鏡花水月 01
遠くで雷が鳴る。
奥澤紫はそれで雨が降っていることを知る。だが、雨音は聞こえない。またゴロリと雷が鳴る。ベッドから起き上がり、カーテンに手を伸ばす。肌触りのいい感触。めくり外を見る。暗い闇に目を凝らすと、確かに雨が降っている。
――涙雨のよう。
気配なく降るそれを見つめて思う。ただ、邪魔するような落雷が気にかかる。ちぐはぐな空模様に胸騒ぎが強まる。
それから、一刻。
悪い予感は的中する。
紫の元に、父親の訃報が伝えられた。
奥澤は特殊な家――隠密である。甲賀・伊賀と呼ばれる忍びが有名だが、奥澤も同様に戦国時代から現在も続く。裏社会というものはいつの世にも必要とされる。「平和」と謳われているこの日本でも、依然、奥澤を必要とする家は多く存在する。
奥澤は血を重んじない。力を持ったものが当主の座に就く。第十六代当主の後を継いだのは、澤波蓮京。まだ二十八の若さでの就任であった。当主の座に就くことは蓮京自身も感じていたし、望んでもいたが、これほど早くに巡ってくるとは思わない。だがそれも、多少時期が早まっただけと受け入れた。
就任してからの一月は、多忙を極めた。
それでもどうにか時間を作り帰宅する。
話を、せねばならない相手がいたからだ。
襖を開けると、娘は静かに手をついてお辞儀をした。一月前までは立場は逆であった。娘――先代の忘れ形見・奥澤紫。蓮京より十歳下の十八歳である。
二人が出会ったのは、今から十五年前に遡る。
蓮京はその腕を認められ齢十三で、奥澤の本邸に入ることになった。通された奥の間。それまで遠くから見ることはあれ、言葉を交わしたこともない当主との対面。傍には奥澤幹部であり先代から仕える翁と、当主の懐刀と呼ばれる相馬もいる。重圧が息苦しい空間。すると、唐突に、襖が開いた。入ってきたのは、幼子だった。
「紫」
当主が呼ぶ。それが幼子の名なのだろう。蓮京は納得する。
幼子は当主の呼び掛けには答えず、ぐるりと周囲を見渡すと、蓮京の傍に近寄って抱きついた。
「おにいちゃん。あそぼう」
蓮京は驚いた。隠密たるもの常日頃から表情を読まれないように感情をコントロールする訓練をしている。蓮京の自制心は相当に強いものである。だが、この時はそんなことも忘れただ驚いた。どう対応していいものやら。ただ、抱きついてくる体を思わず抱きしめている自分の手に気付いて、驚きは深まる。どうやらこの幼子は当主と関わりがあるらしいし、下手な真似は出来ない。と、今は頭に上ってきているが、抱きしめた瞬間、そのようなこと露にも思わなかった。ただ、のばされた腕を無視することができない。幼子を傷つけることは出来ないと、何故だかそう感じられた。
「お前を気に入ったようだ」
蓮京にべったりと抱きつく紫を見て当主は笑った。豪快に。翁も、相馬も。この幼子は三人にとって大切な娘らしい。と、蓮京は納得する。
「紫、遊んでもらう前に、ご挨拶が先だろう」
当主の呼び掛けに、今度は反応する。抱きついていた体を少しだけ離し、チラリと見る。当主が頷くと、蓮京に視線を戻し、
「おくさわ ゆかりです」
それで幼子が、当主の愛娘であると理解する。当主の身内については厳重に隠されている。万一のことを危惧し、一切公開されていない。知っているのは本邸に出入りを許されている者の中でも一部。それが、来て間もない自分の前に現れるとは意外だった。
後で知った話だが、この時、紫は母を失ったばかりだった。それまで別宅で暮らしていたが、泣きじゃくる紫を憐れに思って、当主が本邸に連れてきた。ただし、姿を見せぬように離れに匿っていた。大人しい子どもで、普段は一人で離れを抜けだしたりしないのに、どういうわけかやってきたらしい。
「おにいちゃんは、だぁれ?」
紫は花が咲いたような、明るい笑顔を見せた。そのような屈託のない笑みを向けられたのは生涯で初であった。蓮京はどう反応すればいいか困り果てると同時に、誰かも知らずに抱きついて遊んでくれとせがんでいるのか。大した度胸だと少し感心する。まして、自分は人から親しみを持たれるような雰囲気を持っているわけでもない。どちらかというと距離を置かれる。時々それを注意されることもあるくらいだ。平時の際は"普通"にしておくのも必要だ、と。お前は少し目立ちすぎる。その無愛想な空気をどうにかせねばならない、と。だから、子どもに懐かれるはずがない。
「おにいちゃん?」
「私は澤波蓮京と申します。本日からこちらでお世話になるものです」
まだ年端もいかぬ子どもに堅苦しい挨拶だった。突き放すようにも聞こえるかもしれない。だが、紫はまったく怯まない。それどころか「じゃあ、まいにち、いっしょに遊べるのね」とますます破顔させた。
その日から、紫は蓮京を見ると遊んでくれとせがむようになった。
何故、自分なのか。蓮京は不思議に思った。隠れるように暮らし、大人にばかり囲まれて育った紫にとっては、一番年の近いのが蓮京だったからだろうか。おそらくそうだろうと解釈することにした。
「ご就任、おめでとうございます」
紫が告げる。顔は伏せたままだ。
己の父が死んだのだ。めでたいと思うはずがないだろう。言葉だけの祝いはいらない。という感情が浮かんできたことに蓮京は戸惑う。心が伴わぬ形式的な祝いの言葉はいたるところで言われている。何故、今は苛立つのだろうか。それを押し殺すように、
「落ち着かれましたか」
「はい」
短い返事。
唯一の身内を失った、十八歳の娘が、この状況で落ち着けるはずない。自分もまた形式的な言葉を述べていることに思い至る。先程の仕返しではないが、だが他に何も思いつかなかった。紫もそうであったのか、と思うと感じた苛立ちが理不尽この上ないものだと改めて思い直す。
紫は相変わらず俯いたまま動かない。慰めの言葉一つ、優しい言葉の一つでもかけるべきなのだろうな。と蓮京は考える。だが何を言えばいいかわからない。人の死を悲しみ寂しがる感情は昔に捨てた。自分の身も明日には消えるかもしれない。危険と隣り合わせの世界で生きているのだ。人の命を惜しんでいる余裕はない。やはり口を出る言葉は形式的なものになる。それでも言えば慰められるだろうか。
――俺は何を考えているのだ。
蓮京は滑稽に思えた。紫を慰める役目を負うのは自分ではない。蓮京は奥澤の当主であり、紫も蓮京の後を追いかけて遊んでくれとせがんでいた幼子ではないのだ。
「あなたの今後についてですが、」
言葉に、紫は顔を上げた。
「私との婚約を白紙にしていただきたい」
その瞳に一瞬映った感情も己に過った痛みも、蓮京は気付かない振りをする。そうすることが正しいことである、と。
二人の婚儀は、紫の二十歳の誕生日に予定されていたものである。
話が出たのは、今から二年前のこと。聞かされた時、蓮京は困惑した。次期当主として最有力候補とされ、目をかけてもらっているが、愛娘を嫁にするよう提案されるとは思わなかった。当主が紫をどれほど慈しんでいたか、傍で見続けてきた蓮京は知っている。いくら力を持つことになろうとも、命が保障されぬ職に就く男に、その娘を嫁がせようとするなど思ってもみない。自分が親であるなら、間違ってもそんなことはしない。
「あれはお前を慕っておるから。好いた男に嫁ぐのが何よりの幸せであろう」
そんな理由で? と蓮京は感じた。慕っているから、思いを叶えてやりたい。親心と呼ぶべきなのか。だがそれは普通の環境に育った場合にのみ適応されるのではないか。奥澤の人間に嫁ぐことは、裏の世界と繋がっていることを意味する。全てを断ち切らせて光の元を歩ませたいと思わないのか。
だが、当主はそうはしなかった。
紫が母を失った後、落ち着くまでと本邸の離れに連れてきたが、その後もずっと住まわせ続けている。前例にないことだった。このような場合、外に養女に出すのが通例。危険が及ばぬよう、平和に暮らせるよう。最初は泣き塞ぐかもしれぬが、やがて慣れる。子はいつか成長する。そうなったとき、ごく普通の日常にいる方が幸せである。しかし、当主は紫を自分の傍から離さなかった。それはエゴだと蓮京は感じていた。当主として尊敬できる人物であるが、本当に紫の幸せを思っているのかと怒りを感じることもあった。同時に奇妙に思った。何故、自分がそのようなことを考えるのか。紫の身がどうなろうと、蓮京の預かり知らぬ話であったのに。自分の後ろを追いかけまわす幼子に煩わしさを感じたこともあったはずなのに。
そのようなこと、今更か、と蓮京は思い直す。結局のところ、紫は奥澤にい続けた事実は覆らないのだから。
それよりも紫との縁談である。
常に威厳に満ちた雰囲気の当主が、この時ばかりは穏やかな顔で、蓮京の返事を待っている。その様子から、この縁談が"命令"ではないのだと知る。断ることも可能だと。だが、
――何故、俺は、うなずいてしまったのか。
蓮京は婚儀を受けた。その場で。その時のことを、蓮京は自身に説明できずにいる。
蓮京が断れば、紫は外へ出されるだろうか。それとも、奥澤内の別の誰かに嫁がせるのだろうか。当主の目的が紫を近くに置いておくことならば、そうなるだろう。さすれば、当主は紫の夫を目にかけるだろう。仕事と私生活を混ぜ合わせるような愚かな人物ではないが、愛娘のこととなると違うかもしれない。蓮京の立場が揺らぐことがあるかもしれない。奥澤内の勢力争いの火種になるやもしれない。だからこれは打算だ。と、全ては後付けであった。
――あの時、俺は、
蓮京はその思いを捨てた。愚かな思いであると感じられたから。
話を受けてから、蓮京は紫を避けはじめた。顔を合わせても素っ気ない態度を取り続けた。
幼い頃は蓮京を見つけると一心不乱に駆け寄ってきていた紫であったが、年頃になりそのようなことはなくなったし、ただ他愛のない会話をすることはあった。紫の目には隠しようもない蓮京への親しみが溢れていた。周囲にも、蓮京自身にも筒抜けなほど。奥澤の家にいながら、これほど心を隠さないのは紫ぐらいだろうと蓮京は思った。素直な娘だとも。嫌ではなかった。だからこそ、話しかければ、受け答えぐらいはしていた。だが、それを拒むような仕草をとるようになった。
冷たくしていれば、紫から離れていく。婚儀まで、まだ随分と日がある。それまでに嫌われてしまえば、御破算になるのではないか。そのような卑怯な手段に及ばずとも、嫌ならば己の口で断るべきだとも思うのに、蓮京はそうはしなかった。ただ、紫に冷たく接するだけだった。
あれから二年。当主が亡くなった。
今、蓮京が紫との婚儀を断れば、紫は外に出るだろう。そうせざるを得ない。奥澤の家とは縁を切り、静かな暮らしが待っている。幸い、正式な取り交わしがされたものではない。当主と紫と蓮京と、三人だけの内密事である。二十歳になるまで、口約束でしかなかった。蓮京は、もしこのまま何事もなく約束の日に辿りつけば、紫を娶っていたが、そうはならなかった。当主は亡くなった。
婚儀をなかったことにすると告げれば、紫は如何に思うか。
わずかに蓮京の心に去来したこと。後ろ盾をなくした娘と婚儀する意味がないと。捨てられたと思うか。蓮京がとっていた態度から、そう解釈されるだろうと思われた。嫌味の一つ、恨み事の一つを言われるかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよい。
自分の傍にいて危険な目に遭うことを考えたら、憎まれることなど大したことではない。紫の進退を決められる立場となった今、蓮京に迷いはなかった。
「私との婚約を白紙にしていただきたい」
紫は蓮京の言葉に俯いた。
雰囲気から、告げられる内容を理解していたとみえる。おそらく、わかっていただろう。理由も聞かず、咎めることもせず、やがて「はい」と小さな声が返ってきた。その一瞬、無意識に蓮京は奥歯を噛みしめていた。
2011/8/28