運命
左手の親指の爪を噛むようになったのは、彼と出会って二年が経過した頃だ。
ある日、私の親指の爪の尋常ではない擦り減り方を見て「それって自傷行為だよ」と嬉しそうに微笑んだ子がいた。鬱や精神病に憧れる変わった子で、私の指を見て「お仲間」とでも思ったらしかった。それからやたらと、今日はなんとかって薬を飲んだのとか、リストカットしたとか、喜々として話してきた。
怖くなった私は、携帯番号を変えた。
ただ、「自傷行為」という言葉がひっかかってはいた。自分でもうすうす、追い詰められていることはわかっていた。この男の傍にいては危険。不満と不安でどうにかなってしまう。
どうにかしなくては――でもどうしようもなかった。
勝手気まま、ないがしろにされまくり、いいように扱われ、いいところなんて何一つない。消耗していく心をかろうじて保っていた。楽しくも幸せでもない恋心。でも、好きだったのだ、彼を。
なんで、彼を好きになったんだっけ?
思い返してみる。
最初から、彼は風変わりな人物だった。初対面のあたしにむかって言ったのだ。
「俺さー未来がわかっちゃうんだよね。れーのーりょくってやつ?」
おかしなことを言う人だと思った。
「お前の人生に、絶対俺は必要よ。大事にして損はしないって」
それが口説き文句? と呆れた。でも、興味を持った。
それから男との付き合いが始まった。
――お前には俺が必要だ
面と向かってそんなこと言う人は初めてだった。
ハッキリ言われると、そんな気がしてしまったんだ。
今思えばバカみたいだけど、恋の始まりなんてそんなものなのだろう。
でも、ちっとも必要なんかじゃない。
必要に感じたことなどない。
彼と一緒にいると、不安でたまらなくなる。
あたしのことを好きなのかさえわからない。
どうして傍にいるのかもさっぱりわからなくなって怖かった。
「もうやめたい」
何度、繰り返しただろう。
彼は何も答えない。肯定も否定もない。いつも。
これで終われないことは、知っていた。
しばらくすれば、再びまた彼から連絡があるのだ。
普通なら、連絡なんてしてこないよね、と思うのに、なんの躊躇いもなく電話をよこす。
そして、残念なことに、あたしはそんな彼の気まぐれさも好きだった。
けれど、今度ばかりは限界。
心身ともに、もう無理だった。
「やめよう」
言うと、彼は静かに私を見つめてきた。
彼、らしくなく。まっすぐさに、心臓が止まりそうだった。
「わかった」
聴いた瞬間、あたしは悲鳴をあげた。声にならない悲鳴。
――どうしてうなずくの?
望みが叶ってほっとする気持ちより、初めて彼が別れを受け入れたことへのショック。
矛盾する気持ち。
だってあたしは彼を好きだったのだもの。
好きだけど、どうにもならなくて決めた別れだった。
だから、これでいいはずなのに、肯定した彼が信じられずあたしは逃げ出した。
終わった。終わった。終わってしまった。
この別れの意味をあたしは知ってる。彼も。今回は本当におしまいだって。
だって彼がうなずいたんだもの。納得ずくの別れなのだ。
あたしは走った。
走って走って。
深夜一時。濃紺の夜と開発地区のナトリウム灯のオレンジの光。
人通りはなく、大声で叫んでも平気そうだった。
家まで、もうすぐ。
横断歩道を渡って、その先にある、マンションがあたしの家。
青信号が点滅してたが、かまわず飛び出した――。
――え?
車のヘッドライトが眩しい。
白く照らし出される視界。
遮る黒い影。
人。
男、だ。
逆光になっているが、知った顔。
笑っていた。
人を食うような、にくったらしい、けれど愛しい笑顔。
唇が動く。音は聞こえないが、告げる言葉は読み取れた。
――……っ
気付くとあたしは、病院にいた。
長距離トラックの居眠り運転に突っ込まれたらしい。
あたしは彼につきとばされて、頭を軽く打ったものの、他は無傷だった。
彼は――
そのまま、トラックの右前輪に巻き込まれて、潰された。
顔の判別もつかなくなって、誰かもわからない状態で、即死。
葬儀はしめやかに行われたそうだ。
あたしは参列しなかった。
だってあたしは、彼とは別れてしまったんだもの。
赤の他人の葬儀になんて出席しないわ。
そんなあたしを友人は非難してきた。
命の恩人に冷たい。
いくらひどい目に遭わされてもあなたの命を救ってくれた人に、その仕打ちはない、と言った。
それまで彼の行為を散々に責めて、あたしに同情的だった人もみんな。
人なんて勝手なもんだなぁと思った。
あたしは助けてくれてありがとうなんて言わないわ。
彼があたしの好意を当たり前に受けとめていたように。
あたしも彼の死を当たり前に思うの。
だってこれは、運命だったんだもの。
悲しむ方がどうかしてる。
そう、彼は、最後にあたしに告げたのだから。
「だから言ったろ、じゃあな」
2008/12/12