密約 03
日曜日の朝、アポイントもなしで奥澤陽芽が訪ねてきた。
「婚約破棄」の申し出だ。それはいい。二人の心が通じたのなら、こういう結末になることは予測できていた。ただ、「朱乃さんの意志を今一度確認させていただきたい」と言うと、陽芽は「必要ない」と断った。それでピンときた。この男、まだ朱乃に何も告げていないのだと。
ようやく自分の気持ちを理解した。で、次の行動が、朱乃の気持ちを確認するより婚約を断ることだとは……突飛な行動をするものだ。順序が逆だろう。朱乃が自分を嫌がるかもしれない可能性は考えないのか。それとも嫌がろうとなんだろうと傍に置いておくつもりなのか。案外何も考えていないのかもしれない。単純に、惚れた女が他の男と婚約していることが許せずにここまできた。嫉妬深いだけなのかも。ここまでくると感心というか、感嘆というか、人としても癖の強い男だが、恋愛に関しては相当苦労させられるだろう。朱乃に同情をする。
いずれにせよ、政略結婚を反故にするなど、通常では考えられない。両家の間に溝が出来るのは必須であり、そんなことが起きれば、陽芽自身の立場も危うくなるだろう。それがわからない愚か者でもなかろうに、それでも言ってきた行動力だけは買ってやる。だが、このままあっさり引き下がるのも癪だったので追及してみることにした。
「突然訪れて婚約破棄だなんてあまりにも不躾ですね。まして当人同士が話し合いもなしなんて」
「婚約などしていない。あくまで婚約予定だ」
「同じことでしょう。朱乃さんは私となら幸せになれると婚約を受ける気になっていた。今まであまたあった縁談をすべて断っていたのにも関わらずお受けしてくださった。それが、今更なかったことにしてほしいなど……もしかしてマリッジブルーみたいなことなのかもしれない。女性にはよくあることです。一度お話をさせてくだされば、彼女の気持ちも落ち着くでしょう。あなたもそれを望まれるでしょう? そもそもこのお話、打診されてきたのはあなたなのですから」
陽芽をわずかながら柳眉を寄せた。
「それとも、これは朱乃さんの意思ではないとか?」
「……」
「婚約破棄の納得いく理由を教えていただきたい」
返答によっては穏便に事を進めてもいい。ただし、納得行かない返答ならば容赦はしない。奥澤を捨てて朱乃をとるか。朱乃を捨てて奥澤をとるか。そんな択一ではない。奥澤を捨てて朱乃を選ぶような無責任な男に朱乃は譲れないし、好きな女を手に入れることも出来ない情けない男と今後取引する気はない。全部失うか、全部手に入れるかの択一だ。このプライドの高い男がどうでるか。それで決める。
「婚約破棄は入江家のためでもある」
「入江の?」
「もし、飲んでいただけないのでしたら、入江家は潰れる。――私が潰す」
「脅しですか」
「まさか?」
本気だ、と告げた眼差しは冷徹だった。
「長い間、共に支えあってきた両家の関係をあなたの代で壊す? そんなこと出来ると? 死にますよ」
「生憎、勝算がない勝負はしない主義だ。心配するのならご自身の家を、と申し上げておこう」
「……実に面白い解答ですね。でもそれも、私の質問の直接の答えではありません。何故、そうまでしてこの婚約を反故にしたがるのですか? それが答えられないのなら、全面戦争も致し方ないでしょう」
男にしてはこれでも相当に譲歩しているのはわかる。だが世の中、そんなに甘くはない。さて、どうするか。女一人のためにここで大演説会を開いてくれるか。
だが、男の答えは私の思惑とは違った。
「本人以外に話す気はない」
――っ。
愛を囁くのは惚れた相手のみ。どの面下げて言ってるのだ、と陽芽を見るがしれっとしたものだ。なんだかこちらがあてられた気がする。呆れた。これでもし、本当に全面戦争になったとしてもこの男に後悔はないのだろう。なんというか、
「とんだロマンチストですね」
けれど案外嫌いではない。仕方ない、幾分甘い気もするが、婚約破棄の申し出を受け入れることにした。ただし、朱乃が陽芽に愛想をつかせば、そのときは遠慮なく、今度こそ花嫁にすると釘を打って。
この結末を、奥澤先代当主はどう思うだろう。今後への期待を含め、及第点といったところだろうか。
あの鈍い男のことだ、まだこの先、何かしら波乱があるかもしれない。二人が完全に結ばれるまで、密約はもう少し続きそうだ。
2010/1/13
2010/2/21 加筆修正