蜜と蝶
夕 凪 の 憂 鬱 5
私が歌を提供することに決まると柊夜は彩未のところへ行き、その旨を説明した。彩未は喜ぶかと思ったが表情は曇ったままだった。私の元へきて不安げに問うてきた。
「夕凪はいいの? 」
蜜は美しい蝶に歌を提供したいと思う。自分の歌で満たされていく姿を見るのは至福の時だった。私だって例外じゃない。まして自分で言うのもなんだが、私はどんな蝶でもより取り見取りなわけだし。可憐で美しい蝶に求められたいのが本音だが…。
「いいよ。彩未の心配事が消えるなら、これぐらいたいしたことない」
「ありがとう」
ほころんだ笑顔だ。花が開くような、やわらかく繊細な表情。心底感謝しているときする顔だった。私のことを気にして簡単に嬉しがらなかったことが、多少の溜飲を下げた。彩未にとって私は大事な人間であることに変わりはないらしい。彩未の頭を撫でながら、艶のいい黒髪を指で梳かす。
「宴で歌の練習もすればいい。私が手本を見せてあげるから」
「夕凪が教えてくれるの? 」
彩未は目を見開いた。通常、蜜は宴で歌うことで自らの声を鍛えていく。独学だ。歌詠みも「歌を伝授」することが目的でその時大まかな「歌い方」を告げることはあるが、個人を指導することはまずない。
「もちろんだ。きっと上手になる」
「うん」
「だから、無理に歌おうとしてはいけないよ。間違っても歌って死ぬなんて二度と考えてはいけない」
「うん。心配掛けてごめんね? 」
可愛い。素直ないい子だ。この子をあんな風に頑なにさせてしまうとは…恋は人を変えるというが複雑な気持ちだった。それは、私に向けられることはない感情なのだろうな……いつかこんな日が来るだろうとは思っていたが寂しさを感じる。しかも相手が蝶というのも不満だ。腹立たしい気持ちを込めて柊夜を見た。が、私よりもっとイラ立った顔で睨んできた。そして、私から彩未を引き離す。嫉妬深い男だな。
柊夜は自分の方を向かせると、彩未の目線まで腰をかがめて
「宴には連れていくけど朝比奈に着いても私の傍を離れちゃいけないよ? それから必ず私と一緒にここに戻ってくるんだよ? 朝比奈に残るなんて言っちゃ駄目だ。いいね? わかった? 」
「わかった」
「本当に、わかってる? 」
「わかってる」
「約束できるんだね? 」
「約束できる」
「破っちゃいけないよ? 」
「破らない」
「絶対にだよ? 」
どれだけ確認する気だ。繰り返し何度もしつこく尋ねる柊夜に一つずつ答える彩未を見ながら、よく付き合えるなぁと開いた口がふさがらなかった。普通なら途中で「しつこい! 」とキレるぞ。見ているだけでもイラっとする。そんな私に構うことなく、柊夜は抱擁した。彩未も大人しく抱かれていた。二人の世界突入だ。声をかける気力も出ずにいると、話はどんどん怪しい方向へと流れていく。
「それにして私が他の蜜を連れ帰ってくると思っているなんて、そんなことあるわけないだろう? 」
「……」
「まだ疑ってるの? 」
「だって…」
「だってじゃないでしょう? 」
「ごめんなさい」
「ダメだ。悪い子にはお仕置きが必要だね」
柊夜は私が先ほどしたように彩未の髪を撫で、おまけに指に絡みつけた髪先に口づけた。これは絶対に対抗していると思うのだが。私の考えすぎか。被害妄想すぎる?
「今日からは私の寝室で一緒に寝ること。いいね? あんな風に彩未を連れてきてしまったから、遠慮してたんだ。でも彩未が私の気持ちに不安を感じるのならそんなこと思ってる場合じゃないからね。心配など一切感じる暇がないほどたっぷり愛してあげるからね。心も体も」
彩未は途端に頬を上気させたが、それ以上に、
勘 弁 し て く れ
「おい! そういう話は私が帰ってからにしろ! 」
叫んだ。叫ばずにいられるはずがない。こいつ絶対私がいることをわかっていてわざと煽っているのだ。なんて性質が悪い男なんだ。こんな男に可愛い彩未が……。頭がガンガンする。誰か夢だと言ってくれ。だが、生憎、夢オチはやってこない。
「なんだ、お前、まだいたのか」
――こいつ、よくもぬけぬけと。
「彩未、泣いて疲れただろう? お風呂に入っておいで。ゆっくりしてくるといい」
「でも、夕凪が、」
と彩未の言葉を遮るようにして
「この男はこれからまだ他に用事があるんだ。引きとめたら悪いよ? ね? 」
それから有無を言わさず彩未を奥へと隠してしまった。こういうことは強引に進めるのだよなぁ。腹が立つほど。彩未がいなくなると無表情になった男を見つめる。それに気付いたのか、打って変って冷やかな視線がくる。
「彩未に気安く触れるんじゃない」
怒り心頭。不愉快です。それをあからさまにぶつけてくる。…待て。私は恩人だろうが。どうしてそんな態度を取られなくちゃならんのだ。というか、もしや…。
「彩未に風呂に入れと言ったのは、私が触れたからか」
「当たり前だ。彩未にべたべたするなんて、殺さなかっただけありがたいと思え」
「お前……私に対して感謝してもそんな横柄な態度とれる立場じゃないだろうが。私が歌わないと言えば、元の木阿弥になるんだぞ」
こんな恩着せがましいことは言いたくなかったが、態度がひどすぎる。脅すつもりで言った。しかし、柊夜は平然と言ってのけた。
「彩未の頼みを断れるのか? 」
――っ。
た、しかに。こいつの頼みであり、彩未の望みでもあるのだ。彩未を悲しませることはしたくない。でもそうすると柊夜を喜ばせてしまう。どうしてこの男と彩未の願いが一致してしまっているのだ。悲惨だ。この男がその事実を重々理解していることも。性格が悪すぎる。顔が引きつって言葉にならない。彩未はどうしてこんな男に…。絶対不幸になる。間違いなく。ダメだ。こいつとは必ず別れさせてやる。覚えていろよ。
「そのうち天罰が下るからな」
もういい。こんなところにいては私がおかしくなる。これ以上気分が悪くなる前に屋敷を後にした。
だが、その日、帰宅してからも地獄だった。柊夜の露骨な表現を聞いたせいで、考えたくないのに、ともすれば「今頃あの二人…」などと浮かんできそうになる。これでは変態ではないか。どうして私がこんな目に遭わなくちゃならんのだ。私が一体何をした? 神様はこの世に存在するのか。いるとするならこの理不尽な苦行の必然性を是非とも教えてもらいたかった。【完】
2010/4/19
Copyright (c) アナログ電波塔 All rights reserved.