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神様の消えた夜

 知らせが来たのは月の消えた夜だった。
 頭が真っ白になった。急に世界が色を失った。
――兄が、人を、刺した。
 元々、とても弱い人で、その狂気は内に向かっていた。自分自身を傷つけ、病院に入院することもあった。だけど、それが外側に向かって、人を、傷つけた。
 驚いた、というよりも、そのようなことが起きても不思議ではないと思われた。ただ、そんなこと起きてほしくなかったし、流石にそこまではないだろうと、考えなかった。もしかして、もっと慎重になっていれば、起きなかったのかもしれない。そんなことが頭を駆け巡った。
 事件発覚後すぐ、被害者の方へ謝罪をしに行った。命に別状はないものの、何かしらの心理的ストレスが出るかもしれない。被害者のご家族に酷く罵られる両親の姿。じっと俯いて耐えていた。
 それから、家に嫌がらせの電話がくるようになった。
 僕たちは責められた。
 僕たちと兄は別人なのになぁ。と、思う気持ちはあった。
 だけど、そんなものは通用しないのだと知った。
 振り返ってみると、僕も同じだ。「親の育て方が悪い」、と青少年の犯罪に対して口にしたことがある。ちゃんと愛情を持って育てていれば、こんな真似しないだろう、と。
 今の現状は、あの時の自分自身を見せつけられているのだと思った。
 でも、中には、優しくしてくれる人もいた。慰めて励ましてくれる人も。僕が悪いわけじゃない。自分を責めることはない。そのような言葉をかけてくれた。僕は泣いた。泣くつもりなんてなかったのに、溢れてきた。
 批難する声と、同情してくれる声。その両方に、僕は揺れていた。心が潰されるような言葉を浴びせられ、もう死んでしまいたいと思う。すると今度は、救いのような思いやりの言葉が降ってくる。死と生の両方から引っ張られている感覚。
 そんな風に、日常を過ごしていた、ある夜。
 僕は、公園のベンチに座っていた。
 その時、僕は、死への天秤に傾いていて、絶望に包まれていた。
 すると、一人の男が傍に近寄ってきた。薄汚い格好をしている。この公園に住んでいるのだとわかった。いつもの僕ならば、避けていたに違いない。だけどこの時は立ちあがる気力もなくじっとしていた。男は僕の隣に腰かけた。
「死のうと思ったことはないですか」
 後になって考えれば、実に失礼な問いだった。そのような状況で、生きていて意味があるのか。僕が言っていることはそういうことだった。だけど、男は静かな声で、
「ありますよ」
「だったら、どうして」
――生きているのですか。
 僕は更に告げた。すると、
「弄ばれるのはごめんだからです」
 男を見る。男は真っ直ぐ前を見ていた。それからふっと笑って、
「私のような生活をしておりますと、蔑んだ目で見られることは多いです。負け犬。社会のゴミ。そのように扱われます。だけど、優しい言葉をかけてくれる人もいます。否定されたり、許容されたり、私は何一つ変わらないのに、人によって反応はさまざまです。そういう人々を見ていて、気付いたんですよ。
 彼らは自分が思っていることを言っているだけで、けして当事者ではない。物事に対して、当事者である、ということは稀です。多くの出来事に対して、ほとんどの人は第三者でしかない。
 当事者ではないというのは強者であるということです。
 第三者なら何でも言える。当事者になりえない限り、なんとでも言える。 励ますことも、批難することも、なんでもできる。当事者ではないから。
 そして、その力を優しさにする者もいれば、乱用する者もいる。強者の戯言は無理解で無慈悲でもあるし、優しく思いやりにあふれてもいる。聞かされた当事者が心を殺されてしまうこともあれば慰められることもある。
 そういうことなんだ、と気付いた時、まるで手のひらで弄ばれているみたいだ。と思いました。それはとても残酷なことだなぁ、と。
 それでね、思ったんです。
 自分の人生の当事者は自分だけ。本当のことを知っているのは自分だけ。それをわかってもらおうとしても無理な話です。私だって自分以外の人のことはわかりません。第三者でしかありえませんから。ならば、死を選ぶことは、私の人生から当事者を消すことになるのではないか、と。たった一人の当事者を失ったら、この人生、ただ弄ばれているだけになる。そんなのはご免だと。
 だから、死ぬまで生きるんですよ」
「強いんですね」
「弱者の意地です。それにね、」
 男は僕を見つめた。
「私のような者でも、人にとっては第三者。強者です。弱い当事者としてではなく、強い第三者としても存在しているのです。だから、持てる力がある。その力を優しさとして使う。それが、私に優しくしてくださった方への恩返しになると思っています。あなただってそうですよ。弱いだけの当事者ではなく、強い第三者でもある。あなたが出来ることは沢山ある。そう思いませんか?」
――だから生きるべきなのです。
 そう言って、男は消えた。
 空を見上げると、満月が浮かんでいた。




2011/2/21

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