Last Word
三月十四日。この日のことを私は生涯忘れない。
一年前は雨が降っていた。
前日までの暖かさが嘘のように酷く寒くて――父が死んだ。遺体の胸ポケットには小さな箱が入っていた。中身はクローバーをあしらった可愛らしいネックレスだ。私への贈り物。バレンタインデイのお返しだったのだろう。きっと帰宅したら渡すつもりだったのだ。
父は私を可愛がってくれた。そして、心配していた。早くに母が亡くなった。父まで失えば天涯孤独になる。特殊な家に生まれたこともあって、自分の身にもしものことがあった場合を常に危惧していた。だから早く私を嫁がせたかったのだと思う。私を幸せにしてくれる男の元へと願ってくれていた。ありがたかった。けれど持ち込まれる縁談をどれも断った。想う人がいたから。我儘を言った。
そして、不幸が起きた。
父の死は唐突だった。庇護を失い、一人きりで生きていかなければならない。寂しさを感じる暇もなく、生活を考えなければならない。不安だった。だけど、父は万が一の時を考え、住む場所を用意してくれていた。その事実を聞かされた時は驚いた。深い愛を感じた。そこに移り、普通の生活を開始する。天涯孤独と引き換えに束縛のない自由な暮らしが待っている。新しい生活が。
だけど私はまだ奥澤の家にいる。ここで父の一周忌を迎えることになるなんて誰が想像できただろう。
「準備は出来たか?」
「はい」
喪服に身を包んだ男――奥澤陽芽が部屋を訪れた。これから劉正霊園へ向かう。父の墓がある場所だ。お墓参りに向かうのだ。
一周忌ともなれば関係者を呼んで宴席を設けたりするのが一般的だろう。だが、奥澤の家は血を重んじない。死んでしまえば過去の人だ。後継人は実力者の中から選ばれ、新しい時代が始まる。その瞬間、先代は当主であったという事実以外の全てを喪失する。「奥澤」から法事や供養がされることはない。過去に一度だけ実の子が後を継ぐことがあったが、その時もされなかったと聞いている。しきたりを重んじる。例外はない。だから当然、父の一周忌も行われない。
私は身内として一人で、墓参りだけするつもりでいた。それに陽芽が同行すると言い出した。三日前のことだ。現当主が先代の墓参りをするなど聞いたことがない。しきたりに反するのではないか。私は最初断った。通例にないことをして彼の立場が悪くなることは避けたかった。だけど、
「奥澤当主として行くわけではない。向井陽芽として行く。何も問題はない」
「ですが、」
「俺は恋人の親の供養もさせてもらえないのか?」
彼の口から面と向かって「恋人」と言われたのは初めてだった。途端に心臓が跳ね上がる。頬が熱かった。
「大丈夫だ。心配することはない。……だが、当主は俺を許さないだろうな」
――許さない。
父は厳格な人だ。しきたりに反する真似は許さない。そういう意味だろうか。真意を探るように陽芽を見つめる。彼は私の火照った頬に手を添えた。眼差しは穏やかだった。近頃こういう顔を見せてくれるようになった。嬉しい、と思う。
「それでも、お前は俺を選んでくれるか?」
「それは、どういう……」
言葉を発し終える前に唇が降りてきた。優しいキスだった。突然の出来ごとに私は目を閉じることも出来なかった。端正な顔立ちが近くにある。こんな関係になる日がくるなんて夢ではないかと思う。
「何故泣く?」
「こんなに大切にしてもらって、なんだか、胸がいっぱいで」
彼はかすかに笑った。そのままもう一度しっとりとした唇が触れたので今度は目を閉じた。さっきよりも深く長い口づけだ。抱きしめられた腕の中は安心出来た。
それから三日後、彼は言葉通り父の墓参りに同行してくれている。
劉正霊園までは車で二時間だ。車内ではほとんど会話はなかったが気づまりはない。少し前ならそわそわした。今は、彼の持つ独特の空気感に慣れた。
着いたのは昼前だった。
月命日には一人で訪れている。その時は他にも訪問者がいたけれど、今日は誰もいない。砂利道を踏む独特の音だけが響いた。
墓石を清め、花を添え、線香に火をつける。
手を合わせながら、今の私を見たら父はさぞ驚くだろうと思った。陽芽と並んで墓参りにくるなど想像できるものではない。そして、きっと心配しているとも思う。奥澤から離れずにいることを。危険と隣り合わせの世界で生きる男の傍にいる。親としては歓迎しないだろう。それでも、この先、どんなことになったとしても、彼の傍にいる以上の幸せはない。私が決めたことだ。父はわかってくれる。
彼は父との対面を、黙って見守っていてくれた。お参りしおわると、今度は彼が手を合わせた。不思議な光景だった。しばらくそうしていたが、
「『朱乃には私が最高の男を選ぶ』というのが当主の口癖だった。お前に縁談話が持ち上がるたびによく零していた」
墓石を見つめたままで言った。それから更に続ける。
「当主が生きておられたら、今頃お前は誰の元へ嫁ぐことになっていたのか。そしたら俺はどうしていただろうか。……そんなことをよく考える」
振り返った彼の目は穏やかだった。だけど、強さがあった。眼光鋭い眼差しというのではなくて、決意した人間の迷いのなさだ。
「だが行きつく答えは一つだった」
神経が研ぎ澄まされていく。彼がこんな場所で適当なことを言うはずはない。覚悟ある言葉だろう。そして、その先に続く言葉に喜びが混ざっている予感がする。だからこそ余計に緊張した。
たぶん、私は、彼がここへ来ると言った時から、ほんの少し期待していた。欲深いと思いながら、もしかしたらなんて思っていた。だけど、いざ、それが現実になると信じられない気持ちが溢れる。聞いてしまっていいのか。不安。わからないけれど、私は怖かった。
「たとえ当主が選んだ男でも、お前を渡さない。必ず奪い返した。お前を幸せにできるのは俺だ。他の男になんて絶対に真似できないほど幸せにしてやる。だから、今日、ここに来た。お前をもらうと、今、そう宣言した。お前は俺を選んでくれるか?」
――ああ、
そんなもの決まっている。
「私はもう、陽芽様のものです。誰がなんと言おうと、陽芽様のお傍以外、私の居場所はありません」
「そうか」
口数の多くない彼がこんな風に言葉にしてくれた。充分だと思った。私は生涯、忘れない。悲しい時、辛い時、苦しい時、この日のことを思い出せば、どんなことでも乗り越えられるに違いない。一年前、父の死を知り、世界が真っ暗になった日。二度と楽しい気持ちで過ごせないと思った日。今もそれは変わらない。やはり悲しい。だけど、それと同時に、愛おしい日にもなった。彼はそうやって私の辛苦を包み込んでくれる。癒えることのない寂しさごと全部。この人を愛せることを感謝する。私は幸せだ。込み上げてくる感情が胸のあたりでつかえて苦しかった。けれど、
「だが、それだけでは足りない」
――え?
彼を見る。冷たい目をしていた。熱を帯びた優しい眼差しではなくて、何を考えているのかわからない表情。こういう顔をするとき、彼は緊張しているのだと最近知った。動揺していることを悟らせないための仮面。だけど、今、どうしてそうするのかわからない。足りないというのが何を意味しているのか。
「まだ足りない。お前が俺の傍にいて、俺を想ってくれるだけでは足りない。欲が、出た」
――欲?
それから彼は大きく息を吐いた。右手で左胸の内ポケットへ手を入れた。取り出されたのは小さな箱だ。開けて私の方へ差し出してきた。中には指輪が入っていて、
「婚姻なんて人間が勝手に作ったくだらないルールだと思ってきた。だが、そんなものでも欲しい。世界のすべてから、お前が俺のものであると認められたい。だから――結婚、してほしい」
音がやんだ。世界が動いている限り音が鳴る。風が草木を揺らしたり、車の走行音だったり、生命の息遣いが必ず聞こえる。だけど、今は、聞こえない。私の耳はほとんどの音を感知できなくなっていた。唯一聞こえるのは彼の息遣い。
陽芽が持っている指輪は、ダイアをあしらったシンプルで上品なデザインだった。これは彼が選んでくれたのだろうか。いつ買いに行ったのだろう。ジュエリーショップなど気まずかったに違いない。店員とどんなやりとりをしたのだろうか。きっと困ってぶっきらぼうな物言いをしたのではないか。店員は委縮しただろう。大変だったにちがいない。考えつくのは、そんなとりとめのないことばかりで、
そして、彼は、膝を折って、私の前に、ひざまずく。
奥澤の当主が女を相手にこのような態度をとるなど、誰かに見られたら、きっととんでもないことになる。早く止めさせなければいけない。だけど私の体は動かない。
「愛しています。どうか私と結婚してください」
冗談――なんかではない。そんなこと疑う余地はない。彼の目は真剣だった。ひざまずいたままで私を見つめていた。現実なのだ。だから、答えなければならない。でも、予想外の展開に声にならない。壊れた人形のように何度もうなずくぐらいしか。それでも彼はしっかりと意味を汲み取って、箱から取り出した指輪を私の左手薬指にはめてくれた。ピッタリだ。わずかな狂いもなく。私のために用意されたものだ。
「泣かないでくれ。さすがにこの場所で抱きしめるわけにはいかない」
「だって……びっくりして……」
彼は涙の後をそっと拭ってくれた。それから指輪のはめられた私の手をとると丁寧に口づけした。それで私は今度こそ泣きやむことができなくなってしまった。
2010/3/2