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長い春

 要次とは七年付き合っていた。
 高校三年生の終わり頃から付き合い始め、大学生、社会人になってもつき合いは続いた。新しい世界を知っても、私たちはいつだって一緒だった。視野が広くなったから、大人の世界を見始めたから、相手が急にくすんで見えるようなこともなく、私にはもっと素敵な未来があるはずよ、なんて自惚れることもなく、彼もまたそうはならず。私と要次のつき合いは七年目に突入した。
 このままずるずるいくのかなぁ。
 だいたい結婚する相手とは二年、ないし、三年付き合って籍を入れる人が多いらしい。だけど私たちは高校三年で付き合い始めたから、交際三年目はまだ互いに学生で、五年目の節目は社会人になったばかりでそれどころではなく、気付けば七年目に突入している。次に大きな節目といえば交際十年目。そこまでずるずるこのままかなぁ、と思っていた。
 同時に、私はわずかに恐怖を感じていた。
 「長い春」という言葉に。
 十年くらい付き合ったカップルは別れてしまうことが多いという。私たちに限ってそんなことはない。そう思いたかったけど、私は不安を感じていた。
 後から考えれば、たぶん、私の心は、この時にはすでに理解していたのだろう。要次が、私と将来を共にする人ではないということ。

「別れてくれ」
 言われたのは梅雨入りした日の夜だった。
 他に好きな女が出来たのだと、馬鹿正直に告げる要次に私は不思議と怒りを感じなかった。浮気だ。浮気心に違いないと解釈した。
 要次は真面目な男だ。これまでのつき合いで、一度だって浮気したことはなかった。そういうことが出来る人ではなかった。きっとこの人は遊び半分で誰かと関係を持つような人ではないのだ。私はそういうところを尊敬し愛していた。
 だけど、「好きな人が出来た」と言われた時、「浮気だ」と思った。長い時間の間に、要次は変わってしまったのだ。軽い気持ちで別の女の子を見るようになってしまったのだ。でも、それは男の本能かもしれない。生物として正常だ。だから、ちょっとぐらい目をつぶろう。浮ついた気持ちがやがて静まるだろうから。私はそう思っていた。けれど、
「ごめん。もうお前と、これまでみたいに付き合えないから」
 要次はそう言うと、部屋を出て行った。
 ここは私と要次が一緒に暮らしている部屋で、だからもうここでは暮らせない。荷物を整理して引っ越すから。それまでは俺はホテルで暮らすから。
 要次はそう言って出て行った。
 そんなお金どこにあるの? もったいないよ。ここにいればいいじゃない。そんな風に出ていくことないじゃない。
 私は止めたけど、要次は出て行った。
 一人残された部屋で、私はよくわからない現実に呆然とした。

 要次は決断してしまうと行動が早い。
 その週末には、新しい家を決めて、荷物を運び出してしまった。
「ここの家賃は、お前が出ていくまで半分出すから」
 二人で住んでいたから、家賃は折半だった。女に出させるなんて格好悪いよなぁ。いつか俺がもっと稼げるようになったら、全部払うよ。と、言っていたのに。私はその日を楽しみにしていたのに。
 だけどよくよく考えてみると「俺が払う」ということは、やっぱり私と彼は他人同士でいるということだ。彼は外から私を見ていた。そんな些細なことが、何故か異様に大きな事のように思えてくる。
 兆しはあった?
 たくさんあった。
 そう。
 荷物を運び終えた要次は、最後にもう一度、私の前にやってきた。私はまだ彼に「わかった。別れよう」とは言っていないからだろう。
 彼の心は決まっている。何の迷いもない。
 あなたをそこまで突き動かす女の人ってどんな人なの? そんなに素敵な人なの? そんなに好きなの? 私との七年を捨ててしまえるほど。
 聞くまでもない。要次の行動が全てだった。
 それでも、私は聞きたかった。聞いたら、少しは彼の心が揺れたりするのではないか。私に対して、まだ残っているはずの何かが揺れるのではないか。けれど、
「そういうことじゃないんだ」
 要次は言った。
 その人が好きだから、私との別れを決意したわけではないと。それは一つのきっかけに過ぎないと。私との未来が見えてこなかったのだと。要次は言った。
 酷いことを言う。それなら、その女の人の方が好きだから、お前を捨てると言われた方がいい。と思った。けれど、要次の言うことは真実だろうとも思った。たぶん、きっと、私にも見えていなかったから。要次との未来が、いつからか見えなくなっていた。
「そっか。じゃあ、いいよ。別れよう」
 私は言った。けれど、本当は、ちっともよくはなかった。そんなすぐに、割り切れない。それでも、いいよ。と言った。全然、よくないけれど、もういいよ。心とは裏腹な言葉を告げると、ぽっかりと穴が開いたような虚しさに襲われた。
 要次は、痛々しそうな笑顔を返してきた。
 ああ、ちゃんとわかってくれているのだ。私がいいなんて思っていないこと。納得などしていないこと。仕方ないから、そう言っていること。
 この人は、自分の都合のいい言葉だけを握りしめて、ああよかった、と。終われた、別れられた、と思っているわけではない。自分の明るい未来だけを見ているわけではない。突然おいてけぼりにされて、これから途方に暮れるだろう私を無理やりなかったことにはしていない。それだけでも救われた気がした。
 そして、思い出すのは、この七年の月日だ。
 けして短くはなかった七年。私は要次といて楽しかった。喧嘩もしたし、なんでこんな男と付き合っているのだろうと心底疑問に思ったことは実は一度や二度ではなくあったけれど。他の男にいい寄られたことだって。だけど、私は要次を選び続けてきた。要次だけを。そして要次もまた。それがこの七年の全てだ。
 けれど。
 要次はそれをやめたのだ。
 やめて、他を選ぶという。そして、私はそれを止めることが出来ない。
 私の初めての恋人で、初めてのことを多く、この人としてきた。恋愛で味わう大方のことはこの人としてきた。そして今、最後にこの人と初めてのことをする。この人さえいれば他には何もいらないとそこまで思った相手と別れること。
 それが出来てよかったと、いつか思える日が来るのだろうか。ずっと遠い未来で、あの別れは間違いではなかったと思えるだろうか。
「じゃあね、要次。大好きだったよ」
 私は告げた。
 春の後に訪れる、暑い夏が、今年はきっと痛いだろう。じりじりと体を焦がすように、この心も焼かれるだろう。悲しみという強い光に。だけど、季節は巡って行く。先へ先へ。踏みとどまることは出来ない。
 一つの季節が終わった。ただ、それだけのことだ、と強く唱える。



2011/5/31

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