、瞬間、強く傷ついたのが見てとれた。僕は少しだけせいせいした。何も知らずに間抜けに喜んでいた小畑深香。その愚かさを見下し馬鹿にすることで、自分を慰める。だけど、
「私をそんな風に思っていたのなら、何故、紹介された時に断らなかったのですか? それも、ただの紹介じゃない。好きな女に、別の女を紹介されたんですよ。ふざけるなときっぱり断ればよかった。それも出来ず、私と二人きりになってから、ぐちぐち言い始めるなんて、呆れるほど情けない男ですね」
ちっぽけな自尊心を見透かしたような、恐ろしいほど静かな声で告げられた。僕は黙る。それは、的を射たものだったから。それから、更に、
「でも、一番情けないのは私です。何も知らず、舞いあがって、喜んで、馬鹿みたいでした。ホント、馬鹿みたい」
僕に好意を寄せていた。それを恥じる。と、小畑深香は言った。
小畑深香の目には涙が浮かんでいる。小畑深香はそれを拭うこともせず、真っ直ぐに僕を見つめて視線を逸らさなかった。その顔に、心臓が締め付けられる。だけど、何も言えない。すると、小畑深香は「さよなら」と告げて去っていった。
あれから、小畑深香の傷ついた顔が、消えない。
なんてことを、してしまったのだろうか。
冷静さを取り戻してから、そればかりを繰り返す。
完全な八つ当たり。
何も知らずにいた小畑深香を巻き込んで傷つけた。
小畑深香はどうしているだろうか。
傷つけられて、あの後どうしただろうか。
後悔が、消えない。
もう一度会いたい。
会って謝りたい。
そして、それから、
生まれた感情をもてあましている。
2011/7/27