春待月 Side 央介 ―― くちづけ未遂
高校二年に進級しクラス替えが行われた。三組の扉をくぐるとすぐに月子の姿があった。出席番号順で席に着く。相葉だから番号は一番だ。だから前の扉に最も近い席に座っていた。その姿を見たら冗談抜きで泣きそうになった。一年は組が離れてしまったから余計だ。あの時は本気でへこんだ。しかも、何の嫌がらせか端と端。一組と九組だったのだ。おかげで校舎の棟が違うから学校にいてもほとんど会えない。月子の姿を見ない日があるなんて中学までは考えられなかった。しかし去年は三十七回もあった。ありえない。本当にありえない。一年間やきもきして過ごした。でも、今年は違う。教室へいけば月子がいる。年初めに柄にもなく願掛けに行ってよかった。その甲斐があった。
だが、同じクラスというのはいいことばかりじゃない。見たくない光景にもお目にかかる。他の男がなれなれしく話しかけるのだ。俺が我慢しているというのに、なんだお前ら! と幾度怒鳴そうになったかわからない。たまらなく腹立たしかった。それだけではない。何かおかしなことがあれば、嫌でも目についてしまう。だから心臓に悪い。
この日もそうだった。
月子が、普段ほとんど一緒にいるところを見ないクラスメイトと帰宅していた。嫌な予感がした。彼女らが「コンパ好き」で有名だったからだ。まさか月子もコンパに? いや、それはないか。そういうタイプではない。だが、どうにも胸騒ぎがして、癪だったが新藤琴にメールした。
『ホントよく見てるわね。呆れるわ? まぁ、その健気さに免じて教えてあげるけど、ご推察どおり月子は伊東さんたちとコンパに行きましたー。ご愁傷様。ちゃお♪』
何が「ちゃお♪」だあの女。いや、今はそれよりコンパだ。
おそらく引き立て役をさせるつもりで誘ったのだろう。そもそも高校生でコンパなんてやることが目的の男だ。女っぽい見るからに男を欲しがってそうな女がモテる。月子みたいな真面目で子どもっぽいのが混ざっていれば、他の女が際立つ。そういう魂胆なのだろう。月子もそれがわからないはずないだろうに、なんだって出向いたのだ? 万が一にでも襲われるようなことがあったらどうする。あんな軽そうな女の中にいたら、見かけは真面目そうでも実は遊んでると思われる可能性だってある。もしそう思われて……考えただけでもぞっとする。とにかく、無事に帰ってくるのを待つしかない。
月子の部屋には、必ずリビングを通らなければならない。帰ってきた姿を確認するまでは落ち着かない。リビングで待つことにした。いつもなら姐さん(つまり月子の母親)と若い衆が食事の支度をしているが、本日は月一の定例会で出払っていてガランとしていた。月子もそれがわかっているから出かけたのだろう。娘には厳しく保守的な家だ。門限も七時と決められている。月子は文句を言ってはいたが、実際に破ったことはない。そもそも出歩くのが好きなタイプじゃなかったし。だから俺も安心していたのだ。
――七時四分。
まだか。いつも時間厳守な人間がそれを破ると妙に意味深く感じてしまう。苛立ちがとまらなかった。それから更に三分経過して聞きなれた足音が近づいてきた。
「遅かったな」
姿を確認すると同時に告げた。母屋には食事以外ではほとんど顔を出さない。まして、食べ終わるとすぐに部屋に戻る俺が座っていることに面食らったようだ。
「どこに行ってたんだ?」
俺の問いには答えずにテーブルに置かれた空き缶に視線を移した。待っている間にあけたビールだ。じっとしていられなかったので気を紛らわせるために口にした。
「酔ってるの?」
「缶ビール二、三本じゃ酔わないよ」
「甘酒一口で酔っぱらってたのに?」
あれは小学校にあがりたての頃だった。ひな祭りに振舞われた甘酒で顔を真っ赤にしてみんなに笑われた。懐かしい。些細なことを覚えていてくれたことが嬉しい。
「昔の話だろ。それより、どこへ行ってたんだ?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
不思議そうな顔。どうしてって、どうしてもこうしてもあるか。
「コンパだったんだろ?」
「――な、なんで知ってんの」
「秘密」
なぜそこで赤くなる。その顔がまた可愛いのだが、話の内容が内容なだけに面白くない。
「それより、いい男は捕まえられたのかよ?」
「関係ないでしょ」
大ありだバカ者。だが、口調からするに何もなかったらしい。長い付き合いだ、それぐらいわかる。もし何かあったなら隠してもわかる。
「そうか、いなかったか。残念だったな」
月子は否定も肯定もしなかった。
夕飯がまだだったらしく、作り置きされていた南京の煮物と焼き魚をテーブルに並べ、お釜からご飯をよそって置く。
「食べる?」
「いらない」
食事などする気分にはなれない。何もなかったと知っても、俺以外の男と会っていたと思うだけで腸が煮えくりかえって胃液があがってきそうだ。今、食べ物など食べたら戻すと思う。
「そう」
今度は炊事場に立ち、味噌汁を火にかけた。
「お味噌汁は? 酔いさましにいいよ」
「……じゃあ、もらおうかな」
身体の心配をしてくれている――頬がヤニさがりそうだった。月子が温めなおしてくれ味噌汁なら飲める。現金だと思いながら頂くことにする。
コンロの前に立つ月子の横に並び、肩まで伸ばしたしなやかな黒髪に触れた。こうしてあからさまな態度に出ても警戒心の欠片もみせない。それは俺だからなのか。心を許しているともとれるが、男として意識されてないともいえるから複雑だ。
「でもさ、興味はあるだろ?」
「何が?」
月子の中ではコンパの話を終わったものとされているのか。きょっとんとした顔でこちらを向く。
考えると、こうして月子と二人で話すのは久しぶりだ。あの一見以来、二人きりになることを避けられていた。意識されてるからこその態度だろうと我慢していたが、いい加減限界だ。傍にいるのに触れることはおろか話すことも出来ないといろいろ溜まる。いろいろと。
「俺が教えてやろうか? うまいぜ、わりと」
まだ不可解な顔をしていたが、構わずそのまま顔を寄せるとようやく意味を解したらしい。あと数ミリで唇に触れそうなところで抵抗してきた。どうせならもう少し硬直しててくれればいいものを。
「ちょっ、何? 酔ってるでしょ……」
両腕で胸を押し返されるが、さほど力はこめられていない。強引に奪ってしまうことも可能だが、
「酔ってなかったらいいのか?」
一瞬で真っ赤になった。まんざらでもない。嫌っているならこんな態度はとらないだろう。なにのどうして自覚しないのかわからない。どうすればもっとちゃんと意識してくれる? もう一度、唇を寄せようと試みる――が、
「いいわけないでしょ! もう! 女なら誰でもいいの? 信じられない」
言うやいなや、物凄く睨んで去っていく。可愛いすぎる反応に自然と顔がニヤついてしまう。この程度でそんなに赤くなることもないだろう。他の女ならカマトトぶるなと揶揄っていたかもしれない。だが、月子に関しては別だ。初々しい反応に安堵する。この手の話に免疫がない証拠だ。だが一つ、大きな誤解があった。誰でもいいわけじゃない。月子がいいのだ。その辺を理解するにはまだ早そうだが。まぁ、じっくり時間をかけていけばいい。そう、思っていたのだ。あの男が現れるまで――。
2009/11/9
2010/2/16 加筆修正