蜜と蝶

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   蜜 と 蝶    

 
―蜜01―

麗しい姿をして蜜を奪う。
だから、けして心を奪われてはいけない。

 朝比奈に生まれた者は幼いうちから言い聞かせられる。呉羽の者に心を奪われてはならない。彼らに力を吸い尽くされないよう厳しく教えられる。
 力――それは蜜と呼ばれる。蜜は歌。その歌を食べるのが呉羽だ。彼らは蝶と呼ばれた。
 蜜と蝶は共存する。
 朝比奈の歌は猛毒だ。大地を蝕ばみ、自然を枯らす危ういもの。それ故、蜜として食べてもらう必要がある。呉羽は特殊な力で歌を蜜に変えて食らう。体内には猛毒を浄化する羽を宿しており、蜜を食べることで能力は更に強化される。そうやって家を反映させてきた。
 呉羽は蜜を求めた。その欲望は尽きない。朝比奈の者を捉え、声が枯れるまで歌わせ喉を潰させた。そんなことが繰り返されて――朝比奈は一族滅亡の危機に瀕した。そこで両家の間で取り交わしがなされた。『月に一度、宴を開くこと』そこでのみ蜜のやりとりをおこなう。朝比奈が消えれば呉羽も困る。協定が結ばれた。
 だがそれでも喉を潰す者がいた。呉羽の美しい姿に心奪われ、求められるままに歌い続けるのだ。愚かなことだ。だがどれほど言い聞かせてもなくならない。呉羽の者は類まれなる美貌をしていたから。麗しき蝶の誘惑。抗えない。恋をしないよう。心奪われないよう。気をつけても堕ちていく。
――だけど、私には関係がない。 
 歌えないから。朝比奈に生まれたのに歌えない。落ちこぼれだ。普通の人には「音」にならない、朝比奈の血のみが歌える歌。だけど、私には歌えなかった。血を受け継いでいるのに。ごくたまに、そういうことがあるという。例外。異端。私は仲間外れだった。

 顎を持ち上げられた。吟味するように私の顔を見つめてくる。綺麗な男だ。何も映さない真っ黒な瞳は見ているとおかしくなりそう。他人とここまでじっくり視線を合わせたことははじめてだ。逸らした方がいいのか。見つめたままでいいのか。先に動いたのは男だ。視線はゆっくりと下へずらされていく。鼻先、唇と、
――…。
 見えるのは男の長いまつ毛。人の目元をこれだけ至近距離で見たのもやはり初めてだ。男のまつ毛がかすかに揺れるたびに、唇に柔らかな刺激が与えられた。繰り返し繰り返し何度も。角度を変えて。ふわりと当たる。やがて男が目を開けた。
「そんなに見つめられるとやりづらいな」
 抑揚はないが苛立っているように聞こえる。いや、焦れているというべきか。はがゆそうだった。深く息を吐く。眼差しや声とは違い吐息だけは熱っぽい。
 男は私の顎に当てていた左手を外し、今度は両手で頬を包んだ。少し乱暴にもっと上を向かせられる。だから、男の唇は降ってくるように感じた。雨みたいに。打たれる。たまらずに目を閉じた。
 男は左利きなのかもしれない。頬を包んだまま左手の親指で私の唇に触れた。それをゆっくりと入れてくる。右の八重歯に男の指の感触。そこにひっかけるようにして口を開かされる。そして――感じたことのない刺激。濡れている。奇妙に柔らかい。縦横無尽に私の口の中を泳ぐのは男の舌。いいようのない不安に襲われて閉じていた目を開ける。近くにある男のまつ毛。眉間に少し皺がある。
 男の手はいつの間にか頬からはずされていた。代わりに後頭部と腰に強い腕を感じた。抱きしめられているというより、支えられている。私は立つのもままならないほど男から与えられる感覚に溺れてしまった。息があがる。
 唇は離されても腕は解かれない。男の胸の中で動けずにいた。心音が聞こえる。少し早い。私のものか男のものか区別がつかない。それほど密接に抱きしめられていた。
「……あなたは蝶でしょう? 」
「そうだ」
 男のことは知っていた。顔は知っている。有名だ。呉羽本家の次男。蜜から蜜へ羽ばたく麗しい蝶だ。いつもこうやって蜜を虜にさせるのだろうか? そして喉が枯れるまで歌わせる? でも私のところへ来たって意味はない。蜜をつくれない。だから、
「私は歌えません」
 出来そこないだもの。
――貴方の望みは叶えてあげられない。
 だから蝶は飛び去っていく。と思った。だけど男は言った。
「知っているよ」
――え?
「じゃあ、どうして? 」
 これは何かのお遊び? 羽休めにからかっているとか? ああ、そうかもしれない。動揺してることを悟らせないようにさり気ないふりをする。 
「私は蜜にはなれない」
「だったら蝶になればいい」
「蝶に? 」
「そうだ。私のために舞う蝶に。そうすれば蜜を与えてあげるよ」
「だけど私は羽もない。何ももっていない」
「必要ない。全部与えてあげるから。全部だ。だから私のところへおいで」
「何故そんなことを言うの? 貴方にどんな得があるの? 」
 朝比奈と呉羽の間には常に利害関係が生じるはずだ。だけど男は答えてはくれない。何かを言いかけてやめた。困ったような顔をしていた。


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―蝶01― 

 彼女を知ったのは偶然だった。
 蝶と蜜の宴は朝比奈の屋敷で行われる。そこに呉羽は客人として招かれる。蝶には格が存在し、呉羽本家。それから分家の静葉、夢野、叶と続く。一般の蝶は大広間に通されるが、本家・御三家にはそれぞれ個室が用意される。そこに蜜たちが巡ってくるのだ。蜜は力ある者に食べられたがる。呉羽本家に生まれた私は、自ら求めずとも蜜が寄ってきた。
 その日も私のために歌う蜜がひっきりなしで――さすがに食べすぎだと部屋を抜け手水へ向かった。渡り廊下を歩いていると庭で見慣れない女が空を見上げていた。横顔が寂しげで、強い印象を残した。
――あんな蜜がいたのか?
 見たことがなかった。……ということは、一般の蝶を相手にする蜜か。本家・御三家の元へくる蜜は朝比奈の方で制限を設けている。格の高い蝶になればそれだけ蜜を食らう。それ故、長く歌っても傷めないよう喉の調整が大事だ。だが、歌の下手な蜜はそれがこなせない。求められるままに歌い喉を潰し死んでしまう。だから蜜の中でもとりわけ上手な者が専属となっている。私が知らないのなら本家・御三家専用の蜜ではないのだろう。
 それにしても奇妙だ。
 今は宴の真っただ中。こんなところでのんびりしている暇はないはずだ。蝶よりも蜜の方が人数が少ない。一人で何人もに歌わねばならない。まして大広間で一般の蝶を相手にしているのなら尚更だ。それがこんなところでぼんやりしている。
 そういえば、歌えない蜜がいると聞いた。ごくまれに、そういう蜜が産まれるそうだ。彼女がそうなのかもしれない。
 蜜に生まれたのに歌えないなど、さぞや肩身の狭い思いをしているだろう。憂えた表情も納得だ。憐れだ。だからといって助けてやれるわけではない。ただ、事実を知って、一時期同情心を寄せるだけ。蝶にとって蜜は能力を強化するために存在する。食糧だ。蜜を作れないのならなんの価値もない。後は忘れていくはずだった。だが――私は宴のたびに、彼女を探すようになった。声をかけるわけではない。廊下から、空を見つめる彼女を眺めるのだ。
 彼女の姿は、一枚の絵画のようで、忘れられなかったから。
 月に一度の密かな楽しみ。宴の途中で抜け出して庭を見に行く。そんなことを一年ほど続けていた。
 今日も、一人でぽつんと寂しげな彼女がいるはずだ。待ちきれなくて早めに宴を抜け出し向かった。渡り廊下に立ち姿を探す。けれど、彼女は一人ではなかった。男が、いた。男は蜜だ。それもかなり歌がうまい。決められたわけではないが、男の蝶は女の蜜から、女の蝶は男の蜜から食べる。異性相手の方が便利だから。だが、その男の蜜は男の蝶でも食べたがるほど見事な歌だった。
――そんな男が、歌えない蜜と何をしている?
 楽しそうだった。笑い顔を見たのは初めてだ。ほころぶような儚い笑みに心音が大きく跳ねた。同時に、その笑みを向けられているのが自分ではないことが不思議に思えた。一心に彼女の視線を捉えている男と自分を比べた。
 気が変になりそうだった。
 不快感。奇妙な感情だ。何故そんな気持ちになる。わからない。ただ、苛立った。彼女が一人ではなかったことに。一人ぽっちではないのだ。その事実に腹が立つ。何故? 良かったじゃないか。歌えないことで肩身の狭い思いをしているのだろうと同情していた。だが、有能な男と仲がいいのならば、案外大事にされているのかもしれない。味方がいて良かったじゃないか。なのに、どうしてこれほど腹が立つ?
 少しして、男は去った。宴に戻ったのだろう。一人になった彼女はいつものように空を見つめた。私はすぐに彼女に近寄った。そして――衝動のままに口づけていた。
 貪るように唇を奪う。彼女はさして抵抗しなかった。ただ驚いたように私を見つめていた。その目が私を映していると思うと興奮した。とめられない。彼女は私のものだ。私だけの。彼女が欲しい。今すぐ。この腕に抱いて悦ばせるのは私だ。誰にも見せたことのない表情をさせてみたい。最高の快楽を与えてやる。そして私だけに微笑めばいい。だから、告げたのだ。私のところへおいで、と。全て与えてあげるから、と。だが彼女は拒否した。
「貴方にどんな得があるの? 」
 得?――何故そんなことを言うのか。何と答えればいいのかわからなかった。考えてなかった。ただ、彼女がほしかった。私は彼女を……。そこまで考えて思考が中断する。ありえない言葉を紡ごうとしていた。彼女は蜜だ。そして私は蝶。蜜は単なる食糧だ。その蜜を私は――。
 答えられずにいると、彼女は去って行った。甘い残り香だけが鼻先を突いた。



蜜01 2010/3/9 
蝶01 2010/3/12
2010/6/7 加筆修正


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