春待月 Side 央介 ―― 晴天の霹靂
笑えない冗談は世の中に腐るほどある。それでも俺はこれまでこんなに笑えないものを聞いたことがない。そして、今後もけして聞くことはないだろう。
――月子が男と付き合っている。
噂が流れだしたのは一週間前だ。元々噂話に興味はなかったし、誰がどこで何をしようと関係がない。俺にとって重要なのは月子だけだ。もし、月子が目立つタイプで度々噂になるようなら注意して聞いていたかもしれない。だが月子はそんなタイプではない。だからその情報をキャッチするのに遅れが出てしまった。
話を耳にしたのは偶然だった。普段なら早々に帰るがその日は教師に呼ばれて職員室へ向かった。日直当番の雑用だ。終わって教室に鞄を取りに戻ると中で数名の女子が騒いでいた。
「えーでも相葉さんとなんて不釣り合いじゃない?」
「だよねー。地味だし」
――月子?
井戸端会議に花を咲かせている。そして、今、その的になっているのが月子らしいのだが。
「それにしても、水瀬君と付き合えるなんてラッキーよね」
「本当。羨ましい」
――え?
誰と、誰が、付き合っているって? 一瞬理解できなかった。音として認識できるが言葉が意味を示さない。もう一度、自分の中でゆっくりと反芻させる。
「月子が水瀬と付き合っている」
小声でつぶやくと、一挙に強い衝撃がきた。豪速球を腹で受けとめさせられたような鈍い痛みだ。そのまま倒れ込んでしまうんじゃないかと思うほどの重たさだった。
――バカな。
所詮噂だ。そう思おうとした。だが、出来ない。ゴシップネタが頻繁にあがるようなタイプなら不自然じゃない。単なるネタとして、おしゃべりの道具にされるなどよくある。だが、月子は違う。火のないところに煙は立たない。噂の中にも真実が含まれる。これはその数少ない真実である可能性が高い。ここのところ月子の帰りは門限手前になることが多いし。それも噂の信憑性を高めた。
ともかく、詳細を知る必要があった。もしかしたら、同姓同名という可能性だって考えられる。滅多にある名前ではないが、絶対ないとは限らない。そんな淡い期待を胸にクラスメイトの情報通の男に尋ねてみることにした。まだ校内にいるはずだ。どこかで、適当なことを話しているにちがいない。
お目当ての男はすぐに見つかった。二つ隣のクラスでこちらも噂話に夢中になっていた。俺は男に近寄って声をかけた。普段噂なんて見向きもしない、というより噂される側である俺が興味を示したことが意外だったのか、そいつは驚いた顔をした。
「なんだよ、西垣。お前も結構野次馬だな」
噂話なんていい加減なものだ。つまらない。と、以前言ったのを覚えていたのだろう。揶揄るような口調だ。だが、俺はその噂のせいで酷い目に遭ったのだ。それぐらい言っても罰は当たらない。
そう、あれは高一の時だ。春穂さんのと関係が噂になったのだ。――年上の女と付き合っている。正式に付き合っていたわけじゃないが、それはあながち間違いじゃないからいい。むしろ月子の耳に入って、気にしてくれたらいいと期待した。だが、俺の願いとは全く違う方向に話は進んだ。年上の女に貢がせていると言われはじめたのだ。俺も無防備だったと思う。幾度か学校の近くまで春穂さんが迎えに来たことがあった。旦那の所有する真っ赤なスポーツカーを運転して。派手な車だ、目立つ。まして、春穂さんは化粧映えする華やかな人だったから、観た連中が無責任な邪推をする可能性は考えればわかったはずだ。脇が甘かった。嫉妬させようなどくだらないことを願った罰が当たったのだと思った。
それにしたって、女に貢がせているなど不名誉なことだ。たとえ噂でも黙っておけない。訂正しなければ。しかし噂というものは一度流れるととまらない。尾ひれえひれがつき、ついには俺が売りをしているとまで話が広がった。それで最終的に教師にまで呼び出された。幸い理解のある担任で潔白は証明されたが思い出しただけでも苦々しい感情が広がる。
だが、今は、そんなことを言っている場合じゃない。俺はそいつのご機嫌をとりながら、月子に関する噂を詳細に聞きだした。そして、驚いた。やはりその噂に登場するのは紛れもなく「相葉月子」だった。一週間前から流れ出したもので、たびたび二人が一緒にいる姿が目撃されているらしい。
月子の相手――水瀬瑛史。有名な男だ。大変な色男で浮き名が絶えない。とっかえひっかえ遊んでいるがそれでも言い寄る女が後をたたないらしい。なんでそんな男と月子が。――けれど、残念ながら俺の中で明確な回路が出来あがってしまった。月子がいつぞやいったコンパ。あの時に、水瀬が来ていたのだろう。そして土曜日に塀にうなだれるようにして立っていた男。たいそうな男前だった。男の俺が見ても色気を感じるほど。あれが水瀬なのだろう。空耳だと思って聞き流したが、あいつが口にしていたのは月子のことだったのだ。あの日に水瀬が月子に接触した。
法事の席で月子の携帯に着信してきたのも水瀬かもしれない。ただ、あの時、月子は困惑した表情を浮かべていた。喜んでいる風には見えなかった。だとすれば、少なくとも、月子が告白したわけではない。何がどうなって二人が付き合うに至ったのか経緯はわからないが、水瀬の方が月子に惚れている。そっちの可能性が高い。そうであるならば、まだ救われた気持ちになる。それでも、男の告白を受け入れたのなら事態はさほど変わらない。
――なんだってあんな評判のよくない男と、
いや、だからこそまだ奪回のチャンスがあるのか。生真面目で誠実な、それこそ非の打ちどころのない恋人をつくられるよりもましなのか。わからない。どちらにしても不愉快だ。
頭がおかしくなりそうだ。
あまりにも突然すぎる事態に、どう対処すればいいか、まったく思い浮かばない。ここで下手なことをすれば、取り返しのつかないことになる。冷静にならなければ。感情にまかせてはいけない。だが吐き気がとまらない。足元がふらつく。人は感情で死ねるのではないかと思った。おぞましいものが体の中を駆け巡っている。苛立ちと焦りを必死にねじ伏せるが後から後から湧きあがってくる。
そんな俺はかろうじて支えたのは、まだ、本人から直接事実を聞いたわけではないことだ。あくまでもこれは噂。月子と水瀬のツーショットを目撃した人間がいるとはいえ、それがイコール付き合っているとはいえない。二人が連絡をとっているのは事実ではあるだろうが、何か別のことで関わっているだけかもしれない。たとえば、友人として――そんな遊び人の男と友人関係になるとは思いにくいが――なんてこともありえなくはない。とにかく、こうなったら月子に直接確認するのがいい。真実は意外とあっけないものである。そんなことはよくある話だ。俺はまだゼロではない希望を支えに、帰路についた。
2010/2/6
2010/2/16 加筆修正