春待月 Side 央介 ―― 憔悴
心が動かなかった。感情というものが一切波立ったない。
――本気で嫌われた。
あの瞬間に、俺の世界は停止した。色も音も匂いも感触も。何一つとして動かない。静かだった。人には防御反応というのが存在するらしいが、きっとそれが発動しているのだろう。心をとめなければおかしくなってしまう。だから自動制御装置が働いて俺の心を制御した。何も感じない。後悔することも、悲しむことも、嘆くこともなく、月子を傷つけてしまったという事実を額縁に入れて、ただ眺めていた。
それから少しして、徐々に痛みがやってくる。「大キライ」と叫んだ、月子の声が繰り返し流れる。人が本気で人を嫌ったときの声の哀しさ。俺は、あんな声を月子に出させてしまったのだと。叫んでいるのに弱々しく魂が擦り切れるような悲鳴。
満ちてきた感情は混濁しすぎていて言葉では言い表せない。ただ、自分がふがいなく、情けなくて、けれど、泣いてはダメだと思った。この苦しみが泣くことで少しでも和らいでしまうことを許してはならない。それでも、目頭が熱くてたまらなくなる。飽和してしまった気持ちが、喉元まであがってきて、嗚咽としてこぼれてくる。もっと俺は苦しまなければならないのに、押し込めても体の容量には限界があって、解放を求めるように、外側へ出ようとするすべてが憎かった。
「傷つける」ということがどういうことかわからなかった。――傷つけることで、本気で月子が手に入ると思っていた自分があまりにも滑稽だ。月子が傷つくことは自分を痛めつけることだ。どうしてそれがわからなかったのだろう。これくらい大丈夫だと、俺は、どこかで、月子のことを、軽く考えたのだ。大事だといいながら、甘いことを考えた。自分が一瞬でも月子をないがしろにした事実に絶望する。結局俺は自分を選んだのだ。月子がいなければ俺の存在など意味ないのに、最も重要な場面で、優先するものを誤って、取り返しのつかないことをした。俺は自分を殺したのだ。月子を道連れにして。
特別がほしかった。そんなこと望まなければ、普通にしていれば、嫌われずにすんだものを。願ってしまった。それが間違いだ。友だちでもなんでも、どんな形でもよかったのだ。繋がっていられることがすでに幸せだったのに。欲に目がくらんだ。俺一人が地獄に落ちるならばいい。そんなもの勝手だ。だけど関係ない月子を傷つけた。それはもう、どうにもならない事実で。
――どうすればいいのだろう。
記憶は消せない。なかったことにはできないなら。俺の勝手な欲で、まっさらな月子の心に出来てしまった傷を、少しでも癒せる何かがあるのか。あるというなら、なんだってする。だが方法が思いつかない。
――あそこまで傷ついていたなんて。
時は人の心を慰めるという。二年以上前の出来事ならば、時の効力が働いているはずだ。それでも、あんなに悲しんでいたのだ。当時のことを思うとぞっとした。
あの一件以来、極力二人きりになることを避けられていたが、人がいるところでは普通に振舞ってくれていた。無理しているのだろうと思っていたが、俺が考えるよりもずっと無理をさせていた。気づけなかった。月子のことなら、なんでもわかると思っていたが、ちっともわかってなんていなかった。どうして、わかるなど、そんなことを、信じてしまえたのか。
あの日から今日まで、俺の存在が月子を傷つけたに違いない。張本人がこれほど傍にいては忘れたくても忘れられない。どれほど辛かっただろうか。無視され口をきいてもらえなくても仕方ない真似をした。それでも月子は普通に接しようと努力してくれていた。だが、そんな月子を、俺はまた、軽く見てしまった。たいして傷ついていないと、どこかで思っていた。
――嫌われて当然だ。
潮時なのかもしれない。月子にとって俺は、傷つけるだけの存在だ。それならば、傍を離れてしまうのが月子のためだ。それで、月子の傷が癒えるわけじゃない。わかっているが、それ意外に、俺が月子に出来ることが思いつかない。何も出来ない自分の非力さを認めざるを得ない。でも、
――できない。
嫌だ。考えただけでも心臓が破裂しそうだった。嫌われているのに、俺が傍にいると月子は傷つくのに、それでも離れたくないと叫びたかった。だって、俺は、
俺にとって月子は全てだった。
だた愛してるだけならよかった。そしたら月子のために離れてやれたかもしれない。でも、そんな柔らかくて優しいものじゃなくて、もっと残酷で生々しいほどにすべてだった。失ったら、生きていけない。
――神様。
そんなものが存在するのかわからない。でももう祈るぐらいしかできなくて。神でなくてもいい。悪魔でもなんでも。助けて欲しかった。時間を戻してほしい。あの日に返してくれ。そしたら俺は絶対に、月子を傷つけたりしない。二度と自分を優先させたりもしない。誓うから、どうか、どうか。もう一度やりなおさせてほしい。だが、そんな願いが、届くはずもなく。
一睡もできぬまま朝を迎えた。また、一日がはじまる。
授業など受ける気分でも状態でもなかったが、休んでも事態は変わらない。それならば、行った方がいい。それに、俺がここで普段にない行動をすれば、月子が気にするかもしれないと思った。俺のことなどもはや気にすることはないかもしれないが、月子は優しい。万が一、ということがある。昨日俺に言ったことを気にしているかもしれない。だから、俺は、普通にする必要があった。
朝食は食べる気がしなかったので、時間ギリギリまで部屋で過ごし家を出る。
――っ
玄関先に、最も会いたくて、最も会いたくなかった人の姿が見つけた。どうして? いつもは俺が家を出る十分前に出かけるはずだ。なのに、今日に限って何故この時間なんだ。
月子の顔色は悪い。目の下にはうっすらとくまがある。眠れなかったのか。それで、今の時間に……。
おはようと声をかけるべきか。躊躇っていると、向こうも俺に気づいたらしかった。しかし、サッと視線をそらされて、無言で通り過ぎていく。避けられた。明らかに。当然といえばその通りだが――無視されたのは初めてで、途端体に重たい衝撃がきた。これからはこれが日常になるのだ。代償。本来ならば、もっと前にこうなっていたのだ。改めて俺は自分がしたことの罪深さを知った。
2010/2/7
2010/2/16 加筆修正