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恋でないなら 不遇な身の上 15


 頭が真白になる。心の準備が一つも出来ていない状態でのういの来訪に玖柳の身は固まった。どうしたらよいのかと活発に思考を働かせ最良の方法を導き出そうと頭は動いてくれず、お手上げというふうに真っ白になり停止した。
 代わりに意識が視覚に集中し俯いた先の畳目の潰れがやけに鮮明に映り込んでくる。剣術道場で拭き掃除をしたことはあるが板張りの床は端から端へ真っ直ぐに拭けばよかった。対して畳は畳目に沿って拭かねば傷めてしまう。玖柳はそれを知らず無闇な拭き方で乱暴をした結果の惨状だ。何故かようにすり切れてしまうのか。力を入れ過ぎたか。不思議に思っていたのを正してくれたのはういだった。
 共にいる時に湯呑みをひっくり返し茶を滴らせたことがあり、玖柳は慌てて雑巾を持ちいつものように縦横無尽に拭いた。
「くりゅうどの。畳の目に沿うて拭かねばなりませんぞ!」
 随分怒ったような調子で咎められる。
「畳の目?」
「左様でございます。」
 それからういは玖柳から雑巾を取るとやってみせた。
 玖柳が力任せにこすっていたのとは違い、すっ、すっ、すっと軽やかに動く。綺麗に拭き終わるとちょこんと玖柳に向き合って正座する。
「畳とはイ草を編んで作るものでございますから、編んだ目に沿うて拭いてやらねば傷みが早くなるのでございます。」
 ただ拭けばよいというものではない。何事にも手段があるのだと知る。
 それにしても幼いのに物知りだと感嘆すれば、
「ははさまのちちさまは畳を作っているのでございます。ちちさまは一年のおしまいに畳をはりかえにきてくださいました。ういは近くで見ておりました。ちちさまは畳のことを教えて下さいました。ちちさまが大事に作った畳ですから大事に使わねばなりませんとははさまはおっしゃいました。」
 なるほど。それで乱暴した玖柳に目くじらを立てたのだと納得する。
 それにしてもういの母は貴族出身ではないと聞かされていたが畳職人の娘であったとは。"職人"は技巧について高く評価されることはあれ身分はかなり低い。土地を持たぬ流れ者とみなされる。されば実家に里帰りということも中々許されなかっただろう。畳張り替えという名目で屋敷を上がらせる形で年に一度会わせてもらえていた。その僅かな時間がういにもういの母親にも心休まる時だったに違いない。
「なれど去年はきてくださいませんでした。ちちさまはどうされたのでございましょうとお尋ねしましたが、もうこないと言われました。ちちさまはとてもお優しい方でございましたから、ういはまた会いとうございましたのに。」
 うい寂しげに続けた。
 なんともむごい話だった。頼りにしていた母を失い、優しくしてくれる祖父とも会わせてもらえなくなり、ただ一人ぽつりと崎宮で暮らす。幼いういの心を思うと張り裂けそうになる。
 それもこれも全ては家のためであろう。貴族にとって血統は最重要視されるものだ。崎宮当主の血を受け継ぐういを母方の家に引き取らせるわけにはいかず、邪険に扱い疎んじながらも屋敷に住まわせている。家というものに縛られういは冷遇される崎宮での生活を強いられるしかないのだ。
 玖柳は痛んだ畳目を隠すように左足を乗せた。
 それでもようやく近頃になって親しくしてくれる者が現れた。ういにとって玖柳は母を失って初めて懐いた人物である。しかし、それがまた失われる。玖柳は早瀬に帰ることになった。それをどうしてういに告げられるだろうか。
「くりゅうどの……おられませんか?」
 今一度、さっきよりぐっと心細げなういの声が聞こえる。
「可愛らしい来客のようだが、出なくて良いのか?」
 少しばかり舌足らずな声音から幼子であると判断して惟哉が言った。
 玖柳はそれに後押しされる形で戸口へ赴く。足取りは重たく可能ならば出たくないとの思いが過るが、以前に居留守を使いういを傷つけた記憶が二度と同じ真似は出来ないと歩みを進めさせる。三度目の呼び掛けの声に急いで戸を開けた。
「くりゅうどの! おられましたか。」
 玖柳の顔を見ると頼りなげな姿が一転、ぱっと華やいだ表情に変わる。
「お待たせいたしました。さぁ、お入りください」
「はい。お邪魔いたします。」
 行儀よく頭を下げるういを招き入れる。ところが――いつもであればすぐに履物を脱ぎあがるのだが土間で足を止め動かなくなってしまう。じっと見つめる先には惟哉の履物がある。
「姫君。どうなさいましたか」と問えば玖柳へ視線を動かし「お客さまでございますか。」
「え? ……――ああ、ええ、客と言いますか、」
 惟哉は身内という感覚が強いためか客と問われると違和感があり玖柳は咄嗟に口籠るが、
「ういは帰ります。」言うやてててててっと勢いづいて戸口を出て行く。
 慌てたのは玖柳である。思いもよらぬ行動に何事かと後を追いかけ呼び止める。ういは一応それに答えて立ち止まったが。
「いかがされましたか」
 ういは人見知りなところがある。玖柳にもなかなか心を許してくれなかった。散々な扱いをされてきたのだから人を屈託なく受け入れることが難しくなっても無理はないが、そのせいで玖柳以外の者がいることに怯え逃げ出したのか。
「お客さまがいらっしゃるときは、邪魔してはなりません。ははさまがおっしゃっておりました。」
 答えは半分――客がいたから去ったという部分は当たっている。ただ理由は少しばかり違った。自分がいては迷惑をかけるだろうとの遠慮である。
 ういにとって昼間に玖柳の元を訪れることは格別の楽しみのはずだが、己の気持ちよりも状況を判断して我慢する。玖柳がういの年の頃はそのようなこと考えなかった。自分がしたいことをするのに誰の目を気にすることもなく振舞った。されどういは違う。客人が先、自分は後――幼き身でありながら心得ている。それは立派だと言えるが玖柳は切ない心持ちになる。ういはしっかりしすぎている。そうせざるを得なかったのだろうがそれにしてもまだ早い。もう少し大人になるまで自分の思いのままに行動しても許される時期を持ってもよい。
「客人は突然の来訪でございますので、先にお約束をしました姫君が遠慮することはないのですよ」
 しかし、ういはぶんぶんとでんでん太鼓を振るように顔を左右に振る。
「お客さまはめったに会うことが出来ないので、いつでも会えるういは邪魔をしてはなりませんとははさまはおっしゃりました。明日、また参ります。」
 いつでも。明日。ういの口から告げられる言葉に玖柳の思考は再び停止する。ういは何も知らない。玖柳とういに残された時間があと僅かであることなど知らず、玖柳との日々がずっと続くものだと信じ、今日は我慢すると言う。
――もう次はないのだ。
 しかし、事実を発することが出来ない。言えばういがどのような態度を示すか。想像すると恐ろしくなり喉が開かない。どのように伝えればいいのか。方法が見つけられず玖柳の混乱は極まる。さればその間にういは走り去る。その姿を目で追いながら、それでもまだ覚悟がつけられない。言わねばならぬこと一つまともに話せない腑抜けである。否、それどころか心のどこかで遠ざかって行く姿に安堵まで感じていた。明日までまだ時間がある。いい文言を考えて、後で告げに行けばよいと――とりあえず目の前の難が先延ばしになったことを喜ぶ心が。
 だが、玖柳は知らなかったのだ。物事には機会というものが存在する。そしてこれが玖柳にあった唯一の機会だったことを。



2012/5/22

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