蜜と蝶

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   夏 越 祓 13    

 
 言葉にするといたたまれなくなった。そわそわする。何か言ってほしいのに彩未は黙ったままだった。私が言った言葉を咀嚼して飲み込みような眼差しだった。
――恥ずかしい。
 彩未を幸せにしたい。寂しそうにしている姿を見て、この子を幸せにしたいと思った。幸せに出来ると信じた。だけど、蓋を開けて見れはどうだ。私はただ好かれたかっただけだ。幸せにしたら、優しくしたら、大切にしたら、好いてもらえると思っていた。自分の願いを誤魔化して、いいことをしていると主張して、ズルイだけじゃないか。
 彩未はやはり無言だったが、にじり寄るように傍にきて、服の袖で私の顔を撫でた。涙を拭いてくれているのだ。成人した男が泣く姿などみっともない。頼りないと思われる。呆れられる。だけど彩未の表情からは嫌なものは感じられなかった。笑ったり困ったりしているわけではなく、真顔で、一生懸命に拭いてくれている。その手をとると動きをとめた。手首から彩未の脈を感じる。ほんの少しだけ早く感じるソレが彩未もまた恐る恐るの行動だと告げていた。しばらくじっとしていたが、空いている左手でまた私の顔を拭いはじめる。
 涙の意味が、自分でもよくわからなかった。悲しい。苦しい。辛い。不安。恐怖。焦燥。そういった駆り立てる衝動の中に、かすかに混ざっているもの。安堵。ほっとしている。触れているからだと思う。彩未に。膝の上においで、と仕草をすると素直に従ってくれる。小さな体を抱きしめると、より深い満足感が訪れた。
「私も」
「ん? 」
「私も、同じ。私のことを好きになってほしいと思ってる」
「好きだよ。とても。いつも言っているでしょう? 」
 だけど、彩未は首を左右に振った。まだ、栞祢さんのことを疑っているのだろうか。だが、
「柊夜様の不安と同じ。私は好きでも、柊夜様はどうかわからない。『好き』と言われても、言葉は嘘をつく。些細なことで疑ってしまう。怖い。そうでしょう? 」
 抱きしめている腕を緩めると、彩未は私を見上げてきた。それからまた視線を落として、か細い声で告げる。
「柊夜様は優しくしてくださいます。色々贈り物もくださいます。私のことを思ってくださっているからだと頭では理解出来るのに、心は不安だった。柊夜様のことは以前から知ってましたし。有名でしたから。噂を信じるなんて愚かなことだと思うけれど、聞いてしまったことを無視することも出来なかった。それに、私は、」
 言い淀んだ。俯いているので表情はわからないが、両手を握りしめるのが見えた。
「私は、歌えない、落ちこぼれだ。友だちもいない。私の世界は家族と、夕凪と、栞祢姉様だけだった。狭く小さな世界。そこでは皆が優しくしてくれた。私のことをわかってくれて、仕方ないねって。体が弱いことも、歌が歌えないことも、受け入れてくれた。でも、そこから一歩出ると、私は何もできない。役立たずだ。だからいつも逃げ帰った。いつまでもそれじゃいけないって思っても、怖くて出来なかった。そんな私を柊夜様は広い世界に連れだして下さった。嬉しかった。でも、どうしたらいいかわからなかった。柊夜様に少しでも好きになってもらおうと頑張ったけど、うまくいかない。いつも怒らせてばかりだ。悲しかった。こんなことをしていたら嫌われてしまう。怖かった」
 そこまで聞いて、やっと、本当に、理解できた気がした。
 彩未はどうしてあれほど怒られても、一人で外出するのだろう? と不思議だった。約束していないから出歩いてもいい。そう思っていたにしろ、私は「約束している」と思い込んでいたので、出歩けば必ずキツく叱りつける。理不尽な憤りをぶつけられる。それなのにちっともめげずに出歩く。その目的は、全部私のためだ。私に何彼と買うためだった。自分のために出歩いたことはない。どうしてそんなことをするのか。私のためというなら、家にいてくれた方がずっといいのに、と思っていた。
――私はどこまで馬鹿だったのだろう。
 彩未にとっての私は何もかもが初めての相手なのだ。小さい頃から彩未を知っている人間ではない。彩未にとって初めて関わる外側の人間。だからどうしていいかわからなかったし、同時に、真っ白な状態で、新しい関係を作っていける相手でもあった。
 彩未は変わりたかったのだ。
 ずっと寂しかったのだと思う。甘やかされ可愛がられることは心地いいが、一方的でもある。兄がそうだった。私を愛でてくれるが、相談事をするのは年の近い幼馴染の草寿さんだ。兄に頼って守られている私が兄に頼られるはずがない。無理な話だ。だが、酷く寂しかった。けして対等ではない関係は辛い。彩未はそのことを理解していた。甘えることをよしとしていたわけじゃない。だが昔から知る夕凪や栞祢さんは、どうしても幼い子のように見る。長年培ってきた関係性を変化させるのは難しい。そしてやはり甘やかされると甘える自分もいる。そんな世界を愛おしく感じながら、どこかで嫌悪もしていた。「何もできずに甘えているだけ」の自分に。そんな時、私が現れて、彩未を連れだした。初めて触れる外側の世界に、恐怖と不安を感じながら、期待もしていたのだと思う。今度こそ変われるかもしれない、と。
 だから、彩未は、彩未なりに努力をしていた。
 彩未は一生懸命だったのだ。私があれほど叱りつけるのに、懲りずに買い物に行くのは、我儘だったからじゃない。「自分に出来ること」がそれだったからだ。買ってきたもので料理を作る。私を喜ばせるために思いついた方法。だから諦めるわけにはいかなかった。自分にも出来るのだと証明して、変わりたかったから。でも私は否定した。彩未がすることをことごとく否定した。そればかりか、何もせずじっとして可愛がられていればいいと言っていた。「何もしなくていい」は彩未にとって「どうせ何もできないんだから」という意味だった。だから余計に頑なになって、認められようと執拗になった。そうとも知らず私は彩未を叱りつけ続け、結局、彩未はいつもの振る舞いをした。甘える。他に、関わり方を知らないから。 私はそれを可愛いと思った。甘えただけど可愛らしくていいと。彩未の気持ちを少しも察してやることなく。彩未は単純に「お出かけしたい」という理由で動いていたわけじゃない。どうして、考えなかったのだろう。その裏側にある意味を、もっと深く、考えるべきだった。
「私が彩未を嫌いになるわけないだろう? それに彩未は役立たずなんかじゃないよ? 私のためにいろいろしてくれている。とても嬉しい」
 彩未はゆっくりと顔をあげた。真意を確かめるような、まっすぐで頼りない、悲しい目をしている。本当のことを言わなければいけないと思った。
「彩未が一人で出歩くと不安だった。私の知らないところで、誰かと出会って、その人を好きになるんじゃないかと、想像しただけでおかしくなりそうだった。その可能性を無くしたかった。だから出歩くと酷く叱ったけど、彩未が私のためにしてくれたことは嬉しかった。本当だよ。嬉しいって気持ちより不安が前に出て怒ってばかりだったけど…」
「……私がしていることが気に入らなかったからじゃない? 」
「違うよ。彩未は私にたくさんのことをしてくれてる。私は幸せ者だ。それなのに『ありがとう』も言わずに勘違いさせてごめんね? 」
「本当に? じゃあ、私はここにいてもいいの? 」
「当たり前でしょう? 彩未がいなくなったら、どうしていいかわからない。一体、何のために怒っていたのかわからなくなる。彩未がいなくならないように必死だったんだから」
 彩未はぎゅっと抱きついてきた。それは澱んで曇った私の心にまっすぐ届く。彩未は私の傍にいることを望んでくれている。その事実に嘘みたいに気持ちが晴れ渡った。
「柊夜様、好き」
「私も好きだよ」
 だが、告げた途端、彩未は突然泣き出した。ぎょっとした。どうしてこのタイミングで泣きだすのか。わからないけど、ここで何か言って、琴線に触れてしまったら、また癇癪を起すかもしれない。慎重に、言葉を探すが、思いつく言葉はなくて、代わりに柔らかい頬に口づけると、今度は声を出して泣き出して、
「……でも、私は、酷いこと、した。柊夜様、に…ごめ、ん、なさい…」
「何も酷いことなんてしないよ? 彩未はいい子でしょう? ね? 」
 だけど彩未はかぶりを振った。「悪い子なの? 」と言うとうなずく。そしておいおい泣く。どうも感情がおかしくなっているらしい。 強く抱きしめてもなかなか泣きやんでくれない。
「いっぱい傷つけた」
「私が傷ついたのは彩未が出て行ってしまったことだけだ。でも戻ってきてくれたでしょう? だから何も傷ついてないよ」
 そう言って、コツンとおでこをひっつけたけど、
「彩未? 」
 熱い。先程から、ずっとそうだった。けれど、これは私の体が熱いのだと思っていた。だが違う。彩未が熱いのだ。熱がある。かなり、高い。元々体が弱いのに、泣いたり喚いたりした上に、私の傍にいたから移ったのだ。
「いつからしんどかったの? どうして言わなかったの? 」
「だって、」
「だってじゃないでしょう! 」
 あっと思った。彩未も同じだったらしく、吃驚して泣きやんだ。
「今のは違うよ。違う、別に話を聞かないでとかじゃなくて、早く医者を呼びに行かなくちゃいけなくて、だから、焦って、」
 しどろもどろな言い訳をする私に、彩未は意外にも笑っていた。
「大丈夫です。私もこれからはちゃんと言うべきことを言えるようになります。柊夜様が私を思ってくださっているのがよくわかったから。もう怖くない」
 そう言うと、唇に柔らかな感触。彩未の方から口づけてくれたのは初めてだった。それは誓いのようで、この子は私との未来を見つめてくれているのだと知る。だから私も、いつまでも「いなくなられたら」と怯えているわけにはいかない。
「ずっと一緒にいようね」
 私からも口づけを返す。風邪をうつしてしまって申し訳ないけれど、もううつってしまったのだから、と遠慮なく長くゆっくりと重ね合わせた。これまでで一番優しく幸せな味がした。【完】

2010/7/21

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