八月の幻
――冗談じゃない。
音楽室に幽霊がでる。噂が広まったのは七月に入ってすぐだった。夏にありがちな怪談話。最初はそう思って聞き流していたが、その幽霊が棚橋保だと聞いて僕は憤慨した。
幼馴染の保が死んだのは去年の夏だった。保は吹奏楽部に在籍していて、コンクールが間近に迫り、その日も夕方まで練習していた。帰宅途中の、家に一番近い交差点で信号無視をしてきた車には突っ込まれた。ほとんど即死。はねられる瞬間の恐怖からか、持っていたトランペットのケースを強く抱きかかえていた。
同じ年の人間の死に誰もが衝撃を受けた。昨日まで普通に話をしていたのに、今日からはもう話せない。それがどういうことなのか目の当たりにして混乱した。泣いていても、何に泣いているのかわからない。ただ、悲しかった。それでも否応なく月日は流れ、僕は一つ年を重ね、中学三年生になった。そして、季節が一巡した。
そんな時に、保が幽霊として現れたという噂が広まったのだ。人の死をなんだとおもってやがるんだ。たった一年で、怪談話にしてしまう連中の気が知れない。だいたい幽霊なんてそんな非科学的なものあるわけない。
「間違い無いらしいぜ。保だったって。二組の奴が見たって言ってたし」
「えーじゃあさ、確かめに行こうよ」
近くでクラスメイトがはやし立てている。その中の一人、安藤と目があった。
「神崎も一緒に行かないか?」
そういった安藤に、一緒にいた連中は驚いたように目を見開いた。それから、安藤の脇腹を突ついて止めさせようと試みている。だが、当の本人は全く理解していないようだった。
「保と仲良かったし会いたいだろ?」
満面の笑みというのはこのことだろう。
「行かない。行くわけないだろ……だいたい保は僕が行ったって喜びはしないよ」
「なんで? そんなことないと思うけど……」
棘のある物言いをしてしまったことを少し後悔した。安藤は何も知らないのだ。悪意がないぶんたちが悪いともいえるが。
僕は言いようのない気持ちを持て余しながら、早く夏が終わってしまえばいいと思った。そしたらこんなつまらないオカルト話に終止符が打たれるにちがいなかったから。うずく気持ちを誤魔化すように、ただ、祈った。
***
夏休みに入った。とはいえ、受験生の僕に休みはない。今日も朝から学校で受験対策用の英語の授業が開かれて出席していた。受け終えて教室に戻る。副担任の美術教師から教材を美術室に運んでほしいと頼まれて、急ぐこともなかったので引き受けた。
誰もいない美術室は妙に広く感じた。夏だというのにひんやりしているし、静けさが涼しいというより寒さを感じさせた。
指定された位置に教材を置いて、振り返ると知った顔が立っていた。
「よー」
だらしなく語尾を伸ばして軽く手を挙げる仕草は見慣れたものだ。あまりにも、あんまりにも堂々と自然に存在していたから、一瞬その違和に気付かなかった。そもそもここは美術室で音楽室ではなかったし。今は夕方ではなくて真昼間だったし。瞬時に判断出来なくてもしかたない。けれど、それがあってはならない人物の顔だと脳が判断を下す。
「なんだよ。久々の対面だってのに淡白なやつだな。もっとないの?」
「な、何がない?」
「リアクションだよ。リ・ア・ク・ショ・ン」
分からん奴だなーと後頭部を撫でる。照れた時の保の癖だった。そりゃ、本物の保なら一年ぶりになるから、照れる気持ちもわからないでもないが。
「保なのか? ホントに?」
「ああ。幽霊だけどな」
アッサリ肯定される。当人であることも、幽霊であることも。
「でも、化けてでてるわけじゃないぜ」
化けてでたわけじゃない? 本当に? だったら、
「だったら何してんだよ」
自分でもびっくりするほど素っ頓狂な声をあげてしまった。
「お前さ、死んだ人間は化けて出てくるしかないと思ってるわけ? 偏見野郎だな」
「な、お前こそなんなんだよ。死んだ後のことなんて知るわけないだろ」
「おお、言ってくれるね。でも、ま、そうだな」
ニヤリと笑った顔は、やっぱりどう見ても保本人だ。何よりこの緊張感のなさと気安さは。噂話が真実であることを認めざるを得なかった。
***
「しかしさ、普通、親友の幽霊が出たって聞いたら真っ先に会いに行ってみようって思わないか? あんだけあからさまに噂になったら、会いに来るかと思ったんだけどな」
保はからかうように言った。
「だから、自分から会いにきちゃいました〜」
楽しげな態度に、でも僕は笑えなかった。
「なんだよ。ノリ悪いなぁ。もしかして、俺には会いたくなかったとか?」
「そんなこと、」
ない、とまで言えなかった。
「なんだよ図星かよ」
言葉とは裏腹にどこまでも明るい声だ。
「……もしも本当に保だったとしたら、会いたくないだろうと思った。保は、僕になんて会いたくないだろうって」
僕の言葉に一転して、保は眉をよせて、深々とため息をついている。死んでいるなんて思えない生身っぽい仕草だった。
「なぁ、お前が友だちつくんないのってやっぱり俺が死んだせいか?」
少しの沈黙の後、難しい顔をして保が言った。
「……」
僕が答えられずにいると、保は気まずそうに視線を机に移した。置かれてあった絵筆に、おもむろに手を伸ばしたが触れることは出来ない。すっと透けてしまう。浮世のモノとはあいまみえなくなってしまった。本当に保は幽霊なのだ。
「お前がこの一年で学校で口きいたトータル時間がどんだけか知ってる? 百二十三分と五十九秒。マラソンの世界記録と同タイム。それも大半が先生とだ。友だちとってなればもっと少ない。そうやって人を遠ざけて俺が喜ぶとでも? なんでそんなに自分を責めてんだよ」
それはみんなに言われた。僕のせいじゃないって。両親にも、先生にも、保の母親にまで。けれど、僕はどうしてもそうは思えなかった。
「ずっとそうやって生きていくわけ?」
「……なんでお前がそんなこと言うんだよ」
保は黙って、ただ、まっすぐに僕を見つめていた。まるで知らない人みたいな、キレイな目をしている。見つめ返す僕は保の目にどんな風に映っているのだろうか。途端に、視界が歪む。ぼやけて滲んだ。一つ瞬きをすると明瞭さを取り戻した。涙があふれていたことに気づく。
「あの時、」
保が事故に遭ったとき、僕は近くにいた。後を歩いていた。塾の帰りだった。返却された模擬試験の成績が良くなく、志望校がC判定に下がってしまった。まだ中学二年だったし時間はたっぷりある。それでもショックだった。ふと前を見ると、保の背中が目に入った。駆け寄って話しかけようかと思ったけれどやめた。誰とも話をしたくなかった。距離が縮まらないように、気づかれないように、ゆっくりと歩いた。そして、
「僕が、あの時、声を、」
喉が熱い。突き刺すような。
「声をかけていたら」
――保は死なずにすんだかもしれない。
昼を告げるチャイムの音が鳴り響いた。通常のキーンコーンカーンコーンといったどこか間の抜けたベルとは違い、ボーンボーンと低重音が響き渡る。
「確かに、あの時、声をかけてくれていたら俺は死ななかったかもしれないよ。でも現実はそうじゃなかった。俺は死んだ。そして、お前は生きてる。これからもな。それが全部だ。それで俺は納得してるよ」
なんでそんなことを言えてしまうのか。僕には全然理解できなかった。恨んでいると言われた方がずっといい。まだ十四歳だったんだ。それで納得なんて、なんだってそんなこと――。
「あのとき、お前が駆け寄ってくるのが見えたんだ。最後に、お前の顔が見えて、ああ、トモキいたんだって。けど、すんげぇお前の方が死にそうな顔してっから、俺がここで死んだら、お前がなんかわけのわからん理屈で絶対自分を責めるだろうなと思った。それが気がかりだったんだ。したら案の定だよ」
「そんなの当たり前だろ。何事もなかったようになんてできないよ」
「いや、是非ともそうしてくれ。俺が化けてでてくるぐらいの清々しさで」
茶化したように言っているけれど、真顔だった。
「これ以上俺に心配させないでくれ」
哀願に近い響きの声音。とても優しく力強い。
「頼むよ」
「なんで、お前が僕の心配なんかすんだよ。僕はそんな風に思ってもらえるような人間じゃないよ」
「だって俺たち親友だろ? ずっと。それともお前にとって俺との関係ってそんなもんか? なぁ、トモキ。生きてたって死んでたって変わらないものもあるんだぜ? お前はもっと自惚れろ」
「なんだよそれ……」
「あーそれからさ、アイツ、いいと思うぜ。あの空気読めてない感じが、お前の内気さには必要だ。お前のことすげぇ心配してるし。まっ、俺の代わりにはなれないだろうけどさ」
「誰の話だよ?」
「お前、ホント薄情だな。アイツにちょっと同情する」
保は意地悪く笑った。
***
目を覚ますと安藤がいた。
「気付いた?」
「……僕、なんで……」
「美術室で倒れてたんだよ。密閉した暑い部屋にいたからのぼせたんだうって。神崎ってしっかりしてそうで案外抜けてんのな」
消毒液の独特の匂い。固めのベットと薄い毛布。保健室だ。上半身を起こすと少しだけ頭痛がした。
さっきのは、夢? 僕の願望が見せた幻? ――まだ身体のどこかが浮遊しているような気分だった。
「……今何時?」
「四時半」
四時間近く眠っていたことになる。こんなに熟睡したのは随分と久しぶりだった。その間、安藤はずっと付き添っててくれたのか。視線を向けると、はにかんだような笑顔があった。
「起こしてくれたらよかったのに」
「うん、けどずいぶん気持ちよさそうに眠ってたからさ。……目が覚めて気分がよかったら帰っていいって言われたけど、どうだ?」
「大丈夫そう」
「そうか。じゃ、帰ろうぜ。鞄、持ってきてるから」
そう言って、もう一台のベットの上に無造作に置かれていた鞄をとり、僕に渡してくれた。それから立ち上がって歩きだす。その背中を見送っていると、ドアのところで振り向いた。
「おい、何ボーっとしてるんだよ、帰るんじゃないのか? まだしんどい?」
「帰るって一緒に帰るの?」
問いかけに、安藤は大笑いした。何がそんなにおかしいのかよくわからない。ひとしきり笑った後、僕を見て微笑んだ。
「やっぱり神崎、おもしれぇーわ。普通、ここまで待ってたら一緒に帰るっしょ? じゃなきゃ先帰るって」
「ああ、ま、そうだけど……」
正直、僕は安藤のことが苦手だった。誰にでも気さくに話しかけるからクラスでは人気者だったけど。それがまた問題で、安藤といれば否応なく注目を浴びてしまう。なるべく静かにしていたい僕は、安藤と極力距離を置いていたぐらいだ。なのに、そういうことに疎いのかお構いなしに話しかけてきて、少々うんざりしていた。
「な、帰り、かき氷食べに行かないか? サッパリするだろうから」
あまり乗り気はしなかった。けれど、断られるなんて微塵も思っていないような笑みを見ていると、行かないとはどうしても言えなかった。
「宇治金時があるところなら行くよ」
「渋いな、それ」
そういう安藤の方がずっと渋い顔になっていたので、今度は僕が笑った。
その日、美術室で起きた出来事が現実だったのか、本当のところよくわからない。噂話に便乗して見た単なる夢だったのかもしれない。ただ、確かなことが二つある。保の幽霊がでるという話はパタリと止まったこと。そして、僕に、新しい友人が出来た。
2009/8/5