春待月 Side 央介 ―― ニアミス
母が亡くなったのは秋晴れの静かな午後だった。
もともと家族との縁が薄い人で、中学を卒業してすぐ一人暮らしを始めた。世間知らずの若い女が一人で生きていくには世の中は甘くない。相当な辛酸を味わったそうだ。そして、親父と出逢い結婚し俺を産んでくれた。ようやく手に入れた家族。だが、それも世間では受け入れられなかった。正式な妻であるのに、「ヤクザの情婦」と噂され後ろ指を差された。
俺は親父を憎んだ。親父のせいで母が辛い目に遭っているのだと単純に思い込み糾弾した。親父はそれに対してただ黙って聞いていた。いい訳することもなければ、怒ることもしない。ただ黙って俺の怒りを受け止めていた。その目が悲しくて、俺は次第に言葉を失った。
「央介、お前もいつかわかるよ」
親父が言った。
それからまもなくして、母は癌に冒され、三十一歳の若さでこの世を去った。きっと世間からみれば、母の人生は不幸と形容されるのだろう。寂しい女が選んだ相手はヤクザ者で、あまつ病魔に冒され年若く死んだなんて。俺もそう思った。思っていただろう。通夜であの光景を見るまでは。――父が静かに棺に寄り添う姿。それはどこか尊くて。傍に近寄れなかった。たぶんあそこにいた全員が思っただろう。邪魔をしてはいけない。二人の間には他人が立ち入れない特別なものが存在した。たとえ血を分けた子どもでも。だから俺は、傍に寄ることも出来ずに、入り口からそっと二人を眺めていた。
――母は幸せだったのか。
初めてそう思った。ずっと否定してきたが。あんな風に人に嫌われて蔑まれて幸せなわけないと思ってきた。でも、そうじゃないのか。母は無理をして親父と一緒にいたわけじゃなく、親父と共に生きることを選んだ。強制されたわけじゃなく。それは幸せだったからなのか。
親父は誉められた仕事をしているわけではないが、母のことは愛していた。不器用で無骨な人だったが、愛していた。たとえ自分のことで母が辛い思いをしても、それ以上に一緒にいたいと願った。そして、それを母は理解していた。そう納得するのに充分な光景だった。人に誉められることと、幸せは違う次元のことなのだ。何故俺は認めなかったのか。母は親父の傍に居ると満たされた顔をしていたし、親父もまた穏やかな表情をしていたこと。
「大丈夫だよ?」
いつからそこにいたのか。俺の手をとり強く握り締める――月子だった。
「泣かないで?」
言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。たぶん俺は寂しかったんだと思う。置いてけぼりにされたようで。両親にとって俺は愛すべき子どもだろう。だが、絶対的な存在として互いを認め合っている二人の間には入っていけない。死しても揺らぐこともない強固なもの。立ち入れない。それを何と表現すればいいのかわからなかった。ただ、羨ましくて、寂しかった。
「大丈夫。私がずっと一緒にいるから」
――ずっと傍にいてくれるのか?
何があっても、誰に何を言われても、俺の傍にいてくれる? 一人ではないと。俺を選んで必要としてくれるのか。親父にとっての母のように。確かなものになってくれるのか。握られた手を強く握り返す。すると月子はもっと強く俺の手を握り返してくれた。心底ほっとした。絶対に離したくない。そう、想った。
あれから十二年――。
今日は母の十三回忌の法事だ。命日には毎年法事が行われるので、一年に一度必ず思い出す記憶。妙に感傷的な気分になりながら帰路につく。土曜日で比較的早く授業が終わった。お寺の住職がくるのが四時だ。幾分時間に余裕はあったが、早く帰って手伝いをしたかった。母のことをするチャンスはもうこういう日しかないのだから。
学校の門を出ると緑の制服をきた男がダルそうに塀に持たれていた。普通の男ならだらしなく感じるだろうが、その男は様になっていた。背が高く、華もある。色男というに相応しい。制服から聖上高校のものだろう。有名な進学校だ。中学の教師に受験を進められた。ここに通っているというだけで一つのステータスになる。君の実力なら大丈夫だ。是非受けるように。何度も説得されたが俺は拒否した。それよりも月子と同じ学校に通う方がずっと価値がある。
うちの学校から男の高校までわりと距離があるはずだ。この時間にここにいるということは授業をサボったということだろう。そんなことまでして、うちの学校に何の用なのか。まぁ、俺には関係ないが。
男はずっと携帯をかけ続けている。その前を通り過ぎようとしたとき、
「なんで出ないんだ。相葉月子」
――月子?
そう聞こえた気がして足をとめた。男もそれに気づいて俺の方を向く。正面から見るとますます色男だった。髪は薄茶色で、色は白いが軟弱な感じはしない。人を食ったような不遜な目が印象的だ。好きになれそうにないタイプだな。直感的にそう思った。
「何か?」
男は苛立ちを隠そうともせず告げた。
「あ、いや……突然声がしたので驚いただけです。失礼」
たぶん空耳だろう。月子とこの男に接点があるはずがない。知り合うきっかけなどないだろう。聞き間違いと決めて先を急いだ。
四時前になって広間に人が集まってくる。組の人間でも特に内輪の者だけ、ざっと十五人ぐらいだろうか。
最前列に若頭と親父と俺が、後ろに姐さんと月子、更に後ろに組の人間……と続くのだが月子の姿がない。おかしい。学校はとっくに終わっている。今日が法事であることも知っているはずだ。毎年、必ず出席するし、月子がすっぽかすなんて考えにくい。……何かあったのか。
いよいよはじまるとなってようやく顔を見せた。急いで戻ったらしい。息があがっている。目ざとく見つけた姐さんが小声で叱り、隣りに座らせた。
「ごめんなさい……帰りがけにちょっといろいろあって」
「リボンが乱れてるからちゃんとなおしなさい」
そんなやり取りを背中越しに聞きながら、「いろいろ」というのが気になった。帰りがけに会った男が浮かんだから。聞き間違いと思ってやりすごしたが本当に月子のことを言っていたのだろうか。確証のないことを考えていると、お経が唱えられはじめた。しばらくして、お焼香がまわってくる。同じくして、ウィーンウィーンと震動音が響く。バイブ設定にしている携帯だ。
「月子……切っときなさい」
小声で注意する声。
お焼香一式を渡すために振り向きながら、さりげなく月子を見る。携帯を取り出して表示画面で相手を確認しているところだった。その表情には困惑の色が浮かんでいる。
「月子」
もう一度注意されて我に返ったのか慌てて電源を切った。
――誰だ?
気になったものの聞ける状況ではなく俺は正面を向き直った。
2010/1/31
2010/2/16 加筆修正