デッドエンドの夜 08
葬儀の日は晴れ渡っていた。予報では雨だと言われていたけど鮮やかな快晴だった。
「高森は雨男やったけど、最後の最後に晴天やなぁ」
おじさんが言った。最後という言葉が空気に溶けていく。
お葬式は淡々と行われた。しめやかにつつがなく進んでいく。
出棺になって、私は手渡された白い菊の花と、こっそりと持ってきた桜の花びらを入れた。もしも生まれ変わりというものがあるなら、次こそは女の子で、さくらという名前で生まれておいで、そして今度こそしっかりと生きて、と祈った。
成海さんは黒いバインダーを入れていた。別綴じの、とびきりお気に入りだけをファイルしてある切手帳だ。「幸福の切手」をみるたびに高森は失恋のことを思い出して複雑な心境だったのだろうか。大切な切手に痛みの記憶が混ざってしまったことをどう思っていただろう。私とあんな約束をしなければよかったと責めたりしたかもしれない。
おばさんは、高森の右頬に触れて「親不孝な子やわ」と繰り返していた。右の口元だけを上げて笑うのは癖だ。ニヤリという表現がピッタリの笑い方。大声を出して笑うよりそうやって含み笑いをするときのほうが実は嬉しいときだとおばさんが教えてくれた。
「高森」
おじさんは、おばさんの背をさすりながら棺を除きこんでいた。家族写真だといって自分の写真を合成させた成海さんの結婚写真を棺に入れた。
「お前が大事にしてた写真や。ちゃんともって行きなさい」
高森が生まれてすぐおじさんとおばさんは美容院を始めた。念願のお店で、かかりっきりになってしまった。そのせいで高森と過ごす時間が少なかった。二人とも悔いていた。寂しい思いをさせてしまったと泣いていた。自分達の前では平気な態度をとるから大丈夫だと思った。強がっているのだとわかりながら甘えた。いつか大人になったらわかってくれるだろうと思っていたと。時間が流れれば思い出として笑いあえる、そんな些細なすれ違いだったからそのままにしていた。いつでも、その気になればどうにかなる、取り返せるはずの他愛のないことになるはずだった。
もっと出来ることがあったことを思い知るのは、失われた時以外にはないのか。「明日死ぬかもしないと思って生きる」というが、本当の意味で、生活の中に死の匂いを組み入れることはとても難しい。いつ終わるわからない人生のすべてを大切にしていたら息が切れてしまう。適度に手を抜き、過ちをおかし、それでも日々を積み重ねていく。たとえばそれで、どうしようもない後悔を伴うことになっても、そんな風にしか生きられない。悲しくても、嘆いても、それが人の性なのかもしれない。そうだとしても張り裂けてしまいそうだった。
火葬場は静かだった。職員以外いない。一日に何万という人が亡くなっているに斎場はガランとしていた。 ここ数日の間に死んでしまった人はいない。あの日、全人類の中でただ一人、高森だけが選ばれてしまった。そんなバカなことありえないけれど疑ってしまう。
準備が整い、火葬炉の前へ案内される。高森の棺は炉へと続く電動台車に置かれていた。 棺窓が開けられ「お線香を手向けてお別れをしてください」と職員の合図に最後の別れをする。最後という言葉を幾度も聞くうちに感覚は麻痺していた。だが、これが本当に最後だ。高森の肉体を見ることはもうない。そう思うのに私は彼の顔を見るふりだけして足早に棺の傍を離れた。死に顔を覚えていくなかった。
喪主であるおじさんとおばさん、成海さんと兄が呼ばれた。「四人様で白布をお顔にお掛けください」「二人様でそれぞれの扉をお閉めください」という指示に従い窓扉が閉じられる。棺を乗せた台車が炉の中へ入り分厚い扉が閉められた。
「扉が閉まります。最後に今一度、合掌。礼拝をお願いいたします」
職員は厳かに言い終わると、炉がきちんと閉められているのを確認し、点火スイッチを押した。その仕草は事務的でなんの悲しみも感じないが、毎日、死と関わり、幾度も肉体の消滅を導くためにスイッチを押してきた指先だ。
そのまま化粧扉を閉め、鍵をかけて、おじさんの傍に近寄った。
「収骨準備前に受け取りに参りますので、それまでお預かりください」
渡された鍵。おじさんは黙って受け取った。一瞬だけ強く握りしめてから、無くさないように大切に喪服の内側の胸ポケットへ入れる。 心臓にもっとも近い位置に高森と繋がる唯一の鍵がある。おじさんの鼓動は鍵を通してきっと高森へ届いている。その音を頼りに、棺の中でたった一人、この世と別れていくのだ。
「本日はお疲れ様です。収骨時間までのお時間は一時間二十分前後かかると思われます。それまで休憩室でお待ちください」
ホテルのロビーではないかと錯覚するような休憩室へ通される。辛気臭さも、嫌な雰囲気もない。豪華さが今起きている出来事を忘れさせてくれる。私がのんびりくつろいでいることと、高森が炉の中で消えていくことが同時進行で起きているなんて思えない。たぶん、それを意識してしまったら普通ではいられない。そのために意味のある豪華で快適な空間なのだ。忘れていなければいけない。
予告されていた時間を少しだけオーバーした頃、職員が現れた。おじさんが預かっていた鍵を渡す。それから五分ほどして、炉前へ通された。準備が整ったのだ。
収骨用の箸が渡され、ここが喉仏です、ここが肋骨ですと説明を聞く。何かしらの病気でなくなった人の骨は病魔に冒されていた部分が青く変色している。でも高森の骨は真っ白だ。どこも病んでいない。あれは不慮の事故だった。そう物語っていた。何の前触れもなく逝ってしまったのだ。
苦しかっただろうか。恐かっただろうか。意識はあったのか。あったとしたら何を思っていただろう。恨んだだろうか。どうして自分がと思ったか。それとももっと違う、たとえば家族への感謝だったり、誰かへの願いだったりしたのか。そうであったならいいなと思う。きっとそうであったに違いないと思いたい。そして、あなたにそう思われた人は幸せだなと羨ましかった。もし、恐がらずにあなたに近寄っていけば、私もあなたの人生にもう少し関われたのか。たとえば、生涯の最後に見るという走馬燈の記憶の中にちゃんと登場できただろうか。
***
家に帰ってきたのは夕方だった。骨壷の中に納まった高森は仏壇の祭壇へ納められた。白い布に包まれた中に、十八年に満たなかった人生が詰め込まれている。
おじさんもおばさんも静かだった。これで終わりではないことを知っている。これから日々感じるのだ。日常のちょっとしたことで、高森の存在がないことを。料理をしたとき、高森の好物をつくって思う。もう食べることがないことを。テレビ放送を「録画しといて」と言っていた声はもうない。傍にあったものが突然なくなることはじんわりと時間が経つごとに異様な重みをもって襲い掛かってくる。
仏壇にお線香を上げさせてもらう。骨箱を見つめて、何を語りかければいいのか思い浮かばない。ただ「さよなら」とだけ言った。
仕事があるからと、兄と私は先に石川へ戻ることになり、午後八時に大阪を出発することになった。発つときおばさんと成海さんが玄関先まで見送りに来てくれた。おばさんは私の手をとった。ぎゅっと強く握られた瞬間におばさんがどれほど高森を想っていたのか伝わってくる。言葉以上のものが。
「来てくれて本当にありがとうね。まことちゃんのこと気にしてたからね、喜んでると思う」
続いた台詞は予期せぬものだった。
「高森は明るいからわかりにくいけどあんまり人を好きじゃないのかもしれないって思うことがあって。けど、まことちゃんには自分から近寄っていってた。いつやったかなぁ『俺とまことが兄妹で、ねーちゃんと豊さんが兄妹の方がしっくりくるよな』って言ってたこともあったんよ。『でもそれやったら結婚できへんか』って言うから、あんたとまことちゃんが? って言ったら、あの子真っ赤な顔をして『なんでやねん、ねーちゃんたちのことに決まってるやろ』って。あんなに動揺した高森を見たの初めてでびっくりした。冗談やんかっていってもいつまでも怒って。こんなんゆーたら、またあの子が激怒しそうやけど」
そんなことを言っていたなんて。私は言葉を失くした。日常の些細な瞬間に私のことを思い出すことがあったのだ。
「きっと喜んでるわ」
力強く言い切るおばさんの声は震えていた。
「私も……高森くんのことを時々思い出していました」
やっとのことでそれだけ絞り出すと、おばさんは小さく「ありがとう」と言った。こんなにも腹の底からその言葉を言われたことはない。おばさんの高森への想いの全てが込められていた。
***
帰りの道は雨が降っていた。昼間はあれほど晴れ渡っていたのに大阪を出たくらいから降り始めた。なんだか名残を惜しんでくれているような気がした。
「じゃあ、しっかり戸締りして、おやすみ」
兄は家の玄関まで送ってくれた。鍵をかけるのを確認してから帰っていった。コツコツと靴の音が廊下から遠ざかっていくのを聞きながら、私は一呼吸する。振り返って、真っ暗な部屋を見つめる。父も母もまだベトナムにいる。一人ぽっちの空間が広がる。リビングへは向かわず、そのまま自室に戻った。自分でも気づかないうちに気を張っていたのか、倒れこむようにしてベッドへ横になった。
帰って来たのだ。また私の日常が始まる。
布団につっぷす。低いうねり声が漏れた。
雨はまだ降っていた。霧雨のような雨音が静まり返った部屋に聞こえてくる。しとやかでどこまでも柔らかい。全てのものを洗い流し、優しい場所へ連れていってくれる。そんな雨だった。
2010/6/4