
悪魔と犬
人生には何が起きるかわからない。本当にそうだと思う。私は町外れの小さな家でドレスの仕立てをして暮らしていた。幸いなことにお客様からの評判も上々で、食べていくには困らなかった。一生そうやって一人で生きていくのだと思っていた。でも、つい最近恋人が出来た。それも、悪魔の。信じられない。悪魔だなんて。命をとられるんじゃない? 騙されてる? 疑った。でも……。
「カヤの嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」
「もう、しつこいわよ?」
「だったら約束は守れ」
「そんなこと言って、じゃあ、あなた耐えられるの? 賛美歌を歌って、神様に誓えるの?」
「うっ、そ、れは……」
言葉に詰まったので、私はドレスの仕立てを再開させる。ロキはシュンとして、フォークでケーキを突いている。まるで子どもだ。悪魔がこんなに子どもっぽいとは思わなかった。それともロキは特別なのだろうか? たぶん、そうなのだと思う。
「食べ物で遊ばないの」
「……」
「ロキ、やめなさい」
もう一度言うと手はとめたけど小声で「カヤの嘘つき」と呟いた。まだ言うのかと少し呆れる。
何の話しかといえば「結婚」だ。ロキに告白されたとき「結婚してほしい」といわれ「わかった」とうなずいた。けれど、実際に結婚するとなると色々と問題がある。まず、ロキに戸籍がない。籍の入れようがない。それなら結婚式だけでも挙げると言い出した。挙式するなら、洗礼を受けて改宗する必要がある。悪魔が神様に誓いを立てることが出来るの? と聞くと真っ青な顔をする。ロキ自身が出来ないのに、ごねるのだから困る。
「……」
ロキは黙ってじっとしている。
どうしたものか。途方に暮れていると、ドアがノックされた。
「カヤさんいるー?」
近所に住むブリッジさんだ。天の助けと玄関を開ける。ふっくらした肌つやのいい女性がニコニコして立っていた。両手には飼っているシーズー犬のヘルメスを抱いている。
「ごめんなさいね。実は、またヘルメスを預ってほしいのよ。娘がいよいよ出産でね。二、三日お願いできないかしら?」
「ええ、いいですよ。おいで、ヘルメス。久しぶりね」
ヘルメスを抱きとって顎を撫でると、クゥーンと気持ち良さそうに声を出した。
ブリッジさんは元々三人家族だった。だが、三年前に一人娘が嫁ぎ、その後に旦那様が亡くなった。その頃、丁度私がこの家に越してきて、一人者同士、仲良くさせてもらっている。その娘さんが二人目の子どもを妊娠した。上の子どもがまだ小さいので度々応援に行く。その間、ブリッジさんが飼っているヘルメスを預ることがあった。
ブリッジさんを見送って、ヘルメスを抱いて戻る。ちょうど良かった。ギスギスした空気もヘルメスがいれば和む。と、思ったけれど、
「……なんだそいつは」
「ヘルメスっていうの。二、三日預ることにしたから。可愛いでしょ?」
もう一度顎を撫でると、クゥーンクゥーンと鳴いた。大人しくていい子だ。よく手入れされた毛並みは柔らかくて気持ちがいい。頭を撫でると尻尾を振ってくれた。ヘルメスは人懐っこい犬だった。ロキにも懐くだろう。自分よりか弱い者をみれば少しは大人になるかもしれない。庇護欲というものが育つかなと思った。でもロキは真っ赤な顔をして、
「全然可愛くない! そんな犬!! どこが可愛いんだ」
「どうしてそんなに大声出すの? ヘルメスがビックリしてるじゃないの。ねぇ?」
事実ヘルメスは震えていた。私には分からないけど、何かを敏感に感じ取っているのかもしれない。犬は人間の何倍も嗅覚が優れているというし。悪魔に怯えている?
「あなた、何かしてるの? 本当に怯えてるわ? 大丈夫よヘルメス。恐くないからね?」
チュッと頭にキスすると、ヘルメスは落ち着いたらしく震えがとまる。「いい子ね」と頭を撫でてやるとまた尻尾を振り始めた。
「よしよし」
「……! なんだ。何がいい子なんだ。なんだよ。そんな犬。可愛くもないし、いい子でもなんでもないのに…!」
今度はロキが震えていた。わなわなしている。……まさかと思うけど、犬相手に嫉妬なんてことは、
「あ、おいこら、犬! やめろ。カヤの顔を舐めるな!」
……やっぱりそうなの?
「カヤもカヤだ。なんだよ。俺には舐るなって怒るくせに、こんな犬には好きなようにさせて!」
「ヘルメスが舐めるのと、あなたが舐めるのは全然違うでしょう……」
「犬ならいいのか! それなら俺は犬になる。犬になって舐めまくってやる」
その言葉に私の顔は引きつった。頭が痛い。どうしてこの悪魔は……。
「恥ずかしいことを言うんじゃないの。怒るわよ?」
「……ひどい。なんでだよ。どうして俺が怒られるんだよ。カヤは俺よりそんな犬がいいのかよ」
今度は涙ぐむ。泣き落としだ。そして私はこの悪魔の涙に弱かった。なんだか可愛くてほだされてしまう。わざとやっている気がする。これは悪魔の手じゃないのかと近頃は疑っていた。
それにしたって、ヘルメスに嫉妬するなんて。考えられない。どうして自分と犬を比較するの? 別次元でしょう。悪魔はよくわからない。 私は呆れながらも、どうにかロキを宥めて、ヘルメスと仲良くさせようと試みた。でも、うまくいかなかった。ヘルメスの食事の用意を先にしようものなら烈火のごとく怒るし、散歩に行くと後ろからついてきて悪態をつきまくるし、お風呂に入れようものなら「俺とは入ってくれないのに!」とまた恥ずかしいことを臆面もなく叫ぶ。だからどうして犬と張り合うの? さっぱりわからない。いい加減、私も呆れ果てて無視することにした。ロキは拗ねて、これみよがしに片隅でいじけた。構ってほしそうにしていたけれど、私は放っておいた。するとますますいじけた。それでもヘルメスがいる間は私に近寄ってこなかった。静かでいい。少しは反省すればいいと思った。
だけど悪魔はそんなに簡単に反省などしなかった。
三日して、ブリッジさんがヘルメスを引き取って行くとすぐに寄ってきて、
「浮気したら別れるんだぞ。カヤが言ったんだ。だから俺は舞踏会に行くのだってやめたのに……で、でもカヤが謝るなら今回だけは許してやってもいい」
この悪魔は……。何故浮気だとか言うの?
「私は浮気なんてしていないわ。別れたいなら好きにすれば?」
「……!」
またポロポロ泣き始める。
「カヤは俺と別れる気なのか。だからあんな犬と浮気したのか……」
「だから、私は浮気なんてしてないし、あなたと別れる気はないわ? でもあなたが私と別れると言い出したんでしょう?」
「お、俺は別れるなんて言ってないぞ、カヤが謝れば許すって言ったのに……」
ああもう。仕方ない。
「わかったわ。ごめんね。私が悪かった。もうしないから」
ロキの涙を拭いながらあやすようにいった。これじゃ恋人というよりも母親だ。それもとびきり甘えたで世話の焼ける子ども。私は涙でぬれているロキの頬にそっとキスをした。するとビックリして涙は止まったけど今度は照れた。青くなったり赤くなったり忙しい。
「カヤぁ……」
そしてギュウギュウ抱きついてくる。
「痛いから離して」
だけど、ロキは私の言葉など全く聞いていないらしく、
「やっぱり俺はカヤと結婚する。カヤはすぐに浮気するからな。ちゃんと結婚して誰もカヤにちょっかい出さなくさせる」
一人で深く納得していた。どうもやっぱりロキは「結婚」というものの認識を甚だしく取り間違えている気がする。束縛するためのものではないと、繰り返し言って聞かせているのに……。
「あのね、何度も言うけど、結婚したからって絶対じゃないのよ? それに、あなたに戸籍はないし、神様の前で誓いなんてできないでしょう?」
「大丈夫だ。なんとかする」
「なんとかするって……」
「カヤは何も心配しなくていい」
心配しなくていいって……すごく心配なんですけど?
ロキは言いながら、私の額や鼻先、頬とキスをしてくる。キスというか……これは完全に舐めている。この悪魔は……。文句を言うとまた泣き出すに違いない。仕方なく、気が済むまで好きにさせることにした。
2010/4/5