降伏せよU 狸と狐と子猫と > novel index
降伏せよU  狸と狐と子猫と

「ほら、こっち見て」
 後ろから貫かれたままの格好で、振り向くように求められる。私は与えられる甘い疼きに堪えられず、目には涙が浮かんでいた。漏れる吐息が、限界を告げている。そんな私に、彼がくれるのは口づけ。目じりに彼の唇が寄せられる。だけど、私の欲しいものはそれではない。
「いや、……ん、」
 抗うと、大きな手が私の頬に触れ、乱れて張り付いた髪を耳にかけられる。それから熱っぽい声で「可愛い」と繰り返す。彼はそのような台詞を述べる。まったくイメージではない。どちらかと言えば寡黙な人だと思う。実際、二人でいてもあまり話すことはない。押し黙っている時間の方が長い。だけど、嫌ではない。その目は優しかったから。ただ思いついたように「可愛い」という。幾度も幾度も。「好きだ」でも「愛している」でもない言葉だけれど、彼に言われると全身が痺れた。この人に言われる「可愛い」は、どんな言葉よりも強力だと感じる。
 今もまた、言われた。「可愛い」と。「とても、可愛い」。だけど私は首を振る。それだけでは、足りない。心の充足ではもう満足できないほど、私は溺れていた。だけど彼は優しい口づけを落とすばかりで、私一人だけが欲しがっているのかと恥じる。それでも火照りすぎた体は、このままではどうしようもない。その逞しい体にしがみつきたいと思う。だけど、今の態勢では思うように出来なくて――。

「ごめんなさい」
 私の言葉に彼は微苦笑をもらすのみ。その顔からは怒りは読み取れない。ただ、少しだけ困っているように見えた。
 彼は私の髪を撫で、頬に一瞬だけ唇をつけると、キッチンへ消えた。
 私は今、彼の部屋のリビングのソファにいる。彼のシャツをはおっただけの姿だ。なんとも心許ない格好だけれど、終わった後、彼は私にそれを着せ、そして抱き上げてソファに連れてくる。それから紅茶を入れてくれる。最初に訪れた時も、次の時もそうだったから、おそらく今日もそうだろう。
 しばらくすると、トレイを手にした彼が戻ってくる。やはり私の推測は間違いではない。ただ、違うのは、今日のお茶がカモミールということ。これを飲むと落ちつく。先月、私が何気なく口にしたことを覚えてくれていたらしい。
 彼は私の傍に座り、カップを手渡してくれる。私は両手で受け取って、彼の顔を見る。左顎に、傷。私が先程引っ掻いたものだ。夢中でしがみつこうとして、爪が当たった。きっと痛かったと思うけれど、彼は何も言わない。私が傷に気がついたのは、リビングへ来る途中。抱きあげられて、明るい場所で彼の顔を見た時だ。
「ごめんなさい」
 私はもう一度謝罪の言葉を口にして、その傷に右手で触れた。カップを持っていたからか、指先が温くてじんじんしている。
 彼は私の右手に自分の左手を重ねた。それから唇へ移動させて、指先にキスをすると、
「これぐらい、痛くも痒くもない。気にすることはない」
「でも、」
 だけど、それ以上は言葉が続かなかった。今度は唇にキスされたから。

 毎月第三金曜日。彼の家を訪れる。
 そんな約束を交わしてから、今日で二度目。
 五日遅れのバレンタインチョコを渡した夜の出来事だった。

***

 エレベーターというのは普段意識しないけれど密室であり――逃げ場がない。狭い箱の中で身動き出来ない。目的の階につくのをひたすら待つより解放される術はない。今のご時世、高い建物が多いから厄介だ。平屋作り、日本の建物は何処へ喪失されたのか。恨む。
――逃げたい。
 私の心を現状で取り巻いているのは、ただ、ただ、この一言に尽きた。そして、「逃げたい」という感情は、どう贔屓目に見ても歓迎するべき感情では一つもないことを、強く主張する。
 それは本当に偶然か、はたまた神の悪戯か。
 田所さんに連れられてきた某ホテル。正義の味方は正義を守っているだけでは食べていけないので、ボディーガードのような仕事もする。本日はその打合せなのだ。
 ボディーガードを付ける要人は、ホテルのいい部屋に泊まっている。だいたい、上層階。当然、エレベーターを利用する。
 私たちは一階から乗り込んだ。すると三階で止まる。誰かが乗り込むために停止させた。扉が開く。そこに立っている人物に目の前が真っ暗になる。普通に出会うなら別にかまわない。だけど、今日は厄介な人物が一緒だ。よりにもよって、よりにもよって、よりにもよって、だ。
「やぁ、紺野君、奇遇だねぇ」
 気安い田所さんに一瞥くれるだけで、紺野さんは無言で乗り込んできた。私の方は観ていない。心底安堵する。今は、仕事中だ。私たちは敵同士だ。
「今日は、お仕事?」
 私は緊張でがちがちになっているというのに、田所さんは相変わらず気安い感じでで紺野さんに話しかける。あなた、さっき軽く無視されてるんだから、黙っていなさいよ! と突っ込みを入れたいけれど、構うと喜ぶ人なので私は黙っている。紺野さんは相変わらず無言だ。
「愛想ないなぁ。ねぇ、トーコちゃん。こんな無愛想な男、嫌だよねぇ。そう思うでしょう?」
 田所さんは嘆く。私は曖昧な笑みを浮かべるが、内心では、「普通、ないと思うよ」と突っ込む。繰り返すが、私たちは敵同士だ。仲良く世間話もないだろう。
 だけど、こんなことで、田所さんはめげるような人ではなかった。
「あっれ〜、紺野君、その顎のかすり傷どうしたの?」
 かすり傷というか、引っかき傷だ。だが、よくよく見なければわからないほど今はもう薄まっている。それを目ざとく見つけて、尋ねた。
 私はドキっとする。
 だけど、紺野さんのことだから、当然また無視するだろうと思った。動揺してはいけない。無駄に鋭い田所さんに気付かれないよう、私は平静を装う。だけど、
「ああ、これな。子猫に引っかかれた」
 何を血迷ったのか、唐突に紺野さんが言う。
「子猫? 紺野君、子猫なんて飼ってるの?」
「最近、飼い始めた」
「へぇ、可愛い?」
「驚くほど」
 田所さんはニヤニヤする。一方で、紺野さんは真顔だ。私は冷や汗が出る。
「そんなに可愛いの? 意外。紺野君、動物なんて好きにならない冷徹人間だと思ってた」
「私もそう思っていたが、あれは例外だ。前から可愛いとは思っていたが、正直ここまでハマるとは予想していなかった。一日中愛でていても飽きない」
「堂々とのろけてくれるねぇ。妬けちゃうな」
 ふっと紺野さんは笑った。私は俯く。エレベーターはまだ目的の階には着きそうにない。そして、会話は更に続く。
「でも、引っ掻かれるなんて、酷いことしてるんじゃないの? 可哀相〜」
「まさか。あんな可愛い生き物に、酷いことなどするはずないだろう。あまりにも可愛いので構いすぎたら、じゃれて引っ掻かれただけだ」
「紺野君、何事もほどほどって言葉を知らないの? やりすぎると、そのうち愛想尽かされて逃げ出されちゃうよ。猫は気まぐれな生き物だからねぇ」
 田所さんは愉快そうな声を上げた。絶対に、わかっている。わかっていて、楽しんでいる。人の悪さは天下一品なのだ。だが、紺野さんも紺野さんで涼しい顔をして、
「そうか。なら、逃げ出さないように首輪をつけようか。それも悪くないかもしれない。私だけを見て、私だけに懐くように」
 しれっと、こともなげに言う。
 それを受けて、田所さんはますます楽しそうに口笛まで吹いた。それから、
「ねぇ、それって子猫だから許されるけど、もし人間だったら犯罪だからね。監禁罪。気をつけた方がいいよ」
「今更、私に正義を諭すか?」
「……ああ、それもそうか」
 あはははは、と豪快に笑う。笑っている場合ではないでしょう! と思うけれど、私はとにかくこの二人の会話には関わらないと決めていた。空気みたいに押し黙って気配を消す。しかし、田所さんの人の悪さは甘くはなく、
「しっかし、見染められちゃった子猫ちゃんはホント、可哀相としか言いようがないなぁ。同情するよ。ねぇ、トーコちゃん、こんな独占欲の塊みたいな男嫌だよねぇ。……あれ、どうしたの? 顔が赤いけど、大丈夫?」
 よくもまぁ、ぬけぬけと! 私は打ち震える。だけど黙るしかない。言い返せない。これは「子猫」の話なのだ。迂闊なことを言えば、「どうしてトーコちゃんが怒るの?」なんて墓穴を掘るだけだ。だいたい、紺野さんも紺野さんだ。どうしてこんなことを言うのか。私をからかって面白がっているのだろうか。チラリ、と見る(というか睨む)。すると、目が合った。彼ははっとした顔をした。我に返ったらしい。それから黙り込んだので私は安堵した。その後は静かなものだった(田所さんはご機嫌に鼻歌を歌っていたけど、それぐらいなら害はないから辛抱する)。
 やがて目的の階へ到着する。私たちの方が先に降りる。
 田所さんは一人満足して
「じゃあ、紺野君。またねー」
 と降りていく。
 その後を私も続く。と、その時、ぎゅっと手を握られた。かと思うと耳元で早口に囁かれる。「調子に乗りすぎた」と謝罪の言葉だった。咄嗟のことに言葉が出てこない。ただ、彼を見る。扉が閉まる寸前、その表情は焦っているように感じられ、少なからず困惑する。確かに私は怒りを感じていたけれど、紺野さんの表情があまりにも切なかったので、私は先程、そんなにもものすごい形相で睨んでいたのかと不安になった。
 私が呆然としていると、
「紺野君も若いねー。挑発に乗るようじゃ、まだまだだよねぇ」
 挑発? 挑発するようなことを田所さんははたして口にしただろうか? 振り返ってみても思い至らない。私はますます困惑する。すると、
「だけど、それだけ惚れられてるってことだからねぇ。きっと紺野君、来月まで『嫌われちゃったかも』とか悶々と過ごすんだと思うよぉ。可哀相〜」
 心底愉快そうに笑った。紺野さんの気持ちはよくわからないけれど、田所さんが性質の悪い人であることだけははっきりとわかった。地獄に落ちればいいのに――と思ったけれど、この人なら地獄でもうまくやっていく気がして、願うだけ損だからやめておいた。



2011/2/7

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