BACK INDEX NEXT

春待月 Side 央介 ―― 初めての人   


「月子――あなた、自分がイクときそう言ってるけど自覚あるわけ?」
「あるよ」
「まっ、失礼ね。別の女のこと考えながら私を抱くなんて!」
 春穂さんは怒ったように言ったが顔は笑っていた。二十代後半には見えない少女のようなかろやかな笑顔だ。シーツに埋もれるように笑い転げる彼女は幸せそう。だが、現実はそうでもない。
 彼女と関係を持ち始めたのは高校に入学して間もない頃だった。
「君、男前だね。私と遊ばない?」
 酔っぱらって声をかけてきたのが出会いだ。いかれた女だと思ったが、泣きそうに見えて思わず足をとめた。視線が合うと少しだけ笑った。勝気そうな目が印象的だ。左手薬指にはめている指輪はマリッジリングだろう。人妻が退屈しのぎか? 
「旦那さんに相手してもらえば?」
「旦那さんは他に女がいるの」
「へー。それで、当てつけに自分も不倫?」
「そうよ」
 なんてことないようにうなずいた。だが、傷ついているとわかった。どこにも持って行き場のない悲しみを持て余している。不器用さが似ていた。月子に。もうずっと、あの日以来、月子は俺を見ると悲しそうだった。それを悟らせぬように平気なふりをしている。優しくしてやりたいと思う。でも、まだダメだ。何故悲しいのか理解するまで距離を保たなければ、何のためにあんなつまらない芝居をして傷つけたのかわからない。罪悪感と、月子の意識を独占することへの甘美さの狭間で、バランスを欠かないように注意深く過ごす。そんな日々が神経は蝕んでいく。
「好きでもない奴に抱かれてもむなしいだけじゃない?」
「あら、意外。ロマンチストなのね。高校生なんてやりたい盛りじゃないの? あなたひょっとして童貞?」
 初対面でいきなり失礼な女だなと思った。だが嫌な感じはしない。彼女には妙な可憐さがあった。
「なんだったら私が教えてあげてもいいわよ? 君みたいな男の子の最初の相手になるなんて光栄だわ」
「その発言がおばさんっぽいよ」
 面白いと思った。そして興味があった。据え膳食わぬはなんとやらだ。好奇心がまさり、彼女に求められるままに抱いた。人肌に触れている間は、重ぐるしい感情を忘れられた。現実味のない空間で快楽に溺れているとき、俺の心は穏やかだった。それから、俺は、春穂さんとの関係を続けた。
 何度か会ううちに、彼女の置かれている立場を知る。彼女――仙道春穂は二年前に結婚した。旦那さんは大手商社に勤めるエリートだ。大学時代から好きで、他に女がいることを承知で付き合っていた。そんなある日、妊娠が発覚した。堕胎しろと言われると思っていたが「結婚しよう」とプロポーズされ、すぐに籍を入れた。夢のように幸せだった。けれど、流産してしまった。彼は春穂さんを責めた。それから家にもあまり帰ってこなくなった。たまに戻ってきても、女性物の香水の匂いがする。
「彼は私から離婚を言い出すのを待っているんだと思う……。でも、どうしても言えない」
 流産して最も苦しんでいるのは他でもない春穂さんだ。それを慰めることもせず責め立てる男をまだ好きだと。笑っちゃうでしょうと。何も言えなかった。いつだって、人を好きになるということは理不尽なものだ。強い衝動に飲みこまれて壊れてしまわないように、自分を保つため、彼女もまた、誰かに慰めを求めていた。
 打算的な関係。世間ではそういわれるだろう。でも、この時、少なくとも俺にとって春穂さんの存在が救いだった。
 だがいつまでもこんな関係が続くわけがない。終止符が打たれることになった。離婚して、田舎に帰ることに決めたそうだ。だから、これで会うのは終わり。
「……なんで俺に声かけたの?」
 無粋だとは思ったが、聞いてみたくなって口にした。
「あなたは私と同じ匂いがしたの。好きな人に振り向いてもらえない。違う?」
「どうかな」
「ふふ。それにね」
「それに?」
「――少しだけ、私の旦那様に似てるの」
 ああ、今もまだ旦那のことが好きなのだ。好きだけど離れなければならない。そんな選択をした彼女は立派だと思う。だけど俺は……。感情が絡み過ぎてどうにもならなくなった月子への気持ちを捨ててしまえたらどれだけ楽だろう。そんなことも考えた。月子への気持ちを失えば、昔のように戻れるのか。また無邪気に俺に笑ってくれるようになるだろうか。――でも、もう、後になど引き返せない。何より、どんなに苦しくても、月子をほしいと思う気持ちが消えるなんてありえない。楽になりたいわけじゃない。月子が手に入るなら、地獄の業火に焼かれてもかまわない。
「央介。いい男になりなさいよ」
 春穂さんはふわっと触れるだけのキスをくれた。会っている間一度も唇を合わせることはなかった。最初で、そして最後のサヨナラのキスだった。



2009/10/27
2010/2/15 加筆修正

BACK INDEX NEXT

Designed by TENKIYA