デッドエンドの夜 03
高速道路は比較的空いていた。
車中は静寂に包まれている。私はあまりおしゃべりではないので、二人きりの時、兄も無理に話をしたりしない。それでも時折、話題を提供してくれて、私もぽつりぽつりと答える。だけど今は完全な静けさが訪れていた。兄の沈黙はまだ私の対応できない事実を無遠慮に突きつけてくるようで嫌だった。大変なことが起きている。焦燥が増していく。
「どれくらいでつくの?」
つまらない質問だった。それでも黙っているとおかしくなりそうだったので言った。現実を掴んでおきたかったというのもある。今自分が何のためにどこへ向かっているのか、手繰り寄せておかなければわからなくなってしまいそうだ。
兄は私をチラッとだけ見て告げた。
「混んでないし四時間ぐらいかな」
「前に連れてきてもらった時はもっとかかったよね」
「あの時は、工事中で渋滞につかまったからね……」
そう。以前一度、高森の家を訪れたことがあった。私が中学へあがる直前の春休みだから、四年前。ちょうど今頃の時期だ。
***
出産のために大阪の実家へ里帰りしていた成海さんを迎えに行くので、私も一緒にどうかと兄が誘ってくれた。小学校卒業と、中学祝いを兼ねて、ユニバーサルスタジオジャパンへ連れて行ってくれるという。私は迷った。外出することは好きじゃない。小さい頃からそうだった。
「成海のご両親はなかなかコテコテの関西人でね。お兄ちゃん一人じゃ太刀打ちできないから、まことがついてきてくれると嬉しいな」
嘘だとわかった。ただ、そういって微笑む兄はどこまでも優しかった。私をいつだって気遣ってくれる。結婚しても変わることなく、新しい家族を持っても、赤ちゃんが生まれても、兄は兄だった。そのことが嬉しくもあり、少しだけ申し訳なくもある。私はそれに応える術をあまりもっていないのだ。
「迷惑じゃないの? 向こうの家の人にお兄ちゃんが文句言われたりしない?」
「まさか。成海からの提案でもあるんだよ。いろいろと気遣ってくれた高森君にお礼をしようってことになったんだけど、それならまことを誘って二人をUSJへ招待しようって。年の近い子と行った方が楽しいだろう?」
ああ、どこまでも似ているなと思った。兄と成海さんは似ていた。きっと成海さんも兄が私に接するように高森に接しているのだろう。包み込むようにまわりからフワリとふれる。けして同じ目線ではない。年の離れた妹弟をもつ兄や姉はみんなそうなのか。あるいは兄たちがたまたま似ていたのか。高森はそれをどう受けとめているのだろう。知りたかった。
「じゃあ、行きたい」
言うと、兄は嬉しそうに私の頭を撫でた。
土曜の朝に出発して、一泊させてもらい、日曜の夕方に帰って来るという計画で石川を出た。大阪に行くのは初めてだ。高層ビルがいっぱいあって、人もわんさかいて、大阪弁が飛び交う賑やかなところだと思っていたから少し恐い。華やかなのは苦手だ。
「垢抜けた感じなのかなぁ」
ポツリともらした言葉に、兄は笑った。
「ん〜、大阪市内は確かに都会って感じだけど、成海の家は市内からは結構離れているし、石川とそんなに変わらないよ。夜にはカエルの鳴き声がきこえることもあるって言ってたし」
その話が私を安心させた。
着いてみると、兄の言うとおりだった。私が住む町と変わらない。ただ、見知らぬ町というだけで鼓動が高鳴っていく。非日常な感覚に、何か特別なことが起きるのではないかと期待を抱かせる。私の両親はともに石川の出身だから田舎というものがない。いつもクラスメイトが長期休みに田舎へ帰ったという話を聞いていた。こういう感じなのだろうか。
成海さんの実家は一軒家だった。チャイムを鳴らすと成海さんが出迎えてくれた。ご両親は美容院を経営しているので不在だ。夜遅くまで帰ってこない。
「かなたは?」
兄はすぐにでも息子に会いたいらしく、落ち着く間もなく尋ねた。
「今さっき寝たとこ。起すと機嫌悪くなるからそっとしといてあげて」
成海さんはそういったが、兄は顔だけでも見たいとかなたくんが眠っている部屋に向かった。私はこのままここにいたほうがいいのか、着いていくべきなのか一瞬迷ったけれど、兄のあとを追った。
かなたくんは二階の、結婚前、成海さんが自室として使っていた部屋にいた。先に入って、ベビーベットに張り付いている兄の後ろにそっと立って覗き込むと、寝息をたてたかなたくんが見えた。
赤ちゃんを間近でみるのは初めてだった。両手を布で覆っている。それがドラえもんの手のようで可愛い。自分の爪で掻いてしまうので防御のために巻かれた布らしい。よく見ると顔に引っかき傷があって痛そうだ。結構やんちゃな性格なのかもしれない。呼吸するたびに布団が上下して、こんなにちっちゃいのにしっかりと生きているのだと思うと不思議だ。
「どう?」
兄は言った。
「赤ちゃんってもっとくしゃってしてるのかと思ったけど、しっかりした顔立ちしてるねぇ」
答えると、兄は腰をかがめて張り付いていた姿勢を戻し、ようやく私の方を振り返って笑った。
「だろ? 男前になるよ、きっと」
親バカというのはこういうことかと思った。完全な父親の顔だった。私に対して、兄は父のような態度でいたと思っていたけれど、やっぱり兄は兄で父ではないのだ。妙に納得した。やっぱり違うんだ。これから兄はかなたくんへ愛情の全てを注ぐのだろう。兄ならばいついかなるときも我が子のことを思うだろう。その事実が複雑な気持ちにさせる。
「もう! まことちゃんも遠いところ来てくれて疲れてるんやから。あとでいくらでもみれるし、まず休ませてあげて」
大阪に一月ほどいたせいか、リラックスしているからか、成海さんはすっかり大阪弁に戻っていた。兄は「ごめんごめん」と言ったが、ちっとも悪いとは思っていないだろう。嬉しそうな顔のまま「じゃあ、あとでね」とかなたくんの布団をポンポンと優しく叩いた。それを合図に、私たちはリビングへ戻った。
「あの、これ。お世話になります」
母が持たせてくれた菓子折りを渡す。
「ありがとう。でもお気遣いなくね。ゆっくりして」
「はい、ありがとうございます」
遅ればせながらの挨拶を交わす私と成海さんの傍で、兄は階段をチラチラみていた。
「大丈夫かな、下に連れてきたほうが何かあったときわかるんじゃないか?」
かなたくんを構いたくてたまらないらしい。
「親がいなくても子は育つ」
それはちょっと用途が違うんじゃないかと思ったが、強気で言う成海さんは「母は強し」という言葉が似合う女性になっていた。
お茶をいれてくれるというので、私も手伝うために立ち上がった。
「じゃあ、このティーカップを運んでくれる?」
「はい」
トレイに乗せてテーブルまで運ぶ。真っ白なティーカップが四セット。数が一つ多い。彼は家にいるのか。だとしたら出迎えにきてくれてもいいのに。薄情だなと落胆する。そんな非難めいたことを思っていると玄関から「ただいま」と声がした。男の子の声だ。ギシギシと床を軋ませて近づいてくる足音。それに比例するように、私の心音も大きくなっていく。
「いいタイミングみたいやな」
廊下からひょっこり顔を出したのは高森だった。意味ありげにニヤリと右の口元だけを器用にあげて笑ってみせた。高森に会うのはこれで二度目だ。本当なら兄の結婚式で会うはずだったが、当日、高森は高熱を出して寝込んでしまい出席できなかったのだ。
「いらっしゃい、お義兄さん、まこと」
まこと、と名前を呼ばれた。男の子に呼び捨てにされたのは生まれて初めてだ。でも嫌な気持ちはしなかった。
「お邪魔してます」
兄が言うのに便乗して私はうなずいた。
「お帰り。買って来てくれた?」
キッチンから小皿とフォークをもった成海さんが現れて、それに合わせるように高森が手にした箱を顔の横に押し上げる。箱には「アプリコッタ・ケーキ」と書かれてある。それを買うために出かけていたのか。出迎えてくれなかったわけじゃなく、いなかったのだ。
歓迎されてないわけじゃない。
「もうようわからんから、無難なん買ってきたわ」
開けてみるとモンブランケーキが四つ入っていた。無難というからショートケーキだと思っていた私は面食らった。モンブランって結構マニアックなケーキじゃないだろうか。
大阪では普通なのだろうか。
「なんでモンブランなん? 無難言うたらショートケーキちゃうの?」
成海さんが言う。やっぱり大阪でも無難といえばショートケーキなのだ。きっと全国共通だ。
「それは一般的すぎるやん。ショートケーキ買って帰ったら何も考えてないんやな、みたいになるやん。ショートケーキ買うんやったら、一個ずつ全部バラバラなん買って帰らなあかんなるやろ。でも四つも別の選ぶのなんか無理やったからこれにしてん」
わかったようなわからないような理屈だ。
「これじゃあかんかった? モンブラン嫌い?」
高森と視線があったので、私は顔を横に振った。それをみて満足そうにうなずいて白い皿にモンブランを乗せて私に差し出してくれた。
「好きそうやなぁと思った。栗が似合うわ。イチゴではないな」
栗が似合うというのは誉められているのか。イチゴではないなというのがひっかかる。たぶんきっと、栗よりイチゴが似合うといわれたほうが嬉しい気がする。でも、私の好みも考えて選んでくれたらしいので「ありがとう」と言った。すると「最後のは突っ込みどころやで」と返された。
***
「ちょっと休憩しようか」
普段あまり運転しないので疲れたのか、兄はサービスエリアに入った。売店の一部だけが開いている。「何か食べる?」と聞かれたけれど、そんな気にはなれず断った。
兄はお手洗いに行ってくると車を出て行った。戻ってくるとコーヒー缶を手にしていた。「熱いから気をつけて」と一本を私にくれた。手のひらを伝ってぬくもりが広がっていく。兄は自分の分を二、三口飲むと備え付けてある飲み物置きに入れて車を発進させた。
2010/6/2