蜜と蝶
夏 越 祓 01
どこにも行かせたくないし、誰にも見せたくない。人を好きになれば誰だってそう思う瞬間があるはずだ。私は自分の気持ちに忠実に行動した。わかってくれると思ってた。それだけ彼女を想っているということを――。
言い訳するならば、その日、私の調子はあまりよくなかった。職場で夏風邪が流行っていてうつされたらしい。熱っぽくてダルかった。苛立っていた。早く眠りたかった。だから仕事も早々に切り上げたのだ。帰宅すると、彩未はいつものように出迎えてくれた。ただいつもよりも嬉しそうだった。何かいいことでもあったのか? 疑問を口にする前に彩未は私の手を引いて歩きだした。連れて行かれたのは台所だ。
「今出来たところなの」
作業台には御頭付きの鯛といなりずし、それから表面に甘納豆をたんまり乗せた三角形の和菓子が並んであった。
「これどうしたの? 」
「作ったの」
「違う……そうじゃなくて」
腹の底からこみあげてくる感情をどうにか押さえてもう一度、ゆっくりと尋ねる。
「これを作った食材はどうしたの? 家にはなかったよね? 」
「買いに行ったの」
悪びれることなくサラリと言った。本当にごく当たり前に。それは私の堪忍袋と直結する潔さだった。
「どうしてそんな勝手なことするんだ! いつも言ってるよな? 一人で外に出ちゃいけないって」
「だって今日は…」
「だってじゃない。約束を破るなんて…どうして言うことを守れないんだ! 」
自分でも口調が乱暴になっているのはわかっていた。だけど止められない。イライラした。あれほど…あれほど一人で出かけるなと釘を刺していたのに。私が知らない間に実は頻繁に出かけているのか。今日だけではない? そんな不信感も生まれた。信用できない。許せない。
「栞祢さんはちゃんと守っている。どうして彩未は守れない? 」
そう。兄の元にいる栞祢さんは兄さんと一緒でないと外に出ない。けして。彩未にもそうであってほしいのに、どうして聞けないのか。勝手なことばかりする。もし何かあったらどうするのだ。危機管理能力が低すぎる。私の言葉に彩未は泣きだした。
「泣いてもダメだ。悪いことをしたんだ謝りなさい。それからもう二度としないと誓いなさい」
だが彩未は嫌々と首を左右に振った。そして小さく何かを呟いている。
「何? 」
「帰りたい」
帰りたい? そう言っているのか?
「朝比奈に帰りたい」
今度はハッキリと聞き取れた。空耳でもなく。カッとなった。自分が悪いことをしていたのにそれを認めず帰りたいと言う。そういえば私が折れるとでも思っているのか。とんだ我儘になったものだ。ここで揺らいだらいけないと思った。
「そんなこと言うなら帰ればいい。好きにしなさい」
彩未は私の言葉に真っ青な顔をして台所を出て行った。彩未一人では朝比奈への帰り道はわからない。ここから出ていけるわけがない。部屋に籠ったのだろう。少しは反省すればいいと思った。私もそのまま眠りに就いた。
まったく、後から考えればとんでもない一言だった。どうしてこんなことを言えてしまえたのか。正気の沙汰とは思えない。この時、私は完全にキレていた。そんなもの通用しないがまともではなかったのだ。
そして、すぐにそのことを死ぬほど後悔することになる。
翌日。目覚めると体は楽になっていた。頭もスッキリしている。肉体が元気になれば気になるのは昨日モメた件だ。だが、この時、私はまだ折れる気はちっともなかった。彩未が悪い。今回は私は絶対に折れないと心に決めていた。とはいえ、彩未がどうしているかは気になる。そっと隣の部屋の様子を伺う。気配はない。開けてみるとやはりいない。
――どこだ?
慌てて探す。だがすぐに見つかった。彩未は台所にいた。私に気付いたようだが何も言わないので私も何も言わない。ただ心拍数が上昇した。嫌な予感。まさにそれが私の心臓を貫いていた。違和感。だがそれが何なのかイマイチはっきりしない。
水を汲んで一口飲み考える。
――何が妙なのだ?
振り返り作業台にいる彩未を見つめる。
昨夜、彩未が作った料理はそのままにしてあったから大方が腐ってしまっている。その処分をしているのだろう。無言で捨てている。その姿に少しの罪悪感が芽生える。確かに勝手に外には出歩いていたが、それは私のために作ってくれたものだ。彩未はそれをどんな気持ちで片付けているのだろう。
じっと後ろ姿を見つめていると、彩未が振りかえった。その目は腫れていた。一晩泣いて過ごしたのは明白だった。
「柊夜様、このお重をお借りしてもよろしいですか? 」
「え……ああ、好きに使ったらいいよ? 」
やはり妙だ。これまで食器を使うのにそんなこと言わなかった。「お借りしてもよろしいですか? 」それも奇妙な言い回しだ。まるで他人の家のものを借りていくような口ぶり…。
それから私が感じていた違和の正体がわかる。彩未が着ている服だ。いつもは淡い桃色や黄色を着ているのに今日は青だ。それは彼女がここへやってきた時の物だと気付いた。
彩未の傍に寄る。まだ食べられるものをお重につめていた。あの甘納豆を乗せた三角の和菓子もある。見たことがなかったが、朝比奈ではよく食べるのだろうか?
「これは何というお菓子なの? 」
「……水無月です」
彩未は少しだけ躊躇いがちだが答えてくれた。だがすぐに沈黙だ。
私の心音はどんどん加速度をつけていく。
彩未は残っていた料理を綺麗に並べてお重に詰め終えると蓋をした。
「それもってどこか行くのかな? 」
あれほど折れないと決めていたのに、気付けば私は猫なで声を出していた。情けない。だが今はそんなことを言っている場合じゃない。とてつもなく嫌な予感。それを払いのけることの方が大事だ。彩未はお重をどうする気なのだ? 昨日の今日で一人で出かけようとはさすがにしないだろう。でも、私と一緒に出かけるような雰囲気でもない。ではどうするのだろう。
「お花見でも行く? 今の時期なら紫陽花だね」
「……」
彩未は黙ったままだ。何も答えてくれない。焦燥が増していく。どうして何も言わないのだろう? 花見に行くつもりはないから言わないのだろうか?
「その服、懐かしいね。彩未がここに来た時に着ていたものだよね? 」
気になっていることも尋ねてみる。ここに来てからの生活用品は全部私が用意した。彩未はそれを着てくれていた。一度も、この服に袖を通したことはない。それが何故今日に限って着ているのか。考えないように遠くへ追いやっている予想がどんどん現実味を帯びてくる。彩未は相変わらず無言だ。お重を風呂敷で包んでしっかり結んでいる。終わると今度は洗い物を始めた。丁寧にピカピカに磨いている。それは通常よりも熱心に見えた。最後だから綺麗にしている。そんな風にも見えて嫌な汗が流れる。だが、まだ大丈夫だ。だって彼女は一人ではどうしようものない。でも、
「リンリンリンリン」
最後通牒のような呼び鈴が鳴った。
丁度片づけを終えた彩未は包んだお重を手にして玄関へ向かう。ああ、もしかして誰かにお裾分けする約束をしているのかもしれない。――そんな親しい人、近所にはいないけれど。
私も後追う。玄関には最も見たくない男の顔が合った。
「荷物はこれだけ? 」
夕凪は彩未からお重を受け取って言った。彩未がうなずくと「そう」と手身近に返して私を見た。
「彩未……その男と花見に行くの? 私は誘ってくれないの? 」
私の言葉を彩未はじっと聞いていたが無反応だった。夕凪を見ると憐れんだ眼差しをしていた。なんだその目は。そんな風に見つめられる覚えはない。だが、
「彩未が世話になった。ほら、彩未も最後なんだからしっかりお礼を言いなさい」
――何?
「お世話になりました」
「何を言ってるの? お世話になりましたなんて…まるでここを出ていくみたいな…」
「私は朝比奈に帰ります」
朝比奈に帰るなんて、
「馬鹿なことを言うんじゃない。私はそんなこと認めない」
「柊夜様は昨日好きにしたらいいとおっしゃいました。だから夕凪に迎えに来てくれるよう連絡したのです」
「あれは違う……本気で言ったわけじゃ……」
だけど、
「柊夜様は好きにしたらいいとおっしゃいました」
まるで聞く耳もたない。ピシャリとはねのけられる。
「ごめんね。私が悪かった。謝るから考え直して? もう怒ったりしないから」
「いいえ。柊夜様はいつもそうおっしゃいます。でも口先ばかりで本当に悪いと思ってらっしゃらない。それがよくよくわかりました。もう騙されません。私は帰ります」
それだけ言うと彩未は玄関を出て行った。夕凪は同情的な一瞥をくれるだけで何も言わず後を追って行った。私はその場に立ち尽くす以外何もできなかった。
2010/6/21
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