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鏡花水月 02 


 運命、というものはあるのかもしれない。と、時より蓮京は思う。神様を信じるという意味ではなく。ただ、運命という、人知を超えた何かが存在しているのかもしれない。と。

 あれは、十歳を迎えてほどなくの頃だった。
 物音がしたのか。予感めいたものが働いたのか。もはや覚えていない。ただ、ひどく眠かった。このまま眠っていたかった。それが――確かめなければならない気がして階下へ降りた。何を。とか。それもわからずにゆっくりと降りて行く。それほど深い時間ではなかった。ただ、子どもの蓮京はいつもなら夢の中にいる程度の夜。
 開いた扉から生臭い匂いがした。
 それが死臭であると理解するのは、もう少し後のこと。その時の蓮京は、ただ嗅ぎなれないそれを危険だと認識することも出来ず、部屋に踏み込んだ。
 目前の光景は黒。いや、赤だ。濃すぎて黒か赤かの判別もつかぬ、絵具のチューブを押したようなねっとりした濃厚なものが流れる肉片。それが父であると、認識できたことが奇妙なほど、見事な肉片だったのに。
 蓮京は不思議と冷静だった。漠然と考えたのは、残忍だな、と。父をまず殺害したことが。後になるほど恐怖を感じる時間が長く、それ故、男を殺し、弱い女を後にするソレがいかほど残忍かと。それから熱さが辛いと思った。血が飛び散ると、空気の温度が上がるのか。それとも異様な雰囲気に知らずに発汗していたのか。熱くてたまらなかった。
 視線の先には二ぃっと笑う男。母が叫ぶ。
――逃げて。
 逃げて――それはすなわち、生きろ。
 女というのはかくも強い生き物だったのか。それとも母という生き物が強いのか。傍で無残な姿になった父を見て、蒼白な顔で震えることもままならずにいたのに。蓮京を見て告げたのだ。逃げて。一瞬後、悲鳴さえあがらないまま殺戮は行われた。

 気付いた時には、見知らぬ天井。

 蓮京は助かった。助けられた。頼んだわけではない。何故助けた、とも思わなかったが。ただ、命があるということを受けとめた。
 そこは奥澤の屋敷だった。
 あの狂気めいた男が一体奥澤とどのような関わりだったか。裏切り者か。仕留めそこねた外法か。蓮京は知らない。両親が殺され、ただ一人生き残ったそれ以外、知る必要もない。
 目覚めると、傍にいたのは相馬だった。
「強くなりたい」
 蓮京は告げた。
 悲しい。と言いたかったのではないか。
 辛い。と言いたかったのではないか。
 本当は。
――なのに、俺は。
「強くなりたい」
 彼の男に復讐でもするつもりだったのか。さすればまず、男の身がどうなったか尋ねただろう。蓮京はそのようなこといささかも興味はなかった。恨みや、怒りとは違う。言葉にするなら――空っぽだったのだ。もう手に入らん。そんなことを思っていた。俺にはもう手に入らん、と。そう呟いていれば、また違っていたかもしれない。
――普通の幸せ。
 あの光景は終生忘れない。それで己の内にあるものが狂ったと嘆くつもりはないが。血なまぐさい匂いが鼻をついたとき、蓮京は二度と手には入れないと思ったのだ。光明というものが。

 やがて蓮京は力をつけていった。
 強くなりたいと願っても、強くなれぬものではない。
 運命、だったのか。奥澤に入るべくして生まれたのか。
 そんな気もした。



 屋敷内は静まり返っていた。人の気配がしない。人払いでもされているのか。だが、そのような真似をする理由が思いつかない。
 今日は、紫がこの屋敷を出る日である。
 ともすれば殺伐とした雰囲気の奥澤本邸において、幼き紫の屈託のなさがどれほど周囲の心を緩めたか。その紫が去るのだ。名残を惜しみ、見送りを望む者もいるだろう。それが。
 それとも顔を見ると辛く感じるからだろうか。無論それは紫が、である。顔馴染みの者たちに囲まれてしまえば心が辛くなるばかり。危惧して、姿をくらましているのか。そちらの方があり得る。さすれば、と蓮京は思う。自分もまた、会わずにいた方がいいのではないか。紫を緒方家に届ける役目を、何故、自分がすると申し出たのだろうか。
――いや、それは当然か。
 緒方家は先々代から傍に仕える翁の血縁者である。九州で小さな旅館を営んでいると聞いている。先代の時代が終わると、翁は自らの隠密稼業にも幕を下ろし、緒方家に身を寄せるというので、紫もと頼りにした。無論、奥澤を出たからと言って、今後一切の関わりを断つわけではない。先代からは、自分の身に何かあった時、紫を頼むと言われている。後継人として必要なことをするつもりでいた。ただ、顔を合わせることはもうないだろうと考えていた。それでいいとも。

 廊下を歩く。
 中庭が見えると、足を止めた。
 一本の椿がある。

 桜は散り際の潔さが美しい――そのような言葉があるが、散り際の美しさならば椿だろう。先代は花を散らすことなくポトリと落ちる椿の花を愛でていた。特に、寒椿。庭に植えたのは、蓮京と紫がこの屋敷に来た年だったので印象が深い。
 真冬の寒いさなか、幼き紫は薄着で庭でて、落ちた椿の花を拾い上げて喜んでいた。そのような姿では風邪をひいてしまう。見つけた蓮京は傍に近づいて部屋に連れ戻そうとした。すると、拾い上げた花のうち、もっとも形が整った花を渡された。拒むことも出来ず受け取ると、いつのまにか廊下から二人の様子を見ていた先代が、「逆だろうに」と笑った。
 記憶を蓮京は苦々しくかみ殺す。感傷的な気分など不必要。名残を惜しむなど己には似合わないと思われた。
 歩みを戻す。
 向かうのは奥の間。先代の仏間としている。紫がいるはずだ。蓮京の迎えを待っている。
 進んでいると、正面から相馬が歩いてきていた。紫に挨拶でもしていたのだろう。と思い、気まずさが込みあげる。相馬は、紫を翁に預けることに難色を示したからだ。正直なところ、反対されるとは思わず、面食らった。相馬は一人身で、紫のことを自分の娘のごとく可愛がっていた。それ故、危険な生活から遠ざけることに文句をつけるはずがないと。それが。

「紫を翁に預けることにしたと」
 当主になってから、相馬は蓮京に対してたとえ二人きりの時でも敬語を話すようになっていたが、そのときばかりは違った。
「その方がいいでしょう。ここにいては不自由をさせるし、何より危険だ。静かで平穏な日々を与えてやるのが後継人の役目」
「お前の言うことは最もだな。反論の余地もなく」
 冷淡な物言い。怒りを隠しもしない。何がそれほどこの男を苛立たせているのか。蓮京は不思議だったが。
「そのような腑抜けに育てた覚えはない」
「言葉を計りかねます」
 奥澤当主にまでなった自分に、腑抜けという、その真意が。
「強くなりたかったのだろう」
 かつての、幼い自分の言葉。あの時、もし仮に、蓮京が違う言葉を告げていれば、奥澤に引き取られることはなかったのだろう。どこかに養子にでも出されて、普通の日々があったのかもしれない。ただし、その普通の日々に馴染めるかは疑問だが。だから蓮京は「強くなりたい」と呟いたことを間違いだとは思ってはいない。ただ、何故、今、その話になるのか。
「強さとは何だ」
「問答ですか」
「お前も、紫を憎からず思っているのだろう」
 それきり、何も言われていない。

――好いた男に嫁ぐのが何よりの幸せであろう。

 相馬もまた、当主と同じ考えらしい。婚儀の話は表には出ていないはずであったが、相馬は知っていたのかもしれない。それ故、話を反故にした蓮京を腑抜けと述べたのだろう。
 だが、蓮京は自分の考えが間違っているとは思わない。それどころか、この件に関しては先代と相馬の感覚の方がどうかしていると感じる。それは経験の違いだな。と蓮京は考える。先代も、相馬も、結局のところ奪われたことはないのだ。しかし、蓮京は違う。一瞬のうちに奪われた。光も、闇さえも。空っぽになった。何もなくなった。

 がらんどう。
 それでも、別に生きてこれた。
 特に、問題なく。

 しかし。

 紫が傍にいれば、そうもいかない。
 まして、婚儀などすれば、見ぬふりを出来なくなる。否、今でさえも、この空の器に、気を抜けば溢れるのは――それを認めるわけにはいかない。遠ざけておきたい。そうでなければ、己の強さを保てない。

 ああ、確かに。蓮京は認める。

――俺は、腑抜けだ。

 手に入らないのではなく、己から捨てたのだ。

 おそろしくて。
 奪われることがおろそしくて。
 二度とそのような目に遭いたくはなくて。

 捨てた。

 光を。

 だから何だというのか。蓮京は我に変える。世の中、すべてを手中におさめることなど無理というもの。何かを得れば、何かを失う。一人の人間が持てるものなどいかほどもない。己は奥澤の家で、その当主の座におさまった。それでいいと。この世界で、一人きりで、生きることを。心煩わされることなく。
 相馬は蓮京の傍を目礼するだけで去った。蓮京もまた、それに合わせるのみ。
 先を急ぐ。



2011/9/10
 

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