恋でないなら 不遇な身の上 16
宴が開かれることになった。
玖柳が崎宮に来てから初めてのことである。早瀬の跡取りに返り咲いたことで対応が変わったと考えるまでもなくわかる。今更ご機嫌取りをされても心象は悪くなるというもの。しかし拒否するわけにもいかぬから、玖柳と藤重、惟哉は連れ立って正殿へと案内された。
広間に通されるとすでに崎宮当主と、奥方、娘二人が座っている。
嫡男である新木の姿がないのは一昨日から久慈院へ赴いているためだ。訪問の理由を玖柳が聞かされることはなかったが、以前にういが「新木兄さまは修行なさっておられたのでございます。」と述べていた。五歳になる年から十四になる年まで――即ち玖柳が崎宮を訪れる半年前まで過ごしていたのが久慈院だという。新木の両親に対する態度が他人行儀に感じられたのは離れて暮らしていたことが関係しているのかもしれぬと玖柳は解釈したが。
それよりも気になるのはういである。
宴の知らせを受けてから玖柳は慌てた。ういは普段のけ者にされているが正式な場には体裁を整えるために呼ばれる。されば宴の理由を聞かせられ玖柳が去ることを知ることになるだろう。人の口からより自分の口から告げる方がよいと――ういの住屋に向かったが時すでに遅し。女房が共にいて宴の準備に追われていた。
「宴でございますか。何の宴でございますか。」
ういの溌剌とした声が聞こえる。玖柳はその問いかけにひやりとするが、
「静かになさってください。お支度が整いません」女房は焦っているのか厳しい声が飛ぶ。
「なれど、何の宴でございますか。」
気になるのだろう、また問いかける。繰り返されれば女房も黙っているわけにいくまい。玖柳はそれ以上成り行きを見守ることが出来ず立ち去った。
用意された膳の前に座る。
向かいを見れば次女・べに香の隣に誰も座っていない膳が一つ。それがういの席だろう。しかし、本人の姿がない。女房に玖柳のことを知らされ悲しみで泣き伏せているのではないか。宴に出られぬほど落ち込んでいるのではないか。――不安が玖柳を襲ったが。
「お連れいたしました」女房の声がして襖が開かれると手を引かれてういが入ってくる。心配に反してけろりとした表情をしている。
「遅れぬようにと申したでしょう」奥方の咎めの声が響くと女房が恐縮したように頭を下げる。
「申し訳ございません」
「なれど、お着物が大きゅうございましたので上手く着れなかったのでございます。」
先程玖柳の元を訪れた時とは違う着物を身に纏っている。日頃のくたびれた物とは違い深い緑が鮮やかな着物である。ただやはりそれも姉のお下がりでういの身には幾分大きく不格好だ。それでも色褪せたぼろよりましであると着せられたのだろう。
ういは自分のせいで女房が叱られていると思い、身上げに手間取ったと伝えた。しかしそれが返って奥方の気に障る。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというが、そうでなくともういのすることなすことが気に食わぬのだ。ういの言葉を"嫌味である"と解釈してすっと冷たい表情になるが、それでも玖柳たちの手前押さえているようで、
「もうよいから、早う座りなさい」
さめざめとした声で告げた。
ういは促されて膳の前に座る。奥方の辛辣さには慣れているのか落ち込んではおらず、それより玖柳に気付くと嬉しげに微笑んで見せた。いつも一人で食事をするういには大勢で集まることが余程嬉しいのだろうと伝わってくる。
楽しげな姿は玖柳にとっても歓迎すべきだが今回ばかりは不可思議に思う。
あの後、女房はういに宴の理由を教えてやらなかったのか。泣かれては面倒と考え無視したのか。それ故、ういは朗らかでいられるのか。――と考えるも、しかしどうもそれは腑に落ちない。粗相がないように宴に出る場合その目的を告げるのが通常である。さればういの浮かれた様はどういうわけか。
玖柳の疑問を他所に宴が始まれば
「玖柳様は何がお好きですの。あまりお話しする機会がありませんでしたでしょう。教えていただきたいわ」
長女・舞が言うとべに香も「私も是非に」と続ける。玖柳の存在をいない者のように見ていた娘二人がいやに愛想よく話しかけてくる。気味の悪いほどにこやかだが目の奥は笑っていない。
自分を売り込むことに必死な人間の作った表情はおそらくこれまでも玖柳が目にする機会はあった。だが、そういうものを自覚することなく過ごしてきた。周囲の人間に警戒心を抱くことなく言葉を額面通りの意味合いで受けとめてきたのだ。だが今はもう人を見ることを覚えた。発せられる言葉のみで心を計れるものではないと知ったのだ。果たしてそれが良いことであったかは一概には言えぬ問題だが崎宮での生活は確かに玖柳を変化させた。
失礼にならないように必要最低限の受け答えをしながら玖柳は慎重にういを伺う。
ういは人が集まる場所では大人しくしているようにと厳しく躾けられているのか、黙々と食事を摂る。だが着せられた着物の袖が長く、膳に手を伸ばそうとすると引きずってしまい難儀している。それでも奥にある芋の甘煮を取ろうとし、もたつき食器を叩き大きな音が鳴る。されば無作法だと奥方の鋭い眼差しが飛ぶ。それでもういは諦めずに最後には刺し箸で目当ての品を口元へ運ぶ。禁じ箸にますます奥方の表情が険しくなる。好物をほおばりもぐもぐと美味しそうに咀嚼するういの姿は愛くるしいものだが、奥方は忌々しげに一瞥している。いつもであれば厳しい叱咤があるのだろうが玖柳たちの目を気にして堪えているのがわかる。不快になるなら見ないようにすればよいが、嫌なものほど気になってしまうのか、それからもういの些細な動向に反応しチクチクとした視線が注がれる。
一方でういは全く動じない。鋭敏な性質であると思っていたが奥方に対してはどうも鈍い。相性というものが存在するが、正室と側室の娘というしがらみがなくとも奥方とういは相性が悪いのかもしれぬとまで考える。見ている玖柳の方がひやひやしてしまう。宴とは愉快なものと心得ていたがかほどに落ち着かぬものは初めてでキリキリと腹に痛みまで感じたが。
それにしてもういの落ち着きよう。舞やべに香が話しかけてくる言葉からも玖柳が去ることを推測できそうなものだが、ういは反応を示さない。
――姫君は私が去ることを寂しくは思わぬのか。
ういは物わかりの良い、聞き分けの良い娘である。泣くに違いないと考えていたのは自惚れだったのかもしれぬ。仕方ないとすんなりと諦めたのか。玖柳はにわかに考え始めていた。 しかし、
「それにしても、急なことで驚きました。玖柳様がいらっしゃらなくなると寂しくなります。されどここをご自身の屋敷だと思っていつでもお帰りください」
それは唐突にやってきた。
娘二人の懸命な売り込みが特に盛り上がることなく一通り終えて奇妙な隙間が生まれると、奥方はういに構っている場合ではないと思い至ったか、娘と同じ笑みを浮かべて取りなすように続けた。
その一言に、初めてういが反応する。明瞭に"玖柳がいなくなる"と発したそれに"きょとん"とした顔をした。それから動かし続けていた箸を丁寧にそろえて膳の上に置くと、三つ隣に座る奥方の顔を覗き込むように前のめりに体を倒し始める。
「くりゅうどのがいなくなるとはどういうことでございますか。」
ういが口を開く。だが、奥方は「お前は話すなと言ったでしょう」という嫌悪を送るだけである。憎々しげに見られては怯みそうなものだがういは尚も執拗に「どういうことでございますか。」と問うた。
それまでもけして和やかとは言い難い空気が、一挙に張り詰めて行く。
「玖柳様は早瀬の地に帰られるのです。これはその別れの宴です。お前とてそう聞いていたでしょう」
奥方の代わりに応えたのは舞であった。
「別れの宴とはくりゅうどのの別れなのでございますか。」
「だからそうだと言っているでしょう。一体誰の別れだと思っていたの」
「……なれど、それはおかしゅうございます。くりゅうどのはどこにもまいりません。くりゅうどのはずっとここにいてういの頭をなでてくださるとお約束ました。どこにもまいりません。そうでございましょう。」
最後の一言は玖柳に対するものだ。言葉に、やはりういはこれが"別れの宴"とは聞かされていたが"玖柳の"であるとは理解していなかったと知る。それ故の落ち着きであったとわかったが。
ういはゆっくりと体を起こし奥方から今度は玖柳へと目線を移す。
真っ直ぐな眼差しに見つめられるが玖柳にはういが望む答えを返してやることは出来ない。さればせめて慰めの言葉を言えれば良かったが、瞬きもせず大きな目で訴えてくる様子に言葉が出てこない。一言でも発すれば――それが慰めであれ――ういは傷つく。他でもない玖柳がそれを認める言葉を言えばどうしようもなく傷つくと否応なく伝わり玖柳は黙るしかなかった。
しかし、目は口ほどに物を言う。無言のうちにういは全てを察した。何が起きているのかようやく感じとりたちまち表情が崩れたが立ち上がり
「奥方さまも姉上さまも嘘つきでございます。嘘をついてはならぬとははうえさまが申しておられましたぞ!」
ぐっと拳を握りしめて奥方と姉を罵った。日頃からういに辛く当たる者がまた嫌がらせをしているのだとでも思いたかったのか。だが、そのような振舞いを奥方が許すはずがない。ましてや"ははうえさま"など言ったのだ。奥方の琴線に触れる。
「何が嘘なのですか。どうして人を不愉快にさせることばかりを言うのです。謝りなさい」
「ういは何も悪いことはしておりません! 悪いのは嘘つきの奥方さまです」
「お前という子は……私の何を嘘つきと申すのか。玖柳様は明日早瀬に戻られるのです。その別れの宴を台無しにして、まだ自分は悪くないというのですか」
それでもういは一切引かず「くりゅうどのは、どこへもまいりませぬ。ずっとここにおられるのです!」ドンッ、ドンッと地団太を踏みながら叫ぶ。大人しいういの行動とは思えの激しさで踏み鳴らす。
「いい加減にしなさい! ……誰か、誰かおりませんか」
奥方は女房を呼びつけ癇癪を起こすういを連れ出すようにと指示を出す。女房は言われた通りういを抱え上げて連れ出そうとするが、抱かれたういは暴れて更に大きな声を上げる。
玖柳はその姿に声をかけようとするが隣に座る藤重がそれを制した。
ここで玖柳が口を挟めば事態は収拾がつかなくなる。"玖柳のため"の宴でういは暴れているのだ。その振る舞いを当人が庇う真似をすれば、崎宮の顔を潰すとの配慮である。それ故何もするなと。玖柳は藤重の意図を理解するも、心のざわつきは収まらない。
「せっかくの宴をかようにしてなんとお詫び申せばよいか」ういがいなくなると奥方が告げる。
「幼子のすることですから、なにとぞお気になさりませぬように」藤重がそれに応える。
「いいえ、幼子といえ許される道理はございません。後でよく言い聞かせますから」
この場で、誰よりも玖柳を慕い、玖柳がいなくなることを悲しんでいるのはういである。だがどれほど本心からの想いがあろうとそのようなことはどうでもよく、宴という場を汚したういが悪くそれを叱る奥方が正しいとされる。
玖柳は滾るような苛立ちを感じたが――しかし、それをどうすることも出来ずに見ていた己も同罪だ。雄叫びとも嗚咽ともつかぬ聞いたこともないういの泣き声が耳から離れず、玖柳は膝に置いた拳を真っ白になるほど握り締めた。
一睡も出来ぬまま夜が明ける。
宴が終わった後、玖柳はういの元へ向かった。せめて今からでも言えることがあるのではないかと会いに行った。しかしういの姿が見当たらない。奥方に"咎め"を受けているのか。玖柳はしばらく待ってみたが戻ってくる気配はなく一度住屋に戻り、明け方になり再び訪れたがそれでもういの姿はなかった。
くろのところへ行っているのかと池に行くがそこにもいない。
どこにいるのか探し出せず、やがて出発の刻限が訪れる。
謝ることはおろか、さよならの挨拶さえ交わすことないまま――それが二人の別離となった。
2012/5/27