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初恋

 ピアノは女の子のためのものだと思っていた。私の通っていた音羽ピアノ教室には女の子しかいなかったから、単純な私はピアノは女の子のためのものだと思っていた。
 だから、音羽ピアノ教室でその人を見た時は心底びっくりした。どうして男の人がここにいるの? なんで? どうして? と疑問符が散らばった。だけど、その人がピアノを弾きはじめるとその疑問は途端に止んだ。その人の奏でる音はとても美しかったから。同じピアノを使っているのに、私が弾くのとは全然違う。ああ、そっか、この人は特別なのだ。とっても巧いから、男の人だけど特別にピアノを弾くことを許されているのだ。幼かった私はそう納得した。
 後から知った話だが、その人は音羽ピアノ教室のさゆり先生の知人の息子さんで、音楽高校を受験するための練習が必要だったのだ。だけど自宅で夜遅くまで弾くと近所迷惑になるから、と、防音設備が整った音羽ピアノ教室に通ってきていたらしかった。
 ちょっと気難しそうな顔をしたその人の奏でる音楽を、私は大変気に入った。それまでは、実のところ教室に通うのが苦痛だった。ピアノなんて柄ではなくて、ただ、母が、女の子が生まれたらピアノを習わせるのだと決めていたという理由で通わされていた。嫌だ、嫌だ、とごねると、母は烈火のごとく怒り狂った。
「せっかくピアノも買ってあげたのに!」
 これが決め台詞。中古の電子ピアノだ。おんぼろピアノ。私は欲しくなかった。だけどピアノに何かしらの羨望がある母は、ピアノのある生活を夢見ていて、無理をして買った。狭い家が余計に狭くなったと父も兄も文句を言った。私だってそうだ。好きでもないピアノ。それを練習しろと強要されて、嫌なものがますます嫌になった。早くやめたい。ああ、神様、どうか母が目を覚ましますように。どう考えたって私には不向きだと気付きますように。と、願っていた。
 そんな時、その人が現れた。
 その人の出現により、私は音羽ピアノ教室に通うのがそれほど苦痛ではなくなった。ただし、相変わらず練習をしないので、先生には叱られてばかりいたけれど。でも、楽しい時間は長くは続かない。やがて、その人は志望校に合格した。そして、音羽ピアノ教室にも来なくなった。ほどなくして、私もピアノ教室をやめた。ピアノではなく、今度は近所に出来たクラッシックバレエを習わされることになったから。それで完全に私とピアノ、それからその人との縁は切れたのだった。 

 日曜の昼下がり、退屈を持てあまし、テレビのチャンネルを回していたら、クラッシック特集をしていた。そんな高尚なもの普段なら見ないのだが、私の好きな女優さんが出ているのでなんとなく見ていた。
「では次はピアニストの黒川かなでさんです」
 クロカワカナデ。その名前に体が反応した。だけど記憶の方が曖昧で、えっと、この人は、確か――と考えているうちに、黒川かなでが画面に登場した。それで一挙に記憶が蘇ってくる。黒川かなで。それは、かつて私が通っていたピアノ教室にいたあの人だった。間違いない。もうかれこれ十年以上が経過しているけれど、間違いなかった。黒川かなで。そんな名前の男の人が早々いるはずがなかったし、確かにその顔には見覚えがあった。
――ピアニストになっていたんだ!
 私は興奮した。知っている人がテレビに映っていることに。彼がずっと音楽を続けていてピアニストになっていたことに。そして、私がすごいと思った音は、やはり素晴らしかったのだということに。
 別に直接何かをしたわけでもないくせに誇らしい気持ちだ。売れる前のアイドルを「この子は売れる!」と言って、売れた後で「ほらな」と自慢するような、あの感覚だ。
 それから、画面を凝視する。
 司会者が黒川かなでに質問を始める。

「今日は"転機"をテーマにお話を窺っているのですが、黒川さんにとっての転機はいつですか?」
「中学三年生の時ですね。僕は高校から音楽学校に通っていたのですが、その受験のためにピアノ漬けの日々で……人生初のスランプに陥っていました」
「それは緊張からですか?」
「そうですね、たぶん焦っていたのだと思います。その頃、コンクールにも出たりしていたのですが、二位や三位入賞ばかりで、どうしても一位をとれなくて。だけど、自分にすっごく自信があって――自信というか若さゆえの過信だったのですが、『何故、認めてくれないんだ』みたいな気持ちが強くあって。嫌な奴ですよね」
「いや、でもわかります。若い時って自分が一番だと思いますよね」
「はい」
「それで、そのスランプをどうやって乗り越えたのですか」
「もう練習しかないって思いました。スランプになったときはいったん離れたらいいよって話も聞くのですが、それじゃ駄目だって僕は思って、こういうときこそ弾いて弾いて弾きまくらないとって。ですが、僕は普通のマンション住まいで、夜はご近所迷惑になるからと練習できませんでした。でももうその時は不安で不安で、とにかく練習していないと落ち着かなくて、見かねた母が、知人のピアノ教室を使わせてもらえるよう頼んでくれました。ピアノ教室といっても、防音設備はしっかりしていますが、グランドピアノが一台ある小さな教室で、初めて訪れた時、まだ生徒さんがいて……四歳、五歳ぐらいの女の子でした。どうもその子は親に無理やり習わされているらしくて、ちっとも練習してこない、教室一の問題児で、その時も先生に叱られていました。今、思えば微笑ましいのですが、当時何せ僕は傲慢を絵にかいたような性格で、『音楽は選ばれた人間のものだ。こんな子に弾かせるなんて冒涜だ』と、練習が終わるのを待っている時間がもったいない。とっとと代われ! と腹立たしささえ感じました」
「そうでなくても、ピリピリしていますものね」
「かなりピリピリしていましたから」
「それで、それからどうなったのですか?」
「それから、その子の練習が終わって、母親が迎えに来るまでソファに座って待っていることになって。先生がクッキーをだしたら嬉しそうに食べながら『来週はちゃんと練習してくるのよ』『はーい』『ホントよ?』『気が向いたらね』とかいうような会話が繰り広げられていたのですが、僕は一切無視して練習を始めました」
「ピリピリしていますものねぇ」
「はい……こっちは練習したくてたまらないのに! と思いつつ構っている時間が惜しいので弾き始めました。それで一曲弾き終えた時、その子が僕の傍まで走り寄ってきて『お兄ちゃん、すごいねぇ』って」
「……なんだか、それ危険な匂いがしますが…」
「今の話の流れだと、怒り狂いそうでしょ? 練習もしないピアノ嫌いの子どもにすごいなんて言われても嬉しくない! 邪魔するな! って」
「はい」
「でも、そうはなりませんでした。……今、わかりやすくほっとしましたね?」
「いや、一応ゲストの方のイメージを守るのも司会者の役目ですから。子どもに激高するって好感どう? と心配してしまいました」
「あはは。いや、でも、僕も意外でしたよ。ホント、それまで音楽のなんたるかもわかってない人間に褒められても嬉しくないって、ずっと思っていましたから。当然そういう気持ちになると思いました。だけどその子が目をキラキラさせて『お兄ちゃん、すごいねぇ』って繰り返すその言葉は不思議なくらい素直に受けとめることが出来ましたねぇ」
「子どもの純粋さに打たれたのですね」
「はい。おべっかやお世辞ではなくて、純粋に『すごい』って思ってくれているのが伝わってきて。衝撃でした。音楽の道に精通している人に認められないと意味がない。素人に褒められても嬉しくないって。そう思っていた自分のちっぽけさとか視野の狭さが恥ずかしくなりました。もちろん、詳しい人に認められることは大事ですが、こうして全然興味がない人が、僕の演奏を聴いて喜んでくれる、それってものすごいことなんじゃないか。音楽は一部の人間のものではない。その素晴らしさを伝えていくことの尊さみたいなものを感じました。そしたら、なんだか肩の力が抜けたといいますか。ああ、僕はそれを今出来たのだと思うと感動しました。それからですかね、人というものが自分の中に広がってくるようになりました。自分の想いを伝えたい。伝わるように演奏しようって自然と思うようになって、それで気付いたらスランプを抜け出せていました」
「なるほど……その子のおかげですね」
「ホント、感謝しています」
「それで、その子とはそれから仲良くなったりしたのですか?」
「いいえ。何度か教室で一緒になって、その度に『すごいねぇ、すごいねぇ』って褒めてくれたりはしたのですが、受験が終わって、学校生活が忙しくなってからしばらく行かなくなり、その間に、その子も教室を辞めてしまってそれっきりですね。今、どうしているんだろう」
「この番組、観ているかもしれませんよ?」
「どうでしょう。そうだったら嬉しいですが」
「ふふふ。ちなみに、今日弾いてくださる曲には、その時の思い出の曲があるのですよね?」
「はい。高校受験の課題曲で、僕がその子の前で弾いた曲です。ツェルニー三十番練習曲。今も、コンサート前にはこれを弾いて落ち着かせます。僕にとっては大切な曲ですね」
「では、準備の方をお願いします」

 司会者に促されて黒川かなでは席を立つ。
「いやぁ、途中はひやりとしましたね」
 黒川かなでがいなくなると、司会者が言った。すると、隣に座る女優さんが微笑みながら、
「でも、素敵なお話でしたね」
「そうですね。その女の子がいなければ、黒川さんはいなかったかもしれない。人の縁というのは不思議ですね。……では、準備ができたようなので。どうぞ」
 画面が切り替わる。
 グランドピアノの前に座る黒川かなで。大きく息を吐いて、ゆっくりと鍵盤の上に手を添える。長くて綺麗な指先だ。
 人生に無意味なことはないという。だけど、あの音羽ピアノ教室での日々は、母に無理強いさせられた日々は、何の意味もないと思っていた。でも、そうじゃなかった。本来の目的であるピアノは弾けるようにはならなかったけれど、先生に叱られてばかりいた教室一の問題児は、問題児なりに意味があったらしい。
 黒川かなでの指先が動き始める。
 十数年ぶりに聴く音はやはりたまらなく美しく、私は瞬きすることも惜しんで画面を見つめた。



2011/8/23 執筆 

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