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エゴイストが笑う夜

 夜更けから明け方に変わる時間帯。眠れずに携帯電話のディスプレイと睨みあっていた。
 かけたところで繋がらないだろう。彼は眠るとき、電源を切ってしまうから。緊急時に何かあったらどうするのだろう? と思うのだが、あまりその辺は構わないらしい。
 「受話器上げる」のボタンを押す。三拍ぐらいの空白の後に、コール音が鳴った。このまま留守電に繋がって、彼の声のアナウンスが流れるはずだ。「ただいま電話には出ません。メッセージどうぞ」となんとも傍若無人な受付が。 いや、もしかしたら今は別のメッセージになってるかもしれないけれど。
「もしもし?」
「――っ」
 なんで起きてるの? 眠ることを何よりも愛する彼が、こんな深い時間に起きているなんて奇跡としか言いようがない。慌てて切る。ああ、これではまるでいたずら電話だ。非通知着信で掛けていたからなおさら。
 何してんだ、と、つぶやきは、空気に溶けた。
 ため息とも深呼吸ともつかない息を吐ききったら、携帯が鳴る。
 サブディスプレイには十一桁の番号が表示されている。つまり、登録している番号じゃない。でも、よく知った番号だ。暗記している。ついさっき、かけた。
 無視しがたくて通話ボタンを押した。
「さっき電話かけてきただろ?」
 名を告げることもなく、単刀直入な物言いだった。けれど、怒っているわけではないみたいだ。
「……。うん。なんでわかった?」
「なんとなくそんな気がした」
「へぇ……」
 あれは二年前の今日だった。夏だというのにひどく涼しい夜。私は彼に別れを告げたのだ。
 彼にはずっと好きな人がいた。私はそれを承知で、それでも構わないから付き合って、と。彼は一度も「うん」とは言わなかったけれど、傍にいることを拒否しなかった。このままこうしていれば、彼もやがて彼女を忘れて、私を見てくれるだろうと、単純に思った。だって、彼女は、もうすぐ他の人と結婚することが決まっていたから。
 私にとっては待望の、彼にとっては地獄の、彼女の結婚式当日。
 何かを知る瞬間というのは残酷なほどあっけない。
 今日が終われば、彼も未来をみるだろう。そこに私がいるはずなのだ。そんな自信など軽くふっとんだ。――彼の涙に。みたこともないような優しい顔で、おめでとうと涙する彼は知らない男だった。私は彼の傍にいると思っていたけれど、傍にいただけだと思い知らされた。
「元気してたか?」
「うん……私の携帯番号、残してたんだ」
「ああ、俺、友だち少ないから。メモリはいっぱいあまってんだ」
 それからしばらく世間話をした。気候が変だ。温暖化だ。選挙に行くか行かないか。あたりさわりのない話をたくさん。不思議なほど緊張はしなかった。そしていよいよ持ち駒がなくなって、ふいに訪れた沈黙。このまま先に彼が話し出したら、「じゃあ」とおしまいになってしまう気がして、私は不躾に言った。
「結婚するんだってね」
 タイミングも何もあったものじゃない。でも、人生、案外こんなもんだ。
「ああ」
「大恋愛の末のスピード婚だって? びっくりしちゃった」
「俺も自分で驚いてる」
「だろうね」
 私はあの日、涙ながらに彼女に「おめでとう」を告げる彼を見たとき、ああ、人を愛するってこういうことなんだなぁとしみじみと思った。彼の傍で彼が彼女を諦めることをひたすら願っていた自分が急激に恥ずかしくなったのだ。私は「彼の幸せ」なんて願えなかった。
 彼は一生、ずっと彼女を好きなのだろう。手に入らなかった女を永遠の偶像として。私はそんな彼を、彼女を愛する彼ごと受け入れることなんて出来ないと思った。だから、彼の傍を離れることにした。
「おめでとう。幸せになってね」
「……ん。ありがとな」
「うん。じゃあ」
「じゃあな」
 言い終わると、なんの名残もなく切れた。プープープーと冷たい電子音が流れる。
 まったく、「お前も幸せにな」ぐらい言えないのか。そもそも、なんで私が彼に電話したとか、普通聴くでしょう? 本当にこの男は私のことなど少しも興味がないのだなぁ。そんなこと、わかっていたけど。
 それでも、どうしても、最後に、彼が完全に誰かのものになってしまう前に声を聴きたかった。たとえばそれが留守番電話の伝言メッセージの声でもいいと思うぐらいに。
 つまらない男を好きになった。と、思う。笑えてくるぐらい。今度はもっと私のことを好きな男と、砂糖菓子のように甘く可愛らしい恋をしたい。
 「受話器下げる」のボタンを押して、静かに携帯を閉じた。



2009/8/27

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