分岐点がある。誰にでもある。だから私にもある。二十歳の夏がそれにあたる。
好きな男がいたが親友に取られた。絶交した。好きな男と親友を失った。斜向かいに住む田部は「その表現はおかしいよ。片思いだったんだから彼は君のものじゃない」と言った。殺してやりたいと思った。それまでも私を苛立たせることを言う男で、度々死んでくれと思っていたけど、殺したいと思ったのは初めてだ。真剣に思って、台所に行ってタンクの下の観音開きを開けて包丁を手にした。
絶対に殺してやる。
人生でこれほど強い感情を味わったことがない。そう思ったら、はっとなった。彼に対しても、絶交した親友に対しても、ここまでの感情を持たなかった。愕然となった。もしかして私はそこまで彼のことを好きではなかったのかもしれない。親友のことを許せないと絶交したけど違ったのかもしれない。私は心底傷つき嫌だと思ったらこうして包丁をもって襲いにいこうとするほど激情を抱えている。田部を殺そうとしていることと、彼と親友を殺したいとは思わなかったことが、噛みあわない。道を歩いていて落とし穴にはまるような。まさか、そんな、という現実に息を飲んだ。
私は包丁を元へ戻した。それからココアを入れた。私はココアが好きだ。夏でも熱いココアを飲む。カロリーゼロのお砂糖をスプーンで山盛り二杯。吐き気がするほど甘ったるくして飲んだ。そうすると笑えてきた。ついさっきまで人を殺そうとして、包丁まで握り締めていた。それが、今は、ココアを飲んでいる。落差がいたたまれない。笑っていると泣けてきた。涙の理由などわからない。意味不明だ。何もかもが嫌になった。投げ出したい。どこか遠くへ行きたい。誰も私を知らないところで、生まれ変わりたい。それもまた脈略のない思い付きだった。だけど人を殺すより建設的に思われた。包丁の代わりに財布を持って家を出た。
「可南子ちゃん。どっかいくの?」
田部だった。Gパンとデローンと伸びたTシャツという軽装。足元はおばちゃんサンダルを引っ掛けている。近頃ではお洒落な男子が増えたというが田部を見せてやりたい。近所のコンビニにでも行くつもりなのだろうが、それでももう少しあるだろう。
「一緒について行っていい?」
私に殺されていたかもしれないのに、何も知らないとはいい気なものだ。どうして田部と一緒に出かけなくてはならないのだという意味を込めて睨みつけた。田部は構う様子はない。平然としている。私は無視して駅に向かう。田部は後ろからついてきた。鼻歌を歌っているからわかる。「上を向いて歩こう」という選曲がまた私を苛立たせた。
「こないでよ」
「そんならもっと早く行ってよ。もう来ちゃったのに、今更遅い」
「どうせ最後は家に帰るんだから、今、引き返したほうが労力は少なくてすむじゃない」
我ながら最もなことを言った。へ理屈大王の田部も何も言えまい。だが田部は怯まない。
「嘘だね」
勝ち誇ったような顔がますます私を苛立たせる。
「最後は家に帰るなんて言って、帰る気ないくせに。可南子ちゃん、僕が帰ったら、どっか失踪する気でしょう?」
失踪なんて大袈裟なものじゃない。ちょっと気分転換に遠出しようとしただけだ。
「失恋して失踪なんて笑われちゃうよ? だから見張っててあげるよ」
「私は失踪なんてしないし、見張ってもらわなくても結構です」
田部は私の話をまったく聞き入れなかった。「可南子ちゃんは魔が差す匂いがする」と怪しげなことを口にする。それから「今日は一緒にいようね」なんて勝手に決めて私の手を引いて今来た道を戻りはじめた。私は抵抗した。振りほどこうとブンブン腕を振ったがビクともしない。田部は線の細いタイプだけどやっぱり男で、私はガサツで乱暴だけどどうしても女で、力の差は歴然としていた。帰る道すがら田部は行き道と同様に「上を向いて歩こう」を今度は口笛で吹いていた。
強引に田部の家に連れて行かれて居間に通される。ここに来るのは小学校以来だ。
私の両親は共働きだ。父も母も夜勤のある仕事をしていて、両方ともが夜いなくなる日がある。たいていは近所に住む母方の祖母が来てくれるが、都合が悪いときもあり、そんな時、田部のおばさんが家に呼んで面倒をみてくれたことがあった。
田部家の居間は私の記憶とあまりブレなかった。テレビが薄型になっているぐらいだ。
「はい、どうぞ」
田部はココアを作って出してくれた。
「さっき、家で飲んだからいらない」
私は遠慮なく本当のことを告げた。田部は動じない。自分が作った物は私が作る物より絶対おいしいから飲んでみろと言った。その自信はどこからくるのか。腹立たしかったが、そんなに言うなら飲んでやろうと思った。変らないじゃないと言うために。だけど、
「おいしいでしょう?」
癪だけど、おいしかった。
「ココアを作る時は、粉を入れて、少しだけお湯を入れてよく練らなくちゃいけないんだ。可南子ちゃんは一挙にお湯を入れてかき混ぜるだけだろう? 面倒くさがってやらない」
別に面倒くさがってるわけではない。そんな風に作るなんて初めて知った。聞いても、これから実行する気は全くなかったけど。
「ココア好きな割りに、頓着ないよね」
「いいでしょ。私の勝手」
「でも、おいしいほうがいいでしょう?」
田部は楽しそうだった。私を馬鹿にしてるのか。やっぱりこの男とは合わない。
「だから、これからは毎日作ってあげるよ」
「いらない」
即答で断った。当然だ。どうして田部にココアを作ってもらわねばならないのだ。それも毎日。……あれ? この会話、
「思い出した? ずっと前、まったく同じ会話をした。可南子ちゃんが小学校三年で、僕が六年の時だ。可南子ちゃんは『約束ね』と言った。『それは僕とずっと一緒にいるって意味だよ? これは口約束じゃないからね? いいね?』と念を押して『じゃあ可南子ちゃんが二十歳になったら結婚しようね』と言ったら可南子ちゃんは『わかった』と答えてくれたね。だからはいこれ」
どこに隠し持っていたのか四角くて青い箱を出して置いた。それと一緒に添えられている紙には「婚姻届」とある。
「今日は可南子ちゃんの二十歳の誕生日。指輪のサイズは九号。僕の名前と証人欄の記名は終わってる。後は、」
田部はペンまで持っていた。「書くまで帰さないから」と脅迫まがいの言葉を添えて手渡される。冗談じゃない。私は知っている。田部は中学に上がってから素っ気無かった。遊びに行っても相手にしてくれない。冷たい。嫌われたんだ。仕方ない。私は諦めた。距離をとった。
「早く書きなさい。そしたら、他の男を好きだと思ったことは忘れてあげる」
「えらそうに。指図される覚えはない。先に私から離れて行ったのはそっちだ。今更こんなもの……」
私は婚姻届をビリビリに破いた。傷つけてやりたかった。昔、私が傷ついた時みたいに。そしたら少しはスッキリすると思えた。田部を見る。表情は変らない。悲しみも怒りも感じていない。それを見て私の胸が痛んだ。どうして田部は傷つかない? 感情が動かない? 私だけがいつだって一人でむきになっている。
「泣かなくていいよ。ほら、いっぱいってわけじゃないけど……あと十枚は予備があるから」
見ると田部は婚姻届の束をひらひらさせていた。
「知ってる? 区役所ってなかなか婚姻届くれないんだよ。だからいろんな区役所回ったんだ。可南子ちゃんは絶対破り捨てるだろうと思ったから」
私のことをわかっているような口調。それがまた気に食わない。やっぱりこの男は私を苛立たせる。殺してやりたいとまで思わせる。そんな男は他にいない。これからも、私を苛立たせ続けるのだろう。ずっと。ずっと先も。死が二人を分かつまで。
2010/7/24
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