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恋愛前夜

 何かがご機嫌を損ねているのは間違いない。
 時枝さくらの心には不安が広がっていた。黒瀧一和が無表情を通り越したときに出る、ほのかな笑みを浮かべていることに怯える。不機嫌に顔をゆがめて苛立ちを隠しもしないでいる状態はまだいい方で、こういう時のほうが性質が悪いのだ。いつもなら、抵抗するところだが、恐ろしくってできやしない。かねがね嫌だと断り続けていた黒瀧の家に連れられてきた。
 黒瀧の家は少し複雑で、彼の実の父親は他界している。母親は元々華族の血を引くいわゆるいいところのお嬢さんだった。身分違いの恋に落ちた二人は駆け落ちして結ばれた。しかし、黒瀧が小学校にあがる前、父が事故死し、母親は実家へと連れ戻された。その後、相応の身分の男と結婚させられた。黒瀧は母親と引き離され、本家への立入を禁止され育った。金銭に不自由のない暮らしではあったが、幼い子どもが人の温もりを知らぬまま大きくなれば、歪みが出る。例にもれず黒瀧の性格も荒んでいった。
 通されたのは豪華なマンションの一室。ここで一人暮らしをしている。生活感がない。モデルルームのようだ。黒瀧は脱いだコートをバサリとソファに置く。
「つったってないで座れば?」
 座れば?と勧められたが、実質命令だった。
「う、ん」
 さくらは黒瀧が置いたコートをさけるようにしてソファへ腰掛けた。それを確認してから、黒瀧も隣りに座った。あまりに近い位置に気配を感じて思わず体を横にずらしたが、ふいに腕を掴まれて引き戻される。「いや、ちょっと近いし」と気まずそうに幾度か離れようと試みたがその度に、「ここに座れ」と手を引かれ隣に座らせられるので諦めた。
 この男、人にベタベタ近寄ってこられるのは嫌だとか言ってなかったか? と思うがそんな突っ込み出来る雰囲気ではない。
 正面には三十六インチの液晶テレビ。ピカピカに磨かれた黒い画面には、それを見つめるさくらと、さくらの方を見つめている黒瀧の姿が綺麗に映っていた。黒瀧が自分を見つめているのは気配でわかっていたが、射抜くような強さに体が強張って振りむけず硬直していった。
 どうしてこの男はこんなにも見つめてくるのだろう。そしてどうしてこんなにも機嫌が悪いのだろう――ソレに対する心当たりがなくはない。が、自分の口からは言えない。言っても「なにを自惚れている」と一蹴されたらこちらが恥ずかしい。でも、それ以外に思いつかないのも事実で。ひとしき逡巡していると、先に黒瀧が口を開いた。
「それで、俺に話すことがあるよな?」
 静か過ぎる声が威圧感を増していた。
「話すこと……ですか?」
 怖くて丁寧語になる。その他人行儀さがこれまたお気に召さないのか黒瀧の眉が寄った。だが、今は優先させるべきことは他にある。とこらえ、催促するように肩まで伸びたさくらの髪を撫でる。その手つきは執拗だ。
「あの……昨日の放課後の、こと?」
「昨日の放課後が何?」
 口調が優しいのが恐い。
「こくはく、された」
「へー。それで? なんて断ったんだ?」
 断った――当然のような問いかけに、さくらの心臓が跳ね上がった。断っていない、からだ。受けてもいないが断ってもいない。よく知らないし、と告げたら、じゃあお友達からではどう? と打診され、うなずいてしまった。生まれて初めて男の子に告白されて舞い上がっていたというのもあるし、こんなに真っ直ぐに「好きです」と言われると嬉しかったし、人の良さそうな笑顔を邪険に出来なかった。
 そもそもさくらは付き合っている人はいないのだ。
 黒瀧から何も言われていない。執着を見せることはあってもそれがどうしてなのか直接聞かされた覚えはない。そんな曖昧な態度の理由を自分から問いつめるのも思うツボな気がして、さくらからも追求することはなく、黒瀧の好きにさせていた。ただ、それでさくらが納得しているものだと思っているのなら、それは違った。
「……それはプライベートなことなのでお答えできません。というか、関係ないじゃない、あなたに」
 冷たく言い放ってしまってさくら自身驚いた。しかし、言ってスッキリしたというのも正直な感想だった。まるでさくらを所有物かのように扱っているが、他にも付き合っている女性がいるのを知っていた。
 昨日だってそうだ。告白された帰り道、綺麗な女の子と歩いている姿を目撃してしまった。黒瀧自身、さくらが見ていたことを気づいただろう。だが黒瀧は弁明することはなかった。さくらも聞かなかった。言及できる関係ではなかった。聞きたくても聞けずにいたもの、私は何なのだろうかと、溜め込んでいた気持ちが溢れ出ていた。
 黒瀧は黙ったままだった。
(――何をムキになっているんだろう)
 そう思うと、実にバカらしく思えた。本心で、何かを期待している自分がいること。そしてそれはきっと黒瀧だってわかっているだろうこと。全部が嫌になった。こんな腹の探り合いをしてもなんの意味もない。回りくどいことなどせず、素直になれる相手が他にいる気がする――たとえばそう、昨日の彼のような。
 もうここに用はないと席を立ち上がった。が、
「誰が帰っていいと言った?」
 腕を掴まれ阻止される。振り切れないほどの強さではなかったが、眼差しの鈍さに体が固まっていた。不遜な言葉とは裏腹に、心許なそうに揺れる表情は今まで見たことのないほど切なかった。掴まれた腕が熱い。さくらは視線を合わせることもできず、立ち尽くすしかできない。緊張で口の中が乾ききっていた。
「なんでだよ」
 かすれた声で、黒瀧が言った。
 なんで?――さくらの方が言いたい。自分のことをどう思っているのか。どうしたいのか。何を望んでいるのか。さっぱりわからない。聞こえてくるのはろくでもない噂。裏付けるような現場を何度も目撃している。「彼女きどり」で妙なことを口走るなんてみっともない。私と黒瀧はなんでもない、黒瀧の気まぐれに付きあってるだけだ。そう自身に言い聞かせてきた。
「お前、俺のこと好きだろ?」
(――好き?)
 面と向かって問われると、否定したくなる。
 さくらは黒瀧の言葉を反芻させた。認めることが出来なかった気持ち。認めてしまえば後戻りはできない。みじめな思いをするに決まっている。だからはぐらかしてきた。好きな人に好きだと言えない。素直になれない自分がいる。プライドが邪魔をしていた。その後ろに隠した臆病さが、自信のなさが自分の本当を拒絶する。弱くて情けないと思う。気持ちを誤魔化し、平気なふりをする。強がりを、自分でも気づいていた。だがどうすることも出来ない。
「あたしは、」
 ここで素直にならなきゃ、後悔する――でも、言葉はいつだって肝心な時には出てこない。代わりにこぼれたのは、涙だった。
「あなたは、ズルイ」
 こらえてもあふれ出る涙を手で拭う。呼吸がうまくできず、肩が上下した。ゆっくりと手を胸元へ下ろし、深く息を吐く。取り乱してはいけない。感情的になっても意味はない。わめきちらしても、嫌われるだけだ。嫌われてもいいから「好きになって」と迫る勇気はなかった。
「ごめん、帰る」
 瞬間、腕を強く引かれ体のバランスが崩れた。そのままソファに倒れこむと、黒瀧が覆いかぶさるってくる。すぐ前に、端正な顔があった。先程までの不機嫌さは消えていた。
「だから、誰が帰すかよ」
 掴まれたままの腕をより強く握られる。
「一度しかいわねぇからな」
 拗ねた子どものような、ぶっきらぼうな物言い。
「好きだ」
「――っ」
 聞きたかった言葉はあっけなかった。黒瀧は言ったきりそっぽを向いている。ただ、掴まれた手だけはそのままだった。さくらは押し倒された体勢を戻し、乱れた服装を整えた。耳まで赤くなっている黒瀧の後ろ姿をぼんやりと眺めながら「好きだ」という言葉が聞き間違いでも空耳でもないとわかる。反応を返さなければいけないと思いながら、言葉が出てこない。
 自分の手を掴んでいる黒瀧の腕を空いている手でそっと触れると、黒瀧の体が揺れた。
「あの……」
「なんだよ」
「今の本当?」
「な……」
 俺の一世一代の告白を疑うのかよ、とカチンときて振り向くと、不安げに揺れる眼差しとぶつかって息をのむ。意地を張って素直になれない性分だと自覚していた。さくらに対する態度が湾曲していることも。それでもなにかにつけてちょっかいだして、そばに置こうとして、誰が見ても好きだとバレバレだったはずだ。さくらだって、嫌なのであれば相応の態度を示すはずだが、黒瀧の傍若無人ともとれる態度に呆れてはいても拒否することはなかった。だから憎からず思っているのだろうと納得していた。
 そもそも、女に告白をしたことがない男だ。いつだって言い寄ってこられて、気に入ったら付き合うという贅沢な環境になれきっていた黒瀧に、自ら告白しようという発想はなかった。いづれさくらから言ってくるまで待つつもりでいた。しかし、これが案外にうまくいかない。告白どころかどちらかといえば距離を置かれていく。自分が他の女と一緒にいれば、嫉妬するんじゃないかと子どもじみた発想の元、わざと他の女と仲良くしてみてもなしのつぶてだ――いうよりも、その行為が不信感を抱いているという事実に気づいていないのが問題なのだが――でもまぁ、このままでも恋人同然かな、などと勝手なことを思っていた。だが、状況が一転した。
 昨日のあの告白劇だ。
 自分がいるのに告白してくるようなバカな男などいないとたかをくくっていたのと、仮に告白されても断ると思っていたので、答えを保留にさせたさくらに嫉妬と怒りで眩暈がした。当の本人には黒瀧の本気さが伝わっていないらしいことにイラついた。
 わざわざ形にしなくちゃいけないのか? そんなことしなくても、気持ちが伝わっていればいいんじゃないか? ――意外とメルヘン思考の黒瀧だったが、うかうかしてはいられない。嫉妬させて告白させようと思っていた黒瀧自身が、まさしくその通りの行動を出ていた。しかも、その滑稽さに気付いていない。それほど焦っていたのだ。
 で、ハッキリさせるために誰にも邪魔されないよう自宅まで連れてきたわけだが……。いざとなるとどう切り出していいか、何よりも昨日の出来事への怒りがおさまらずに、出てくる言葉は八つ当たりじみたことばかりだった。あまつ、さくらが泣き出して去ろうとした時にはほとんどパニック状態で、追い詰められた末の告白というなんとも情けない有様に、自身でうんざりしてた。
 しかし、涙目のまま、不安と期待が混ざった眼差しで見つめられて、素直になるのが恥ずかしいと意地を張るなんてもうどうでもよくなった。
「さくら」
 熱っぽく囁いて、さくらの頬にそっと触れる。これ以上ないというほど、愛しさげに呼びながら距離をつめて、互いの吐息を感じるぐらいまで近づく。唇が触れ合いそうなまで近寄ると熱さが伝わって心臓が早まる。そらさずに絡めたままの視線に理性は崩壊寸前だった。
「好きだ」
 そのまま、柔らかな唇に自らのそれを重ねた。
 触れた唇はしっとりと柔らかく、求めていた温もりに愛しさはつのった。名残惜しげに離すと、白い肌は照れているのか真っ赤で、潤んだ瞳は困ったような泣き出しそうな色を浮かべている。合わさった視線から逃れようとする。その一瞬前に逃さないとでもいうように再び口付けた。
「んっ……」
 甘い吐息がかすかにもれて、可愛くてたまらない。唇を合わせるだけでは物足りず、吸い付くようにさくらの上唇を舐めると、ビクリと体が揺れ動いた。両腕で胸元を押し返されたが、その細い手首を拘束して深く舌を這わせた。そのままソファに押し倒して、何か言いたげな仕草を無視し、角度を変えては深く浅く口付けを繰り返す。いい加減息も絶え絶えというところまで追い詰めて、ようやく開放してやると、恨みがましそうな眼差しが返ってきた。その表情がまた焦燥を増していく。
 一度触れると、堪えてきた欲望はとまらない。さくらの全てに体が反応し、飢えを満たそうと、もう何度目かもわからない口付けを落とす。掴んでいた手首を開放し、艶のいい髪に触れる。指先をすべる滑らかな髪を撫でながら、名を呼び「好きだ」と囁き続けながら落とされるキスは、中毒性の高い薬のように抗いがたいものだ。さくらはすっかり抵抗をやめてしまっていた。だが、髪を撫でていた指先が、いつのまにかシャツのボタンを外し、胸元へ進入しようとしているので声が出た。
「っちょっと、ちょっ……待って」
 咎める言葉を無視してこのまま続けてしまいたいのが黒瀧の本音ではあったが、無理強いをして嫌われるのは困る。とりあえずさくらから体を離し、乱れた呼吸を整える。
「どうした?」
 さくらの頬を手の甲で触れながら優しく問いかけるが、話を聞くほどの余裕は実はない。外されたシャツのボタンをとめなおし、起き上って服装を整えるるさくらを、どうせすぐにまた押し倒すのだからそのままでいればいいのになどと不埒なことを思い浮かべながら見守る。
「展開が速すぎてついてけない」
「そう? 俺はずっとこうしたかったけど」
 もうずっとだ――と言いながら、手を取り指先を弄ぶように一本一本に唇を落とす。さくらは黒瀧が目の前で繰り広げる光景を、映画を見るように眺めてた。夢なのではないか不安になる。先ほどまで、つっけんどんな顔つきで、ぶっきらぼうに怒っていた男と同一人物とは思えないから。甘さに面食らったが、女を口説くときにはこうなのかと不信感も生まれた。そうでなくったって「遊び人」だと聞きたくもない噂を耳にして、昨日だって女の子と歩いている姿を目撃してしまったのだ。理性が急速に気持ちを引き締めろと警笛を鳴らす。
 さくらの陰った瞳とかすかに強張った体の変化を黒瀧も敏感に感じとっていた。さくらが何を思っているかも如実に。だが「俺を信じられないか」とは言えない。己のしてきた行動を考えれば疑われても仕方ない。このままなし崩しに抱くことはできるが、さくらの不信感を感じたままで肉体の満足だけ得るのはいい案とは思えなかった。ただ、今を逃すと永遠に手に入らない気もする。
「俺は――」
 言葉が続かなかった。思いつくフレーズのどれもが届かない気がして、何も言えなかった。黙った黒瀧に対して、繋いだままの手をギュっと握り返して、さくらが告げた。
「あなたのことは好きです」
 純度の濃さは、同時にさくら自身の清らかさでもあった。黒瀧のことを疑う気持ちとは別に、さくらが黒瀧を好きであることに偽りはない。確かなことをまっすぐに伝える眼差しをうけて、黒瀧は自分のこれまでの所業の無責任さと気軽さを悔いた。本当に誰かを好きになったとき、伝える手段を己で塞いでしまっていたなんて、気づくことなく過ごしてきたことがいたたまれなかった。
「帰るね」
 立ち上がったさくらの腰に、しがみつくように抱きついた。小さな子どもが母親にすがり付く心もとなさの衝動。物心つく前、なすすべもなく奪われたもの。二度とあんな思いはしたくないと無意識に誓い、大事なものは作らないでおこうと決めた。この世に絶対などないのだから、失わないために最初から手に入れず、何も持たないでいることを選んできた。だが、心の欲求は長い年月とともに、より渇望を大きくして表面へ浮上し、やっと欲しいと思う対象を見つけたのだ。
 さくらは、黒瀧の髪に触れ、逃げるわけじゃないから――というように唇が触れるだけの軽いキスをする。
「帰ります」
 言うと、振り返らずに部屋を後にした。
 残された黒瀧は無性に涙が溢れてきた。お手軽な関係のみを選んできた黒瀧は誰かと真剣に向き合う方法を知らない。誰でもいいわけではない、特定の誰かでなければいけない、そういった付き合い方がわからない。そんな自分を認めるのは辛い。今までだってそれを知るチャンスは幾度もあったのに、全部見過ごして知らぬ顔を通してきたツケだ。後悔と、そしてほんの少しだけほっとしたのだ。わかったふりをして、華やかな恋愛をくり返しながら、本当は虚勢をはっていただけだ。未発達な心を見せないでいることに疲れ果てていた。だが、もう、そんなことはしなくていい。さくらとであれば、自身の幼い心のまま向き合っていける気がして、安堵して泣いた。



2009/2/12 執筆 「まだ恋ははじまらない」
2010/3/27 加筆修正 再掲載

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