何もいらない
数日前、市の役員だと名乗るその人は突然私の元へやってきた。「児童虐待防止法」とかいうのがあって、私はパパとママの元から引き離されて「施設」というところへ入ることになった。
「施設」につくとその人は私に言ったのだ。
――あなたのしたいことは何? 望んでいることは何?
繰り返し繰り返し言った。私は答えられなかった。何故そんなことを聞くのかもわからない。
望みなんてないわ。何もいらない。
でもその人は許してはくれなかった。
ちゃんと考えなさい。考えて、知りなさい。自分が何を欲しがっているのか。そして、それを求めなさい。人として大切なことだよ。と。
求めることだ大切? そんなこと今まで誰も言わなかった。
パパもママも私が大人しくしていることを望んでた。お人形のように静かにしていることを望んだの。何かを求めるなんてとんでもない。私に許されていたのは呼吸することだけ。ううん。出来るなら呼吸も止めることを願ってた。
「パパとママは私を捨てたの?」
「いいえ。そうじゃないわ」
「じゃあ、どうして私はここへきたの?」
「あなたの両親は子どもの愛し方を知らなかったの。そんな二人が一緒になってしまった。そしてあなたが生まれた。でもね、あなたは愛されることが必要なの」
「愛されること? ここでそれを教えてくれるの?」
「ええ。そうよ。ここでね。あなたはあなたの望みを知らなくちゃいけない。そしてそれを人に求めることを学ばなければいけない。満たされるということを知る必要があるの」
「……満たされる?」
「そうよ。自分の欲求を持ち、それを満たしてあげるの。自分のことを愛することを知るのよ」
「私の欲求?」
「ええ。いい? 人はね、欲求を持たなければいけないわ。度が過ぎた欲望は危険だけれど、望んだり願ったり、人に求める能力は大切なことなの。人が人らしくあるために。あなたの両親はあなたにそれを禁じてしまった。あなたは生きるためにそれを捨てた。そうじゃないと生きれなかったから。でもね、それを取り戻さなくちゃいけない。ちゃんと生きるために」
「ちゃんと生きるために?」
その人が言っていることはなんとなくわかった。いつだったか覚えていないけれど、私はからっぽになったのだ。それまでは私にも願いがあった。それが叶わないと、苦しいとか、寂しいとか、辛いとか、涙が出たこともある。それがいつしかなくなった。なくなったことさえ、忘れていた。失った思いが、この人の言う「生きていく上で大切なこと」なのだろう。私は無くしてしまったのだ。取り戻さなくちゃいけない。
「……それを取り戻したら、私はどうなるの?」
「人らしくいられるわ」
「それは幸せなのこと? 今よりも?」
「ええ。きっと」
幸せ……言葉にしてみて私はドキリとした。幸せということがどういうことかよくわからない。だた、自分のことを不幸だと思ったことはないけれど、幸せかと問われると何か違う気がしていた。でも、
「でもね、私はパパとママのところへ戻りたい。一緒にいたいの。それが私の望みよ? たった一つの望み。けど、それは叶えてくれないんでしょ? だったら私、他には何もいらないわ」
その人は私を抱きしめてくれた。お日さまの匂いがした。ぽかぽか暖かくて気持ちがよかった。
2009/10/17