春待月 Side 月子 ―― 悪魔の笑顔
修羅場を生で見たのは初めてだった。
日曜日の夕方。琴との買い物帰り。駅で別れて、帰宅途中。近所にある大きな公園の傍を通ると、女の人の金切り声が聞こえてきた。知らないふりをして通り過ぎようと思ったが、トラブルに巻き込まれているのなら――たとえば暴漢に襲われているとか――見ないふりは出来ない。居合わせたのなら助ける義務がある。乗り気はしなかったが、声の方へ歩みを進めた。
緑の巨大なジャングルジムの前で、男女が揉めている。他に人はいない。どうも、女の方が一方的に責め立てているらしい。私が想像した最悪の状況ではないと知り、ほっと息をつく。単なる痴話げんか。犬も食わない。だから私には関係がない。
――それにしても、女の激昂に比べて、男は冷めているなぁ。
聞こえてくる返答は飄々としたもので、二人の間にある温度差が否応なく感じられる。それが女の感情をさらに逆なでしている。この状態でふてぶてしい態度をとるなんてこの男どんな神経してるん……あっ。よく見ると男には覚えがある。後ろ姿だけど、たぶん間違いない。――水瀬瑛史だ。 うわぁ、と心の声が聞こえたのか、私の視線に気づいたのか、女の方が私を見た。人がいるとは思っていなかったのだろう。我に返ったように目を見開いて頬を引きつらせた。女の異変に気づいて、水瀬もこちらを振り返る。
――っ。
総毛立つとはこのことだろう。水瀬は私を確認した瞬間、悪魔のような甘美な笑顔を浮かべたのだ。私は鳥肌が立った。まずいまずいまずいまずいまずい……一歩後ずさる。逃げなければならない。ゆっくりと間合いを遠ざけて逃げ出す。チャンスは一度しかない。敵から視線をはずし逃げるのだ。もし失敗すれば背後から捉えられる。いつぞや見たライオンの狩りのシーンが鮮明に脳裏に過ぎる。この、都会の、ど真ん中で。
いち……、に……、さん。
走った。
ひたすら、走って……。
きっと、神様は、この瞬間、居眠りをしていたに違いない。
「その女、誰?」
私は巨大ジャングルジムの前で、先ほどの女に睨まれていた。年上……大学生ぐらいだろうか。露骨に不機嫌そうな顔をして眉をひそめているが美人だ。派手だけど。そしてわがままそう。普通ににこやかにしていればまた違った印象になるかもしれないけど。
これから起きることを思うと胃が痛くなった。怖い。そうでなくても女は相当に怒っている。というかキレている。今にも飛びかかってこられそうだ。冷静さを欠いた人間の狂気めいた眼差し。話し合いなど出来そうにない。
「俺の新しい女」
――やっぱりか。
私はチラリと女をみた。血管が切れそうだ。
「冗談でしょ」
女は素っ頓狂な声をあげた。
「嘘じゃねぇよ。だからお前とは終わりな。そういうことだから。じゃ」
水瀬は流れるような動作で私の肩に腕を回し女に背を向けて歩き出した。女は当然に「待ちなさいよ」と叫んだが水瀬は無視だ。公園を出て二十メートルほど進んだ交差点で私の肩を解放した。お役御免らしい。早いとこ帰ろう。うかうかしてたらさっきの女が追いかけてこないとも限らない。
「じゃあ、私も帰るから。さよなら」
背を向けようとしたが、
「おい、なんだそりゃ。なんか他に言うことあるだろ?」
「何が?」
「はぁ? 普通聞くだろ? なんで? とか、どういうことだ? とか。疑問はねぇのか」
自分でも突飛な行動をしてしまったと自覚があるのか。それにしても態度が横柄というか。やっぱりこの男は苦手だ。
「あなたが私を見つけて人の悪そうな笑み浮かべた瞬間、ろくでもないことに巻き込まれる予感はしたから」
「わかってたってのか?」
「大方はね。バカらしいと思ったけど、抵抗しても話が長引くだけだし黙ってた。彼女には申し訳ないことをしたと思うけど」
でも、仮に否定したとしても女は信じなかったと思う。目の血走り方が尋常じゃなかったから。私がいくら違うと言っても、水瀬が横からもっともらしいことを言うに決まってる。そしたら余計に逆上して、怒りの矛先が私にむけられる。そんな面倒なこと御免だった。選択に多少の後ろめたさはあったが仕方ない。もし、女が真偽を確かめに来たなら、その時真実を話せばいい。水瀬がいないときに。それが潔白を証明する最良の状況だ。
「なんだ、つまらないな。もっと動揺してキャーキャーいうかと思ったのに」
水瀬はまた悪い笑みを浮かべている。あの状況でも私の反応を楽しもうとしていたのか。本当にロクな男じゃない。
「そのうち刺されると思うけど、同情はしない」
水瀬は豪快に笑い出した。
「気に入った。お前、本当に俺と付き合え」
これは「告白」のカウントには入らないだろう。今まで男の子に告白されたことはない。もしこれがカウントに入るなら、初告白になる。それがこれではあまりに悲しすぎる。ムードもないし。何より、到底本気とは思えない。面白がられているだけで、好かれているわけじゃない。最悪だ。
「冗談でしょ。人のこと地味だとかいった男と、なんで付き合わなくちゃいけないの?」
「地味だけど、不細工じゃない。それに俺、ルックスにはこだわらない主義なんだ」
「あなたがこだわらなくても、私にも選ぶ権利がある」
私はまだ笑い転げる水瀬を置き去りにして帰ることにした。
「俺は決めたからな」
背後から聞こえたが無視した。気まぐれだろう。明日になれば忘れている。そう思った。
2010/1/20
2010/2/16 加筆修正