しぐれごこち 01
虹子という名が小学校五年生まで嫌いだった。「虫」という漢字が入っているところが気に食わない。どうしてこの字が人名漢字として認められているのか。だから「自分の名前の由来について調べて作文を書きなさい」と宿題が出た時は倒れそうだった。真面目さが取り柄だったけど反発した。そんなものやってられるかと息巻いたのだ。最も、叱られるのは嫌だったので結局は取り組んだわけだけど。
「ねぇ、私の名前の由来って何?」
夕食を食べ終えて、母に尋ねた。
「あなたが産まれたとき、空に虹がかかっていたから虹子。素敵でしょう?」
「そんなことだろうと思ってたけど、ありがちだよね」
なんの躊躇いもなく話す。ため息さえ出ない。虹が出ていたから虹子。まんまだ。衝動でつけただけ。考え抜いた名前ではない。
「他に候補とかなかったの? 生まれてくる前にもっとあれこれ考えたりしなかった? 一生ものなんだから迷ったりしなかったの?」
「暁生に電話して聞いてみなさい。あなたの名前は暁生がつけたから」
「暁生さんが?」
予想外の答えだった。暁生というのは、母の弟、つまり私の叔父だ。母より四歳下だけど年を取らないのではないかと思うぐらい若々しい。傍目からは母よりも私と暁生さんが兄妹だと思われるほどだ。だから「叔父さん」という言葉が馴染まなくて「暁生さん」と呼んでいる。暁生さん自身も私に対して「叔父」と呼称したがいつ頃からか「僕」と変わった。
「どうして暁生さんが私の名前をつけたの?」
初めての子どもの名前なら自分たちで付けたいと思うものではないか。どうして叔父に頼むのか。ますます適当だなぁと思った。怠慢と言っていいかもしれない。
「暁生には子どもがいないでしょう。だから、名づけ親になってもらったの」
子どもがいないというよりも前に、暁生さんは結婚さえしていないではないか。理由になっていない。
「じゃあさ、暁生さんが結婚して子どもが生まれたらその子の名前はお母さんがつけるの?」
「そうだったらいいわねぇ」
皮肉ったつもりがしんみりとつぶやくのでこれはだめだと思った。「自分の子の名前は自分でつけようよ。交換してつけるなんてややこしいことしないで!」と思ったが諦めて暁生さんに電話することにした。
呼び出しコールが六回鳴ったところで受話器があがる。
「はい、杉原です」
低くもなく高くもない耳馴染みのいい声が聞こえた。暁生さんだ。
「虹子です」
「……虹子? どうしたの?」
「うん。ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこ……っ」
何かがひっくり返ったような音と、暁生さんの鈍痛な声。
「もしもし、暁生さん?」
「ご、ごめん。今、子機が壊れてて……ラーメンを作ってたんだけど、不精して、」
ラーメンを作るために鍋を火にかけていた。電話が鳴ったので出ようとした。現在子機が壊れていたので本体でこの電話を受けた。鍋に視線を戻すと沸騰していた。火を止めようとしたが、受話器のコードが炊事場まで届かず、無理をしたら鍋をひっくり返して悲鳴をあげた。たどたどしい説明から推測するにそういう状況なのだろう。
「大丈夫なの? 火傷とかしてない?」
「体にはかかってないよ。でも水浸し……お湯の場合も水浸しっていうのかな?」
どうしてこの人はこういう状況でそんなどうでもいいことが気になるのだろう。しばらくの空白ののち「まぁいいや」と小さな声が聞こえてきた。それはそうだろう。今、するべきことは、散らかった惨状を片づけることなのだから。「じゃあ、一端電話切るね」と口を開きかけるが先に暁生さんが言った。
「聞きたいことって何?」
まぁいいや、という呟きはお湯を水浸しというかどうかではなくてこの状況そのものだったらしい。暁生さんの目にはひっくり返った鍋と水浸しになった床が映っているはずなのに、それを無視することに決めた。
「暁生さん、この場合、優先しなくちゃならないのはまず鍋の後始末をすることじゃないの?」
「え? だってこぼれちゃったものは元には戻らないし、うちは一軒家だから下に水漏れする心配もないし、急がなくていいだろう」
「私が気になるから! ちゃんと片付けて、ご飯も食べて。一時間ぐらいしたらまたかけるから。じゃあね」
強引に受話器を置く。後ろでやりとりを聞いていた母は笑っていた。
「あの子、また何かやらかしたのね」
「鍋をひっくり返したみたいだけど、火傷はしなかったみたい。でも、片づけを後回しにして私の話は何かって聞くから先に片づけてって言ったの」
「あらあら、あの子ったら虹子が可愛いのね」
「その解釈も間違っていると思うけど」
この母にして、あの叔父ありだ。疲れを感じながら、先にお風呂に入ることに決め、リビングを後にした。
一時間して、暁生さんに電話する。今度はコール音一回で受話器があがった。一時間後に電話すると言えば、時間には電話の前で待っている。暁生さんはそういう人だった。
「ちゃんと片付けてご飯食べた?」
「虹子。僕は子どもじゃないんだよ。ちゃんと片付けて食べたよ」
喉を鳴らすような笑い声が聞こえた。
「それで、聞きたかったことって何? 気になってそわそわして待ってたよ」
ほんとうにそわそわして待っていそうだ。でも口にしない。一つずつ突っ込んでいては話が先に進まないから。
「学校の宿題で『自分の名前の由来』を調べてくるように言われたんだけど、暁生さんが私の名前つけてくれたんでしょう? だから電話したの」
「由来か。そんな宿題がでるんだ」
「そう。だから困ってるの。虹が出ていたから虹子って本当?」
「ずいぶんと不服そうだね」
暁生さんは笑っているが少しも笑いごとではない。無言のままでいると話を続けた。
「ずっと考えていたんだけど、なんだか実感が湧かなくてね。名前って一生ものだろう。責任重大だし。それにこの世に生まれてきて最初にプレゼントされるものだから、やっぱり僕じゃなくて姉さん夫婦が付けるべきなんじゃないかとも思ったし。だからずっと断り続けていたんだよ」
暁生さんの言い分はまともだった。どうして母はそれでも暁生さんに名づけ親を頼んだのだろう。
「けど、陣痛がはじまりだして、これから病院に向かうって状態の姉さんから電話がきたんだ。信じられる? どこにそんな余裕があるのか。『次に会うときは私は母親で、あなたが名づけ親よ』って力強く言われたちゃって。びっくりして断りそびれた」
「それで引き受けたの?」
「いや、それでも迷ってたよ。実際、これだと思える名前も考え付かなかったし」
受話器からこれまでの笑い声とは違う、切ない微苦笑が漏れてきた。少し困った、照れ笑いのような顔を浮かべているのだろう。目に浮かんでくる。
「分娩室に入ったのが午後二時過ぎだったんだけど、それからが大変でね。難産でなかなか産まれてきてくれなかったんだ。義兄さんとおばあちゃんが付き添っていたけど二人ともかわるがわる電話してきた。それが深夜前まで続いてたけど、日付が変わると今度はピタリと連絡がなくなったんだ。それが逆に怖くてね。何かあったのかと心配した。それで、明け方、四時、ようやく電話が鳴ったんだ。『産まれた』って義兄さんからだった。あんな夢見心地の声は聞いたことがないな。男? 女? と聞いても答えてくれなくて、可愛いと繰り返すだけなんだ。それを聞いていたら、なんだかいてもたってもいられなくて、病院へ行くことにしたんだ」
普段、あまりおしゃべりではない暁生さんが、なめらかに話す口ぶりが不思議だった。何度も何度も思い出してはなぞっていた光景のように感じられた。
「急いでいる時はどうしてあんなに信号にひっかかるだろう。病院までほんの十分くらいなのに、ことごとく引っかかってね。朝方だったし、車も通ってなかったけど、こういう時に限って事故に遭いやすいんだよなとか思いながら、病院に一番近い信号を待っている時だった。ふっと空を見上げたんだ。色素の薄い、白い画用紙に青い水を垂らしてしみ込ませたような空で、東には太陽が昇り始めていたけど、高い位置に月も浮かんでいた。その近くに虹が出てたんだ。それもまったいらな虹なんだ。ずいぶん後にそれは『環水平アーク』という現象だと知ったんだけど、そんなの知らないから、孤を描かず、まっすぐ直線の虹なんて信じられなかった。あんなに鮮烈な風景は生まれて初めて見たよ。虹は神界に通じる橋と言われているけど、ああ、神様っているんだなって感じた。これはもう虹って入る名前以外ないって決めたんだ」
「それで虹子になったんだ」
「そう。太陽と、月と、虹と、何もかもが存在していた。まるで世界のすべてを凝縮したような、あの奇跡の空からね」
奇跡の空――その言葉の持つ優しい音が私の胸にやわらかな色をつけた。空に虹が出ていたから虹子。母に聞いた通りの話なのに、暁生さんの話は、初めて聴かされた寓話のような甘酸っぱい匂いがした。心地よい声音のせいか。いや、もっと、強いものだ。虹子という名前が、この叔父にとって、特別で大切なものなのだと感じられた。
2010/7/4