8 恋というもの
カヤに追い返されてから一週間が経過した。家にいても気分が晴れない。ボナシュに行くことにした。美しいカクテルを作ってもらおう。そうすれば心が和むかもしれない。
「おーロキ、久しぶりじゃないか。どうした、なんか調子悪そうだな?」
着くと常連客のコルーナが近寄って来た。
「食あたりか?」
「よしてくれ。お前じゃないんだ」
「そうか」
言って、クククっと喉の奥で笑った。大食漢のコルーナは腐った物まで食べてよく腹を壊す。幾度も繰り返すので呆れるが、食べ物が目の前にあるとどうもとめられないのだそうだ。
「それで、どうしたんだよ。話してみろよ。貯め込んでるのはよくないぜ?」
「……それが、自分でもわからないんだ」
「わからない? なんじゃそりゃ。心当たりぐらいあるだろ?」
「心当たり……」
思いつくのはカヤのことだ。それ以外はない。恥をかかせて傷つけてやる。俺の目的だ。達成された。カヤは泣いていた。「二度とくるな」と叫んだ。見損なった、と。最低だ、と。悪魔にとって賛辞だ。酷いことをしたということだ。だから気にすることはない。自慢するべきだ。だけど……。
「なんか胸がモヤモヤする」
「胸が? それはやっぱり食あたりなんじゃないか?」
「だから違うって」
もういいから行けよ。とコルーナを追い払う。相手をしている余裕はない。コルーナは「景気づけにうまいものが食いたくなったら言え。いい店を紹介する」とだけ言って去って行った。頭の中は食べることだけだ。平和で結構。
一人になって、俺はまたぼんやりとカヤのことを考えていた。するといつのまにかマスターが前に立っていた。「何か作りましょうか?」と言われたのでギムレットをお願いする。そういえばカヤに初めて会った日、ここでギムレットを呑んで行った。
「その後どうですか? 例のゲーム」
淡緑色のカクテルが出てくる。いつもは美しくて心躍るが今日はなんだか胸が高鳴らなかった。
「結論からいえば、俺の勝ちだ。相手はすごい剣幕で俺を罵ってきた」
「そうですか。それはおめでとうございます」
「……」
「どうしたんですか? 嬉しそうじゃないですね?」
「わからないんだ」
「わからない?」
「どうしてあんなに怒ったのか、わからない」
おそらく俺がひっかかっているのはその部分だ。
「ロキさんがが怒らせるように仕向けたのではないんですか?」
「違う」
傷つけようと狙っていたのならほくそ笑んでいた。だが、俺はカヤを傷つけようとしたわけじゃない。
「俺はただ、あいつが好きだという男の姿をして行っただけだ」
そう。カヤが好きだという男の姿に化けて会いに行った。
「そしたら、からかうつもりかって怒って…。俺はからかうつもりじゃなかった。勝手に傷ついたんだ。それで『二度と来るな』って言われた。あんまりじゃないか」
「からかうつもりじゃないなら、どうしてその男の姿に化けたのですか?」
どうして? だって、
「だって、喜ぶと思って」
そうだろう。カヤはあの男が好きだから、その姿で行けば喜ぶ…… って、え?
「――俺は何を言ってるんだ? 悪魔が人を喜ばす?」
いったいどうしちまったんだ? それは何かの冗談か? 言ってしまった言葉にうろたえる。ありえない。だがあの時、俺はそう思っていたのは事実で……。
「なるほど」
俺の動揺とは逆に、マスターの穏やかな声が聞こえる。
「あなたは彼女を好きなのですね。その姿でいけば、喜んでくれると――彼女が自分を愛してくれると思ったのですね」
奇妙なことを言うなと思った。好きだとか、愛してくれるとか。だがマスターは全てを理解したように言葉を続けた。
「ロキさんは彼女に恋をしてるんですよ」
「恋? ……いや、違う。恋なら今までたくさんした。だがこんな気持ちになったことはない。恋とはもっと気持ちがいいものだろう。うきうきと楽しい。俺は人間の女と何度も恋をしたから知っている」
「恋とは楽しいだけのものではありません。時に心を憂鬱にさせる。切なくなったり、悲しくなったり、相手のことを考えると夜も眠れない」
切なくなったり、悲しくなったり、夜も眠れない? ああ、そうだ。俺はここのところずっと寝不足だ。目を閉じるとカヤの泣いた顔が浮かんできてドキドキして眠れなかった。
「あなたは今まで芸術品を楽しんでいただけです。女性達に美しさ以外を期待しなかった。観賞できれば満足だった。でも今回は違う。ただ一方的に見て満足するだけじゃ足りない。その人に喜んでもらいたいと思う。そして好かれたいと。そのために労力を惜しまない。それが恋です」
「よしてくれ。俺は悪魔だ。人間を喜ばせたいなんてありえない」
「そうですか? 何もすべての人間を喜ばすわけじゃないですし、特別ということで自分に許してやってもいいじゃないですか。悪魔は自由なはずでしょ? 天使と違って。だから私は堕天したんです。自分の心の赴くままに、好きな人の力になれるようにね。自分の心を偽るほうが悪魔としてどうかしているんじゃないですか? まぁ、ロキさんが否定するなら仕方ありませんが。このまま恋を失ってしまっていいのならね」
――失う。
マスターの言葉に心臓を素手で掴まれてしまったような衝撃が走った。このまま、俺は、カヤに会えない? 永遠に? そういうことか? ……そんなの嫌だ。会いたい。でも二度と来るなって。顔も見たくないと言われた。
「……俺は、どうすればいいんだ」
「簡単ですよ。素直になればいい。そして彼女に告げればいい。『自分を好きになってほしい』とね」
そう言ってにっこりと微笑むマスターは堕天して随分経つというのに本物の天使のようだった。おそらく、当時はさぞや立派な天使だったのだろう。どんな事情があったか知らないが天界は痛手だったにちがいない。
それから俺は、カヤの家に向かった。心を決めると待っていられなかった。
幸い、愛を囁くのは得意だ。今までいろんな女に述べてきた。誰もがうっとりと聞き入った。今日はいつも以上に気合を入れてイメージングして、最高に美しい男になっている。この美貌ならばカヤだって俺を好きになるはずだ。喜んでくれるだろう。自信があった。だから期待して、家を訪れた。
一週間ぶりだが、もうずっと来ていなかった気がする。ドアをノックしようとした。だが手が震えていた。これも恋というやつの副作用か。緊張している。妙な気分だった。大きく息を吸って、吐ききるのと同時にノックした。少ししてカヤの声がした。女にしては低めの、だが耳障りがいい声だ。
「俺だ」
「……ロキ?」
カヤが俺の名を呼ぶ。それだけのことなのに胸が高鳴った。
ゆっくりと扉が開く。メガネをかけて、黒い服を着た、どうみても美しいとは形容しがたい女が出てくる。だけど俺はドキドキしていた。一週間ぶりだから尚更むずがゆい。動揺していることを悟らせないように、
「久しぶりだな」
「……一体なんの用?」
だがカヤはつれなかった。俺の容姿を見てもうっとりすることもない。淡々とした雰囲気のままで、他人行儀に言った。まだ怒っているのか。ここに来るまであった自信など一気に吹き飛んでしまった。だが、ひるんではならない。と思って、
「話がある」
「話? ……今度は何を企んでいるの?」
「つれないな。仮にも二週間恋人だったじゃないか」
「契約恋人でしょ?」
「契約でも恋人は恋人だ。俺は役に立ったじゃないか。恩人だ」
そうだ。俺はカヤの願いを叶えてやったのだ。恩があるはずだ。
「いいえ。あなたに恩なんてないわ」
「――え?」
「私の恩人は、こんなに美しい男ではない。人に笑われてバカにされてしまうような男よ」
「な、なんだよ、それは俺が化けていただけじゃないか」
「そんなの知らないわ。とにかく、私の恩人はあなたじゃない。だからあなたと話すことは何もないわ。帰って」
「追い返す気か!」
「ええ。だってあなたのことは知らないもの。私に話を聞いてもらいたいのなら、私のよく知っているロキの姿で来なさい。そしたら聞いてあげるわ」
「なっ……俺があの姿を嫌がっていること知ってるじゃないか。なのになんでそんなこと言うんだ。それは仕返しのつもりか。二週間、あんな姿で恋人のふりをしたこと、本当は根に持っていたのか。だからこうやって俺に意地悪をするのか。なんて女だ。性格がねじれている。俺は二度とあんな姿にはならない!」
あんなみっともない姿で――俺を好きになってほしいなんて言えない。言っても好きになってくれるはずないから。美しい姿で言わなくちゃいけないんだ。もういい、こうなったら、言ってやる。ムードも何もないけど。今の俺が告白すれば、カヤだって聞いてくれるはずだ。けど、
「とにかく、今のあなたと話す気はない。それじゃあね。さようなら」
カヤはまた怒っていた。そして、パタリと扉が閉められた。拒絶された。なんで、どうしてカヤはそうやって俺が一生懸命したことを怒るんだ。なんでなんだ。それからしばらく扉の前に立っていたが再び開くことはなかった。
2010/3/4