7 逆鱗
早々に屋敷を出て帰路についた。目的は達成したのだ。何か問題が起きる前に退散。だからダンスは踊らなかった。ガッカリだ。カヤはダンスが上手だから踊るのを毎回楽しみにしていたのになしだなんて。つまらない。面白くない。
「今日の食事はいつも以上に腕によりをかけて作るから期待してて」
カヤは俺の少し前を歩きながら言った。夜会の後、お礼の食事。それが恒例だ。本日もちゃんと用意をしてくれているのだ、と。俺の為に作ってくれる食事は楽しみだ。だが今日に限ってはどういうわけかちっとも楽しみだと思えない。
黙ったままの俺を変に思ったのか、カヤは振り返った。
「ロキ……どうしたのよ? さっきから黙っちゃって」
モヤモヤする。カヤのあの眼差し。その理由が何なのか。確かめないといけない。だから、
「……カヤは、あの男が好きなのか?」
「え?」
「ライリーって男が好きなのか?」
カヤの顔色が一変した。今まで、どんなことがあっても動じなかったのに。それが事実を雄弁に物語っている。だがカヤはすぐに我に返って繕うように言った。
「ええ、好きよ。だって妹の大事な旦那様ですもの。姉として大切に思っているわ」
「違う。嘘をつくな。妹の旦那としてではなくて、恋愛対象として好きなんだろう? 誤魔化すな」
周囲は静まり返っている。夜の暗闇は寒さを引き立たせる。ひんやりとした空気が頬を撫でるが、反して俺の体温はあがっていった。
「……どうしてそんなことを聞くの?」
街灯の頼りない光に映し出されるカヤの顔。おそろしく静かな眼差しをしていた。
「妹の相手に横恋慕なんて浅ましいな」
「そんなんじゃないわよ」
「じゃあなんなんだ。好きなんだろ。あの男が。正直に言えばいいじゃないか」
もう一度、カヤがそうじゃないと言えば、俺はそれを信じようと思った。否定してほしかった。でも、
「そうね。私は彼を好きだったわ」
「――っ」
「憧れね。彼は私にも優しかったから。もちろんそれは恋人の姉に対する礼儀としてだってわかってたわ。でも、男の人に優しくされたのは初めてで嬉しかったの。バカみたいよね。叶わない恋よ。でも、私には大切な思い出なの。これで満足した?」
なんだそれ。優しくされただけで好きになるのか。じゃあ、その男じゃなくて他の男でもいいんじゃないか。その程度のことで好きだなんて。なんだそれ。つまらない。くだらない。それを大切な思い出なんて言うな。モヤモヤした思いはやがてイライラしたものへ変わっていく。
「あんな男のどこが優しいんだ。あいつも俺のことバカにしてたじゃないか」
「別にバカになんてされてないでしょう」
「どうして庇うんだ。してたじゃないか。俺の姿を見てバカにしてた。俺はバカにされてた!」
「されてない。他の人はどうかわからないけど、彼は外見で人を判断するような真似はしないわ」
「嘘だ」
「嘘じゃないわよ」
「嘘だね。あんな奴の肩もっちゃって。なんなんだよ。むかつく」
「別に肩なんてもってないわ。そんな人じゃないからそう言ってるだけよ」
「信用してるってわけか? 俺がバカにされたって言ってるのに、俺の言うことよりあいつのことを信じるわけ?」
「……信じるとか信じないって話じゃないでしょう?」
「……」
カヤは大きくため息をついた。
「一体どうしたっていうの? 何をそんなに怒っているの?」
「怒ってなんかない」
「怒っているじゃない」
怒っているわけじゃない。ただ悔しいと思った。そうだ、俺は悔しかったんだ。
「……俺は、もっとカッコイイ姿でいけばよかった」
「なぜ?」
「なぜ? カヤだってその方がいいだろう。こんな醜い姿――バカにされる」
喉が熱かった。そうだ、いつもの姿で行っていればよかった。そしたらあんな男にバカにされることもなかった。カヤだって俺のことをもっと認めてくれたに違いない。今日も、ダンスを踊ってくれたはずだ。結局カヤだって見てくれが悪いのが嫌なんだ。
「だから、別にバカにされてなかったって言ってるじゃない。それに、仮にそうであっても別にいいじゃない。いつものことでしょう? なのにどうして今日に限ってそんなにムキになるの? おかしいわ」
「ムキになっているのはカヤの方だろ。いつもなら、笑って聞き流すじゃないか。なのに、今日はあいつのこと庇って……なんなんだよ。むかつく。あー嫌だ。もう嫌だ! 人間にバカにされるなんて絶対絶対、二度とごめんだ! こんな醜い姿になんてなるんじゃなかった!!」
カヤはひどく悲しげな顔をした。そして言った。
「……だったら、もうその姿をやめればいい。ちょうど今日で契約も終了だし。本来の姿に戻って、美しい人と一緒にすごせばいいじゃない? そしたら誰にもバカになんてされないわ」
まるで投げやりに言った。呆れた、そんな態度で。だから俺はカッとなった。
「なんだよ、それ。他の女のところへ行けって? 俺はもう用なしだからいらないって? さっき俺を必要としてると言ったじゃないか。俺といると楽しいって。あれは嘘か。この嘘つき女」
「別に嘘じゃ……まさか、悪魔に嘘つきと責められるとは思わなかった。何がそんなに気に入らないのかわからないけど、とにかくすべて終わったわ。あなたにはとても感謝している。二週間ありがとう。それじゃ、さよなら、私の恋人さん」
別れの挨拶を告げて去って行く。けして振り返ることもなく。もはやなんの関係もないといわんばかりの冷たさだ。今まで突き放すようなことを言われたことがない。なのに今日は違う。もういいから? 契約は無事終わったから? これまでは途中で投げ出されては困るからご機嫌をとっていただけなのか? 俺のことなんて本当はどうだっていいのか?
俺はしばらくそこを動けずにいた。どれだけいただろうか。もしかしたらカヤが戻ってきてくれるかもしれないと思った。でも、いつまでたっても姿が見えない。本当に一人で帰ってしまったのだ。
「カヤのバカ……」
置いていくなんて。あんまりだ。悪魔を利用するなんて、なんて女だ。あんな性悪女見たことない。外見だけじゃなくて性格まで悪いなんて最悪じゃないか。騙された。酷い目にあった。もう知らん。知らん知らん――っ。
そして、気づけば俺は、カヤの家の前にいた。
違う。別に気にしているわけじゃない。カヤなんてどうでもよかったけど、家に送り届けるまでがエスコートだ。だからちゃんと家に帰っているか確認しにきただけだ。酷い女でも、俺は約束を果たす。それだけだ。……誰に言っているのだろうか。なんだかいい訳みたいだと思う。いい訳なんてする必要ないのに。おかしい。そわそわする。気持ちがむずがゆい。
家には火が灯っていた。中にいるらしい。煙突から煙が出ている。食事の用意をしているのだろう。カヤは夜会から戻った後は食べない。俺だけが食べる。ということは、今、用意してくれているのは……。食べてやってもいい。捨てるのはもったいないし。それに俺はちゃんと約束を全うしたのだから、対価を支払ってもらってもいいはずだ。
だが、どんな顔をして会えばいいのだ。また呆れたようにため息をつかれたらどうする? そんなの嫌だ。でも、じゃあ、どうしたら歓迎されるのだろう。にこやかに出迎えてくれる? 考えた。考えて考えて、
――ああ、そうだ。
それは実に名案だった。これならば間違いなくカヤは受け入れてくれるはずだ。準備を整えて、ドアをノックする。
「はい?」
「俺だ」
「……」
ドアを開けてくれるまで、いつも以上に時間がかかっている気がする。あまりに長いので開けてくれないのかと不安になる。悪魔を不安にさせるなんてやはりカヤは性悪だ。考えられない。
「ちょっとは頭を冷やして……」
言いながら、扉を開けたカヤは俺を見て一瞬凍りついた。そして、
「一体どういうつもり?」
とてもとても怖い顔をした。
「どうしたんだ? そんな顔をして」
「どうしたですって? あなたこそどういうつもり。どうしてライリーさんの姿をしているの?」
「どうしてって、だってこの姿で来れば――」
「この姿でくれば?」
なんだ、俺はなんと言おうとした?
「私の気持ちを知って、それでライリーさんの姿をして私をからかうつもりだったのね? お生憎様。前にも言ったけど、耳はいいの。あなたがどんな姿に化けても声は変わらないからわかるわ。反省してきたのかと思ったら――っ」
カヤはまくしたてた。見たこともない剣幕だ。俺が口を挟む隙もない。目には涙も浮かんでいる。俺はその姿に息がままらないほどの衝撃を覚えた。誤解だ。違う。からかうつもりじゃない。そう言わなければならないのに言葉が一つも出てこない。
「最低よ。見損なったわ。顔も見たくない。もう二度とこないで」
そういってピシャリと扉を閉められた。完全な拒絶だ。俺は頭がくらくらした。どうしてだ。なんでこんなにことなっているのだ。わけがわからない。理解できない。俺は何も悪いことなどしていない。どうしてそんな怒られなくちゃいけないのだ。ただ呆然とするしかなかった。
2010/2/28