蜜と蝶
夏 越 祓 12
体が重たい。悲鳴をあげている。眠って、すべてを手離してしまえば楽になれる。だが睡魔はやってこない。まどろみのなかでボーっと天井を見つめていた。
兄は言った。
『お前なら出来ても、彩未には出来ないことがある』
人それぞれ。十人十色。そんなことわかっているつもりでいたが、ちっともわかってはいなかった。笑えてくる。
「約束なんてしていない」彩未が言ったとき、とんでもない言い訳だと感じた。もし本当にそう思っていたのなら、もっと早くに言っていたはずだ。後付の理由。そんなものいくらでも言える。信じなかった。だけどそれが本当だった。
『言葉を遮られると彩未は萎縮する』
怖がっていた。私が言葉を遮ると黙っていたのは怖かったからだと聞かされて、振り返ってみると、納得する自分がいた。彩未はいつも真っ青な顔をして俯いた。それからしばらくすると泣き始める。言いたいことを飲み込んでじっと堪えて、それでも溢れてくる気持ちが涙になっていた。聞いてほしくても聞いてもらえない。そんな絶望感。他に頼る人もいない。話し相手は私だけ。そんな唯一の相手が、自分の言葉をろくに聞いてくれもせず、どこにも持って行き場のない思いを抱えて毎日を過ごす。窮屈で鬱屈とする。それを発散する手段もない。外に出たらまた私が叱る。家に篭って一人きりでいるしかない。そんな気持ちを少しも顧みることなく、満足していると思い込んでいる私をどんな風に思っていたか。
――彩未…
見つめた先にある天井の木目が滲んで揺れている。
後悔、ではない。気づかなかったのではなく気づけなかった。わかる可能性があったのに平気だとやりすごした、というのであればまだ救いもある。だが違うのだ。兄に指摘されても、正直ピンとこず、じっくりと考えてみてようやく、そういうことがあるのかもしれないと思えた。そうであったならば、私は非道だと思った。だがどこかで、まだ信じられない自分がいる。私は悪くない。言ってくれたらそれで済んだのに。そんな風に、自分の正当性を主張したい。『これからは、なんでも言って』と告げる。彩未がうなずく。それで丸く納まる。私の書いた筋書き。だけど、それではダメだ。
『歩み寄ることが大事だ』
私の方から、彩未に近寄っていく。あの子の性格を認めて、向き合っていかなければ、一緒にはいられない。兄は無理をする必要はないと言った。他に、私の性格に合う相手がいる。持って産まれた性格は簡単に変るものではない。性分を曲げてまで一緒にいる相手なのかと問うた。だが私は即答で「彩未でなければいけない」と答えた。衝動などではなく感じた。
――だけど、では、具体的にどうすればいいのだろう?
よくわからない。黙って待っていればいいのか? そしたら彩未は話してくれるようになるのだろうか。……いや、それよりも、彩未は私のところへ戻ってきてくれるのだろうか。あんな風に癇癪を起してキレるなど余程だ。私が彩未を追い詰めたのだ。だが、何が引き金になったのかさえわからない。そんな私に愛想を尽かし朝比奈に帰るかもしれない。
――それはダメだ。
それだけは阻止しなくては。朝比奈に帰ったら終わりだ。どうあっても引き止めなければいけない。兄が話をしてきてやると言ったが、私は不安になった。兄のことを信頼していないわけじゃない。だが、この件に関しては私が自分の手足で動かなければ後悔する。
泣いている場合ではない。
起き上がる。眩暈がした。熱がある。おそらく上がっている。丁度いい。普段とちがう状態なら、普段と違う自分になれるかもしれない。出来ないことが出来る自分。そんな一縷の望み。立ち上がろうとした。が、先に扉が開いた。
入ってきた人物と露骨に目が合って狼狽えた。
彩未の方も起き上がり座っている私に驚いた様子だったが無言だった。お盆を持ったまま傍まで近寄ってきて腰を下ろした。乗っているのはお粥だった。
「……彩未が作ってくれたの? 」
うなずいて、鍋からお椀によそって渡してくれた。
「玉子が入ってる…」
柊夜様がお好きだから入れました。と小さな声で返ってきた。私が好きだから入れてくれたのか。と呟きには黙っていた。私は渡された粥を食べた。粥というのは優しい味がする。病人を思って作るからなのか。気持ちが何かを介して伝わるなどあるのか。わからないが、彩未が作ってくれた粥は格別優しい味がした。
話を、しなければならない。
話を聞かなくてごめんね。彩未が約束していないと思っていたなんて知らなかったから、怒ってごめんね。服や宝石も、彩未は本当は欲しくなかった? 彩未の好みじゃなかった? 知ろうとしなくてごめんね。私が勝手だった。一方的だった。でも、私は一生懸命だったんだよ? 彩未がここにいてくれるように、不自由なく暮らせるように、考えて……。ただ、彩未がここからいなくなるのだけはどうしても嫌だった。一人で出歩くなと言ったのも、万が一蝶に狙われたらと思うと怖かったし、何より、他の誰かと出会って、その人のことを好きになったらどうしようと怖かったんだ。家の中でじっとしていてほしかった。私だけを見て、私と二人で生きていて欲しかった。彩未はそんなのは嫌だったんだね。当然だよね。
思いつく言葉は、どうしても自分を許して欲しい。ということと。自分を正当化することだ。いつもの私で、いつものことしか出てこない。「もういいよ。わかった」そう言って欲しい。それ以外の言葉を受け付けない。誘導するような言葉でしかなく、
「苦しい? 」
彩未は言って、私の背をさすってくれた。泣いているのは体調が悪くて辛いのだと解釈しているようだった。
「気分が悪いのでしたら、無理に食べることはないですよ」
だけど私は食べ続けた。口を動かしていなければたちまちにひとりよがりの言葉が出てくるのがわかっていたから。そして、それはきっと私が今、伝えなければいけない、本当に伝えたいことではない。かつてないほど、慎重になっていた。私の言葉一つで、壊れてしまう、脆く拙い関係なのだ。私と彩未の間には細い糸しか存在していなかった。否応なく痛感していた。
お椀の中が空になると「まだ食べられますか? 」と問われる。首を縦に振ると、新しくついでくれた。私はまた無言でそれを食べる。温かい粥が腹に入ってくると満たされる。そういえば倒れてから今まで何も食べていなかった。空腹を満たすと、気持ちも落ち着いていく。体と、心は、別ではない。
――ああ。
何かを知る瞬間というのは唐突だ。長いこと開かなかった扉が触れてもいないのに開き、あふれ出てくる。無意識に押し込んでいたこと、薄々感じていたが受け止めることが出来ず、知らない振りをしてきたこと。それが白日の下に曝されて、自分の隠し持った本音を引っ張り出す。
どうして、私は、懸命になっていたのか。彩未が望んだわけでもないのに様々なものを買い込んできては贈った。満たそうとしていた。彼女を。そうすることで、自分を満たしたかったのだ。私は空腹だった。彩未を初めて見たときから、私の片思いは始まっていた。一年ほど続けて、やっと彼女に近づいた。異常とも呼べる手段で、自分の元へ連れてきた。手に入れたと思った。でも違った。彩未がここにきてからも、私は片思いのままだった。強引な真似をしたと自覚はあったが、振り返ることをしなかった。誤魔化したのだ。確かめなかった。聞かなかった。望む答えではないと嫌だったから。そのせいで、最も大事なところに不安を残した。だから束縛した。家にいるように、傍にいるように、執拗になった。でも、本当に、私が望んでいることはもっと別のことで、一番、伝えなくてはいけないことは、
「彩未……好きだよ」
彩未のことを好きだ。もうずっと。長いこと、彩未が好きだった。だけど、彩未はどうだろうか? わからない。ここにいてくれる。だから私を好きなのだ。私が贈り物をすると喜んでくれる。幸せそうにしているし、きっと好きなんだと思う。もし、嫌っているならこういう態度はとらないよね。だから嫌われていないよね。そうは思えても、本当は自信がなかった。好かれているのか心の奥では不安に思う気持ちがあった。だけど、それを確かめるのも怖くて出来ない。一度も面と向かって聞いたことはない。曖昧なまま過ごすうちに、私は少しずつ消耗していた。空腹は増し、飢餓状態だった。
「私のことも好きになって」
彩未は私は見つめていた。
2010/7/19
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