世界は片思いで出来ている。 へび女 > novel index
へび女

 私は、へび女だ。
 夜になるとへびになる――わけではない。ただ、へびのように粘着質なのである。(というか、何故へびが粘着質の代名詞なのだろうか。そんなことはどうでもいいか?)
 ともかく私はへび女だ。
 もう、かれこれ十三年、一人の男を好きでいる。幼稚園で出会い、一目ぼれしてから、近所の剛史をずっと好きでいる。だけど剛史は驚くほど私を好きではない。まったく。これっぽっちも。
 だけど、私の気持ちは変わらなかった。
 剛史に初めて彼女が出来た時も、ちっとも落ち込まなかった。二番目の彼女も。三番目も。四番、五番……どんどん変わっていく彼女を見ても、平気だった。だって剛史は彼女たちを少しも好きではなかったから。誰にも愛を抱いていなかった。付き合ってくれといわれたから、それで嫌な気持ちはしなかったから、付き合う。そんな風な付き合いだった。剛史の心は誰のものでもない。だから私が諦める必要はないと思った。
「なぁ、好きってなんなの?」
 高校二年の時だった。一緒に(というか無理やり私がくっついて)帰っていると、唐突に剛史が言った。私は若かったこともあり、
「正しいとか、間違っているとか、そんなことは関係なく、世界を敵に回したって、その人の味方になるって気持ちじゃないの?」
 そんな臭いことを言った。剛史は
「夢を見過ぎ」
 と笑った。それから、
「俺はそんなこと思うこと、絶対ないわー」
 とも言った。

 大学二回生の夏、剛史は本気の恋をした。
 相手は五つも年上の女だ。バイト先のコンビニで社員として働いていたその人を好きになり、猛烈なアプローチの末、付き合いだしたとか。嘘みたいにしまりのない顔になって、嬉しそうだった。
「もう、お前もいい加減、俺につきまとうのはよせよ」
 繰り返されてきた台詞。でも、今は、とても重く響く。
「ん〜」
 それでも私は曖昧に返す。いよいよ潮時だなぁ、と思ってはいたけれど、やめるにしても自分のタイミングでやめる。言われてやめるのは何かちょっと躊躇いがあったから。私は心底「もういいや」って思えるタイミングを探していた。

 修羅場に出くわした。
 コンビニに行こうと家を出た。ここのところ剛史の姿を見ていなかったから、剛史のバイト先のコンビニに行くことにした。剛史は来るなという顔をするけれど、お客様という立場は強い。私はもう何度も繰り返し通っているので、何処に何があるかすっかりわかっているくせに、「ポテトチップスどこですか?」「アイスはどこですか?」「お酒は置いてましたっけ?」と聞いたりする。剛史はピリピリしながらも応えてくれる。特に、彼女――江利香さんがいるときはとてつもなく愛想がいい。二人がいる姿を見るのは多少胸がいたいけれど、それよりも剛史に優しくされる嬉しさの方が大きくて通っている。物好きだと自分でもちょっと呆れる。
 今日はバイトの日。江利香さんも入っているはずだ。愛想のいい剛史が拝める。私はうきうき(そして少しだけ切なく)しながら出掛けた。
 そしたら、修羅場に出くわした。
 江利香さんの彼氏が、コンビニにやってきた。いや、彼氏は剛史なのだが。もう一人の――つまり江利香さんは二股をかけていたのだ。
「どうしたの?」
 驚いたように江利香さんが言う。
「お前の働いているところ見てやろうと思って」
 江利香さんと同じ年ぐらいだろうか。陽に焼けた肌が印象的。なかなかの二枚目だ。そしてその気安い物言いが、二人の関係が友だちではないと諭した。剛史は近寄って、
「誰ですか?」
 明らかに挑発的だった。嫉妬と焦りと不安が混ざったような。そんな剛史を一度も見たことがなかったので私の脈拍は早まった。
 それからは絵にかいたような修羅場だった。
 剛史と、その男の剣呑なやりとりがかわされて、江利香さんはそれを止めようとしたけれど、男はそれがまた気に食わないと、
「お前、こいつと俺とどっちとるわけ?」
 江利香さんに詰め寄った。江利香さんは押し黙る。二人はそれぞれに「江利香」「江利香さん」と声をかける。そして、江利香さんは、
「私は、賢治が一番だよ」
 選んだのは剛史ではなかった。
 男――賢治さんは勝ち誇った顔をして、
「だよな。こんな子ども、本気で相手にするわけないよな」
 馬鹿にしたような、見下したような、人を傷つける目的で発した言葉だ。男の方も余程頭にきているのだろうけれど、聞いていて私は体が冷えていく。
「ちょっと、どうして剛史がそんな言われ方しなきゃならないんですか! 悪いのは二股しているこのお」「やめろよ」
 鋭い声。睨みつけるように私を見ている。剛史だ。
「やめろよ。江利香さんのことを悪く言うな」
 私は息を飲む。
 それから、馬鹿じゃないのか、この男。と、思った。自分がどんな仕打ちにあっているのか。それなのにその相手を悪く言うなと庇う? 馬鹿じゃないのか、と思った。思ったけれど、

 ああ、でも、よかった。

 私は妙に安堵したのだ。絶対、悪いのは、彼女だ。二股をかけている彼女だ。そんなこと剛史だったわかっているだろう。それでも、剛史は彼女を庇った。彼女に詰め寄ろうとした私を怒鳴りつけて。

「正しいとか、間違っているとか、そんなことは関係ないんだよ。人を好きになってしまったら、そんなこと関係ないんだよ。世界を敵に回したって、その人の味方になる」

 かつて、私はそんなことを言った。剛史は夢を見過ぎって笑ったけれど。笑った後で、「でも、そう思えるぐらい誰かを好きになれるってのもすごいよな」というような切ない顔をしたのを私は見逃さなかった。きっと、剛史は誰かを愛したかったのだろう。本当は好きになりたかったのだろう。だけど剛史は誰にも心を砕かない。誰のことも必要としない。そんな自分を寂しく思っているのだなと私も寂しくなった。でも、今、目の前にいる剛史はあの頃の寂しい男ではなかった。
 剛史は心を渡したのだ。
 それは、辛い結末を迎えそうだけど。
 とても、とても、残酷な結末を迎えそうだけれど。
 だけど、剛史の心は、もう江利香さんのもので。だから私は――今日でへび女はおしまい。脱皮した抜け殻を置き去りにしてコンビニを去った。



2011/8/21

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