蜜 と 蝶
―蜜02―
大きく伸びをする。宴の準備と後片付けはいつものことだが大変だった。
宴は大広間と離れを使う。
大広間には一定の距離で仕切りが置かれる。特殊な素材で作られた物で隣の音をほぼ遮断する。それにより蜜たちの歌は向かい合った蝶にしか聴こえない。この仕切りを片づけるのが結構な重労働なのだ。
それから離れには、呉羽本家と御三家と呼ばれる特に格式が高い静葉、夢野、叶の者に個別の部屋を用意する。蝶はそもそも気位が高い。まして本家・御三家ともなれば殊更だ。粗相があってはならない。隅々まで丁寧に掃除し、畳も宴の度に新しくする。手間と時間を要した。
宴が始まると、蜜たちは蝶たちを廻る。基本、どの蝶の元へ行くかは蜜の自由だ。選ぶ権利はあった。だが、本家・御三家の蝶に限っては例外だ。選ばれた専属の蜜たちがいる。彼らのみが離れを巡る。それは危機回避のためだ。蜜の本能は出来るだけ格の高い蝶に歌を食べてもらいたがる。当然本家・御三家の蝶の元へ集中する。だけど、格式が高い蝶はそれだけ蜜を欲する。容赦なく。余程訓練され、上手な喉の使い方が出来る者でなければ喉を潰される。危険だ。事実、なんの規制もなかった頃は、宴の度に喉を潰されて死ぬ蜜が出た。そうでなくとも蝶より蜜の人数が少ないのだ。これ以上、同胞を死なせてはならない。現在は厳しい規制が張られている。だから離れの部屋には選ばれた蜜しか行けない。それでも忍び込む蜜がいる。命がけで麗しい蝶に自らの蜜を食べてもらいたがるのだ。
片づけが終わり、部屋に戻って一息つく。労働から解放されると考えないようにしていた記憶が蘇ってくる。
唇にまだ感触が残っている。熱に浮かされたみたいだ。
――口づけされた。
蝶に。それもとびきり美しく妖しげな蝶だ。呉羽本家の次男、柊夜。あの蝶の虜になる蜜は多い。振り向いて欲しくて必死に声を出すが、蝶は誰にも捕まらない。でも、わかる。歌は想いを紡いぐものだ。それを蜜として食べてもらうことは、自分の一部をさし出すことだ。あんなに綺麗な蝶に自分が奏でた蜜を食べてもらえたらどれほど幸せだろうか。
歌うことも出来ない私には夢のまた夢だけど。
それにしても何故、彼は私に口づけなどしたのだろうか。そもそもどうしてあんなところにいたのだろう。宴の真っ只中のはずだ。手水にでも出向いて、私を見つけた? それにしてもわざわざ庭にまでやってくるなんておかしい。気まぐれな蝶だから? 深く考えても答えが出るはずないけれど……。
触れられた唇に指を当ててみる。
――歌いたい。
そして自分の歌を食べてもらいたい。想いだけが膨れ上がる。だから私は今宵も練習する。
朝比奈には「初音の間」という部屋がある。「初歌の儀」といって初めて蝶に歌を披露する前に練習をする部屋だ。外に音がもれないよう特殊な陣が張られている。そこで歌い問題がないと「初歌の儀」に出ることを許可される。あとは宴の中で声を磨いていく。通常は生涯で唯一度だけ使われる通過儀礼の部屋だ。だが、私は声を出せなかったから、特別に「初音の間」で練習させてもらっている。毎夜声を出す。近頃はようやく単音のみだが音を紡げるようになった。「歌」というのは拙すぎるけど。
「完全に音が出せないわけではなく、かすかでも奏でられるなら、そのうち絶対に歌えるようになるはずだ。諦めてはいけない」
夕凪は言った。彼は私の幼馴染だ。歌えないとわかるとほとんどの者が離れていった。だが夕凪だけは変わらず傍にいてくれた。
彼は歌詠みだ。朝比奈の歌を伝える役割を担う職。特別に歌が上手い者が選ばれる。夕凪は誰よりも歌が上手かった。今日、宴の前に、ご当主様から呼び出しを受け、正式な歌詠みに選ばれたと告げられたそうだ。夕凪は真っ先に私に教えてくれた。素直に嬉しかった。出来損ないの私を嘲ることもなく、励まし勇気付けてくれた彼なら、きっと次世代の蜜たちをうまく指導するに違いない。彼に手ほどきをうける子たちは幸せだと思う。
「――――――」
隔離された特殊な場所で、私の嗚咽のような音だけが響く。こんな無様な声を聞いてくれる蝶などいないだろう。歌いたい。私の願いが叶えられる日はくるだろうか――?
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―蝶02―
帰宅してからも想うのは彼女のことばかり。
彼女の唇の柔らかさと、この腕に抱きしめたときの華奢な体を思い出しては熱くなる。蜜に恋をしているなど認めたくはなかったが、これはもう否定しようがなかった。だが考えれば私は彼女の名前さえ知らないのだ。話したことこともない。そんな状態なのにいきなり口づけた。よく悲鳴をあげられなかったものだ。まともな男だと思われなかっただろう。今更になって自分がしてしまった暴挙を後悔する。もっとやりようがあったはずだ。詫びるにしても、弁解するにしても、次に会えるのは一ヶ月後。
――ありえないな。
今、何をしているのだろうか。もう寝てるか。それとも起きている? まさかあの男と一緒に……。頭を掻き毟っては嫌な妄想を取り払おうとするがどうにもならない。会いたい会いたい会いたい…その気持ちは願いというより呪いかではないかと思うほど強烈だった。この一年間燻っていた感情が、突然爆発し燃え上がってしまった。身を焦がす。この夜はまともに眠れなかった。
そして一ヶ月が経過した。
多少の冷静さを取り戻した。と、思う。ただ、朝比奈の屋敷に着くと心臓が勝手に早まった。こんなこと生まれて初めてだ。ずっとこの調子では身が持たない。繰り返し深呼吸しては気を紛らわした。宴がはじまっても、胸が一杯で蜜を食べる気になれない。私専用に宛がわれた部屋を抜け出して、彼女がいるはずの庭へ向かった。
まず先月のことを謝罪したほうがいいだろう。それから、彼女の名前を聞いて…。
考えてきた筋書きを反芻させる。青いことをしているなと自嘲しながらも嫌ではなかった。好きな女のことを思ってあれこれ考えるのは照れくさいが楽しかった。にやついてしまう。顔のしまりがなくなると間抜けに見えるから取り繕わなければいけない。これ以上、彼女の前でおかしな真似をすることはできない。
庭に着くと彼女の姿はなかった。いつもより二時間ほど早いからか。待つことにした。永遠のように感じる時間だった。だが時が過ぎるほど今度は不安が押し寄せてくる。もしかしたら、彼女はここへは来ないかもしれない。おかしな男に襲われたと避けている――可能性としてはある。だとしたらどうすればいい? きっと屋敷内にはいるはずだ。探せば会えるだろうが…。
「柊夜様? 」
憶測していると名を呼ばれた。振り向くと、
「……君は」
彼女だった。私の名前を知っていた。
「どうかされたのですか? お部屋に不備がございましたか? すぐに整えなおしますので……」
そういうなり踵を返すので慌てて彼女の腕を掴み引きとめた。
「部屋に不備があったわけじゃない。人を呼びにここへきたわけじゃないんだ……」
「……そう、ですか」
頼りなく揺れる彼女の目。困惑と不安と。あまりいい感情が浮かんでいない。無理もないが。
「あの、手を…」
離してしまえば逃げられるのではないかと一瞬躊躇ったが、掴んでいた腕を解放する。彼女は少しだけ安堵したようだ。
「……」
「……」
「「あの、」」
同時に口を開く。
「何? 」
「いえ、柊夜様からどうぞ」
「…君は私のことを知っているのか? 」
「はい…」
「そうか」
「……」
「君の名前は? 」
「彩未と申します」
「彩未か。いい名前だね」
彼女は少しだけ笑ってくれた。
「それで、柊夜様はこちらで何を? 」
「君に謝りにきたんだ」
「え? 」
「先月の、」
彼女は真っ赤な顔になった。鮮明に思い出したのだろう。耳まで赤い。ああいうことには疎いのか。経験がないのか。可愛らしい反応にこちらもうろたえてしまう。
「怖かっただろう? 突然あんな…」
「驚きました。ですが、今は落ち着きましたし…」
「だが、別にあれはからかったわけではないんだ。あの時、私が言ったことは本気だ――私の元にくることを真剣に考えてくれないか? 」
彩未は言った内容を理解できないのか惚けた顔をしてただ私を見つめていた。
2010/3/14
2010/6/9 加筆修正