夜と消えゆく
人の寿命はある日突然途切れることがある。
新婚旅行から帰ってきて二週間。結婚祝いのお返しを兼ねて買ってきたお土産。渡そうと電話したが出ない。いつもならコールバックがあるのにそれもない。おかしいなと思った。
そういえば昔、まだ学生の頃、家で倒れていたことがあった。その時はたまたま隣室で火災が起きて消防隊に助け出された。あのまま倒れていたら死んでいたかもしれない。
「もし私が死んでもなかなか発見されないんだろうな。きっと最初に見つけてくれるのはレンちゃんね。私、レンちゃんしか友だちいないから。でも、レンちゃんに見つけてもらえるなら嬉しい」
そんなとんでもないことを言うから私は気味悪くて「やめてよ。変なこと言わないで」と怒った。
何故、思い出すのだろう。嫌な予感がして、夜子の自宅に向かった。そして、彼女が死んでいるのを発見したのだ。変死。原因がよくわからない。雨宮夜子の死は医学的に明確な説明が出来ないものだった。長生きしそうなタイプではないなと思っていたが、享年二十七歳だった。
「あの子は、誰かを愛せたのかしら?」
通夜で初めて彼女の産みの親に会った。
「産みの親」というと対になるのは「育ての親」だ。親が離婚して父方に引きとられ、父親が再婚し義理の母が出来た。そんな筋書きを想像してしまう。だが、実際には彼女の両親は離婚していない。なのに彼女は自分の親のことを「産みの親」と言った。
「さぁ……どうでしょうか。夜子さんは秘密主義でしたから」
安心させてやるための嘘をつくべきだったのかもしれない。白髪の目立つ、儚げな婦人に告げた後、少しだけ後悔した。だが、知らないものは知らないのだ。
「高木さんとおっしゃいましたね。夜子とは仲がよろしかったんですか?」
「友だちでした」
彼女にとっては、私は友だちだったと思う。
夜子は人を寄せ付けないところがあった。表面的には仲良くするけれど、一歩踏み込んでこられるとさっと逃げてしまう。それが男の人の目には神秘的に映ったらしくよくモテた。ただ、同性にはあまり好かれていない。彼女の電話番号を知っているのは私ぐらいだったのではないだろうか。
『レンちゃんがいればいい』
彼女はよくつぶやいた。何故だか彼女は私にだけは友好的だった。けれど、本音を言えば、それが重たくて嫌だった。私にとって夜子は大勢いる友人の一人にすぎなかったから。そんな私の気持ちを知っていたのだろう。いつだって彼女は遠慮がちで、けして一線を越えて踏み込んでくることはなかった。本当はもっと仲良くしたいんだろうなとわかっていても、私はその距離を望んだのだ。
「そう、ありがとうね」
躊躇いがちに微笑む顔は夜子とそっくりでたまらない気持ちになる。こんなに早く死んでしまうなら、もう少し優しくしてあげたらよかった。
最後に何か出来ることはないだろうか。
不慣れな都会に、娘の訃報を聞いて駆けつけ憔悴しているご両親の代わりに、彼女の住んでいた家の解約手続きや、荷物の整理を手伝うことにした。罪悪感を少しでも和らげるための、手前勝手な申し出に感謝してくてた。
夜子の部屋に来るのは二度目だった。死体を発見した日と今日と。遊びにきてと何度か誘われたが、生前一度も訪れたことはなかった。
モノクロを基調とした静かで落ち着いた部屋。可愛らしい風貌とは似つかわしくなくて意外だった。なんだかちょっと男性っぽい。もしかしたら付き合っている人がいて、その人の趣味なのかもしれない。でも、仮にそうだとしたら葬儀にも出席しないなんて薄情な男だ。
学生時代あれだけモテてていたけど、あまりいい恋をしていないのかも。美人過ぎると普通の男は声がかけにくくて、言いよってくる男は自意識過剰な勘違いが多いと何かで読んだことがある。夜子もそうだったのかもしれない。
家電類や本棚、机なんかはリサイクルショップに引き取ってもらうとして問題は中身だ。整理してご実家に郵送するのがいいだろう。まず手始めに机の引き出しを開けた。
真っ青なノートがずらりと並べられている。十五冊くらいあるだろうか。表紙には西暦が書かれている。どうやら日記らしいけど……。
いけないと思いながらも気になって手にとり読んでみる。
「男の体が欲しかった。物心ついた頃からずっと思っていた。どうして私を男に産んでくれなかったのか。産みの親に対する憎悪が消えない。私は永遠にこの不条理な体で生きていかねばならないのか。この狭い町ではすぐに妙な噂がたてられる。家族のためにも私は自分を偽り、普通にしなければ。そう思うと憂鬱でたまらない。早くこんな町、出てしまいたい。大人になりたい。そうすれば少しはこの苦しさが和らぐと信じたい」
――これって。
彼女が、まさか。信じられない。そんな素振り少しもみせなかった。心拍数が上がっていく。それはきっと読んではいけないものに違いない。彼女が生涯沈黙し、秘密にしてきたこと。だけど私は好奇心に勝てず続きをひも解いた。
「都会に出ればいろんな人がいる。私を受け入れてくれる場所があると期待した。ただ、自分でその一歩を踏み出す勇気がない。これでは田舎にいた頃と何も変わらない。何のためにここに来たのだ。自分が情けない」
「皮肉なもんだ。女でいることを望んでないのに言い寄ってくる男は後を絶たない。おかげで女には嫌われ蔭口に嫌がらせをうける。散々だ。ずっとこのままなのだろうか。私は永久に一人なのだろうか。このままずっと」
「苦しい苦しい苦しい苦しい……もうどうにでもなればいい」
「口も聞いたことのない男から告白された。『とても可愛いし、女の子っぽくて、守ってあげたいって思ったんだ』だと。この丸みのある体も、胸も、何もかもを憎んでいるというのに? 笑ってしまう。そんなに欲しいならくれてやる。セックスに興じている間は何もかも忘れていられる。男に抱かれる気持ち悪さも回数を重ねれば麻痺する。快楽のためだけにこの体は存在する。そう思ってしまえば楽になれる。もういい。もうどうでも」
呼吸をすることを忘れてしまうくらい、膨大な量のノートを読み続けた。真黒な感情で綴られたソレらは、だが、ある日突然ふっと切り口が変わる。
「あの子と話をしていると不思議なのだが気持ちが落ち着く。こんな気持ちははじめてで戸惑う。でも嫌な感じじゃない」
「今日も話をした。口下手な自分が悲しい。もっと話してみたいが、何を話せばいいかわからない」
「私はきっとあの子のことが好きなのだろう。絶対に報われないし、叶わないが。これは初恋だ。そして自覚してすぐに失恋。笑ってしまうけれど、自分も人を好きになることが出来た。純粋に嬉しい。愛されることも愛することもないと思っていたのに。こんな奇跡が起きるなんて夢のようだ」
「映画を観に行く。陳腐な恋愛映画だったがあの子は楽しそうだった。こんな恋がしてみたいと笑った顔は幸せそうだ。その顔を見ているだけで癒される。『いつか素敵な恋人ができるよ』そう言ってあげるとさらに嬉しそうな顔をした。でもその顔を見るのは少し辛かった。『夜子にも素敵な彼氏ができるよ』と言われたので『私はあなたがいてくれたらそれでいいよ』と告げる。彼女は少し困惑気味だった」
「最近彼女に避けられている気がする。なんとなく。もしかしたら、私の気持ちに勘づかれた? もっと警戒しなくては。神様、どうか彼女と友だちでいさせてください。私が生きていくために」
「どうやら私の勘違いだったらしい。彼女は友だちの多い人だから、他にも付き合いがあるだけだ。私のような人間とは違うから。勘違いしないように。彼女の友だちの一人でいられるポジションを大切にしよう」
「社会人になって、疎遠になりつつあったが、ようやく久々に食事の約束をとりつけた。明日、半年振りに会う。こんなに緊張していて大丈夫だろうか」
「久々に会う彼女はとても美しくなっていた。同じ会社に彼氏もできたらしい。嬉しそうな報告」
「彼女が恋愛相談をしてきた。内心別れろと一瞬でも思った自分を恥じる。彼女が頼ってきてくれているのだ。全力で力になってあげなければ。それにしても、男にモテた経験がこんなところで役立つなんて。人生無駄はないというが本当にそうだな」
「婚約した。私のおかげだと。親身になって相談にのってくれてありがとうと。感謝されて嬉しい。彼女が幸せになってくれてうれしい。嬉しい……」
そして、次が、最後のページだった。
「今日、彼女が結婚した。本当にキレイな花嫁で。見れて幸せだった。けど、欲を言えば、花嫁の友人代表スピーチをしたかった。一番の友だちというポジションになりたいと願うのは贅沢かな。私は陰気だしな。華やかな彼女の友好関係には不釣り合いか。むしろ式に呼んでもらえただけでも感謝するべきなのだろうな。ああ、それにしても本当にキレイで幸せそうだった。これから彼女は家庭を築いて、子どもを産むだろう。彼女の子どもはきっと特別愛らしいに違いない。その姿を私は傍で見られるだろうか? そうであったらいいな。ああ、私も結婚しようか。どっか適当な男を捕まえて、そして子どもを産んで。その子と彼女の子が結ばれてくれたら……」
好きだったの? 私を? ずっと?
夜子が私との関係を大事にしてくれていることは知っていた。けど、私はそれを重荷に感じ都合よく付き合っていた。自分の気持ちだけを優先して、深くかかわることもせず、それでいいと、そんな風にしか思っていなかった私を? 嘘だそんな。
途端に、彼女の躊躇いがちな笑顔が蘇る。
たまらずに青いノートを全部引出しから抜き出して、近くの河川敷へ向かった。外はもうすっかりと夜に包まれている。
人気のない川べりで、持ってきたそのノートに火をつけた。一冊二冊……赤く燃える。
彼女が誰にも言わずにいた秘密はこれで永久に消えてしまうだろう。知っているのは私だけだ。そして、私はこの事実を生涯誰にも言わない。夜子と私だけの秘密だ。そんなことぐらいしかしてやれない。
何か言いたげな彼女の眼差しと、困ったような笑顔が浮かんでくる。
どうしようもない。生前に夜子の想いを知っていたとしてもどうしようもなかった。だからよかたったのだ。知らなくて。そう思うしかない。
真っ赤な炎とともに彼女の想いが夜の闇に消えていく。最後の一枚が完全に消えてしまうまで私はただその炎を見つめていた。
2009/9/18