抜け落ちた恋
――愛されたかったんです。
――私は、あの人に、愛されたかったんです。
悲しい恋をしていた女の子がいた。
名前はセシル。良くいえば素直だけど、悪くいえば子どもっぽい子だった。特に恋愛においてそれは顕著で……好きだと言い続けていれば、いつか想いが届くと信じていたわ。
だから、セシルは、好きだと言い続けた。
その相手がラザラス。
名家の子息で、頭もよく、美丈夫。当然にモテたわ。ただ、ラザラスは冷たい男だった。セシルの気持ちに返事をすることは一度もなかった。受け入れるとも、受け入れられないとも言わない。完全に無視していたの。それでもセシルはラザラスを好きでいた。いつか想いが届くと信じて。
だけど――想いは届かない。
実感する日がやってきたの。
それは、雲ひとつない気持ちの良い午後のことだったわ。
***
馬鹿だ、私。
自分のことを賢いと思っていたわけではないけれど。だけど、今日ほど、自分のことを愚かだと思ったことはない。惨めでたまらない。
好き。好き。好き。好き。好き。
何度繰り返しただろうか。
好き。好き。好き。好き。好き。
馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返してきた。
だけど、彼はあまりにも素っ気ない。これだけ言っているのに、彼から返事がきたことはない。寂しかったし、悲しかった。それでもこの思いはとめられない。私は好きだと言い続けた。
でも。
「君が好きだ」
面喰った。生まれて初めての告白。確か、マリア―ヌの従姉弟で、幾度か一緒にお茶をしたことがある人だった。
「君が、ラザラスを好きなことは知っている。だけど、僕は君が好きだ。考えてくれないか」
考える? 考えるも何も、私は彼が好きなのだ。だから、この人のことを好きにはなれない。断らなくちゃ――と、思うのに私は言葉を紡げずにいた。生まれて初めて、男の人から好きだと言われた。まっすぐに、私のことを好きだって。これまで、私は彼だけを好きでいて、そのことはもちろん周知の事実で、そんな私に告白してくる男の人がいるなんて思わなかった。びっくりした。それから、
――好きって言われて嬉しい。
この人の気持ちに応えるかどうかとは別に、好かれているのだと思うと、じんわりと胸の中が温かくなった。人に好かれるということはこんなにも嬉しいものなのか。初めて味わう感情に戸惑いと、こそばゆさと、喜びが押し寄せてきて、私は何と答えればいいかわからなくなる。頬が熱い。
「返事は急がないから。考えてみて」
そう、告げて去っていく。
私は後ろ姿を見つめた。完全に見えなくなるまで見つめ続けた。
しばらくして、、ボーっとなった頭を左右に振る。
いけない、おつかいの途中だ。家では私の帰りを待っているはずだ。とにかく帰ろう、と振り返った。ら、
――え?
数メートル先に立っていたのはラザラスだった。
なんで? なんで? なんで? なんで? ってなんでも何もない。この庭園からほどなくのところにラザラス屋敷がある。本当は、別のルートで帰った方がずっと近道だけど、遠回りをしてもラザラスの屋敷の近くを通る。もしかしたら会えるかもしれいと期待して。いつものパターン。だから今日も遠回りの道を選んで歩いていたのだ。だけど、これまで一度だって偶然に会えたことなんてなかったのに。どうして、よりによって、今日は会うの?
というか。
――もしかして、今の、見られていた?
私は焦った。
焦って、
「違う。今のは……私が好きなのは、」「関係ないよ」
冷たい声がかぶさってくる。
その目に浮かぶ感情は冷ややかだ。
私は何が起きているのかわからずに、その眼差しを受けとめる。背中がぞくりとする。悪寒。きっと、嫌なことが起きる。逃げなくちゃ、と思うのに、体は動かず。そしたら、彼が、
「何を言い訳なんてしてんの? 別に君が誰とどうなろうと僕には興味ないし、関係ない」
――あ、
その時、私の中で、綺麗な連鎖が起きた。
私はこれまで彼に好きだと言い続けてきた。馬鹿みたいに、呆れるぐらい、繰り返してきた。そんな私に「関係ない」って。「興味ないし、関係ない」って。この人はそういうことを言えてしまうのだ。自分のことを好きだと言っている相手に、そんな言葉を平気で言ってしまえるのだ。
それがいかに酷い仕打ちか。数分前なら、私は理解しなかったかもしれない。そんな風に言わないでよ。冷たくしないでよ。と言っていただろう。でも、今は違う。
生まれて初めて男の人に告白された。その人のことをそういう対象として見たことはなかったけれど、私は嬉しいと感じた。好きになってくれて、好きと言われて、嬉しい、と。だから、その気持ちに応えることは出来ないけれど、無下に断ることに躊躇いを覚えた。なんて言葉を発すればいいのか。出来るならこの人を傷つけたくはないと。それは偽善と呼ばれるものかもしれないけれど、そう思った。
人に好かれると、そうなるのだ。
だけど、彼は違った。
それは、つまり、私に好かれても嬉しくもなんともなく、
――私の告白なんて、何一つとして届いていなかった。
それまで不安になることはあったけど、私はその不安を無視してきた。でも、もう、ダメだ。突き付けられた現実を見ない振りは出来ない。
この人を、好きでいてもダメだ。
意味はない。
出来ることは、一つ。
私は黙ってその場を去った。
あっけない終わりだった。
***
それからセシルはしばらく泣いて過ごした。
だけど、いつまでも悲しんでばかりはいられない。失恋は辛いし、胸が張り裂けるほど苦しいけれど、そういうこともある。世の中の恋が全てうまくいくとは限らない。何より、自分が塞ぎこんでいたら周囲の人に心配をかける。
セシルは、出掛けることにした。
外に出て、自然に触れて、新鮮な空気を吸えば、少しは気持ちも変わるのではないかと思って。前を向こうと、頑張ろうとしていたのよ。
でも、弱り目に祟り目ってこういうことを言うのかしら?
出掛けた先で、セシルは事故に遭った。幸いなことに命に別状はなかったけれど強く頭を打って、そして――目が覚めた時、セシルの世界は大きく変化していた。
記憶が、なかったの。
それも、ラザラスの記憶だけが、ぽっかり。
ただ、セシルは日記をつけていたから、そこに書かれている文章から、自分がラザラスを好きだったことを知ったの。
――どうして、こんな男を好きでいつづけられたのかしら?
日記を読みながらセシルは思った。それを書いた"あまりにも粗末な扱いをされていた女の子"に疑問を投げかけた。
何がよかったの?
どこに惹かれたの?
自分に辛辣な態度の彼を、少しも優しくしてくれない彼を、必死になって愛していた。そのパワーはどこからきたの?
セシルは――私は、わからなかった。
この日記を書いた女の子と自分が同一人物なんて思えない。だって私はこの子を可哀相で愚かだなって思うもの。とてもではないけれど、私はこんな男を追いかけたりできない。
だから、抜け落ちてしまった記憶を取り戻したいとも思わなかったわ。
このまま綺麗さっぱり忘れたままの方が都合がいい。
私は、新しい私で、新しい恋をするの。幸せな恋を。
きっと神様もその方がいいって、だから私から彼の記憶だけを抜き取ったんだわ。うんそう。そうに違いない。きっと、そうよ。
そう、思う。
のに。
泣きたくなるのは何故なの?
2011/7/29