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恋でないなら 不遇な身の上 10 


 新木と別れてから玖柳はういには会いに行かなかった。
 頭がいやに醒めていて、一方で胸の奥が熱い。冷気と熱風が混ざり合うことはないまま境界線でぶつかり合う。感情の捌け口を探り合う緊張状態に陥っている。
 ふらふらとした足取りで屋敷に戻り居間まで進むと崩れ落ちるように座り込む。すると、その拍子に手にしていた千羽鶴がばさりと音を立てて広がった。
 聞き入れる必要などない――新木の言葉など気に留めることはない。
 新木の発言は崎宮の跡継ぎとして未来を約束されている者、所詮は高みにいる者の言い分であり、玖柳の、気持ちがわかるはずない。早瀬から追い出され見知らぬ土地に来て、それでも懸命に頑張ってきた胸中など。自分は責められる覚えはない。無視してしまえばいい。玖柳は思うが、深くに突き立てられた言葉は消えてはくれず傷ついている。
 だが、それが何に対してなのか。波打った状態では不明瞭である。
 闇雲に辛くてやるせなくて逃げ出したい。何も悪くはない自分を傷つけた新木が悪いと言いたい。いや、そもそも、このような代物を欲しいと望んだわけでもないのに持ってきたういが悪い。これでまた自分に遊んでもらおうとしているのだ。優しく親切にして、心配しているなど言って、自分が構ってほしいだけだ。余計なことをされて、結果玖柳は手酷い打撃を受けた。迷惑千万であると。そういうことにしてこの一件のことを忘れてしまいたかったが。
 目には見えぬ傷口から溢れ出るものが、それを許してはくれない。
『自分というものが少しもない』
 新木の冷淡な眼差しが蘇る。辛辣な鋭い眼光。見透かされた気がした。
 自分を上等な人間だと思ってきた。
 玖柳の本音である。
 それは早瀬という特別な家に生まれたという意味ではなく、そのことを鼻にかけて偉ぶった態度をとらぬようにと躾けられ、実行していると信じていたからだ。力を振りかざし、他人を虫けらのように扱う者もいる。だが、玖柳は違う。下働きの者にも丁寧な態度をとり、そんな自分は皆に"慕われている"と思っていた。
 だが、その考えこそが厚顔無恥というものであった。
 玖柳は幸運の中で生きてきた。
 早瀬で暮らしていた頃、玖柳が誰かに何かをすればまず喜ばれた。それは"早瀬の嫡男が目をかけてくれた"と感激されていたにすぎぬのに玖柳は誤解した。自分は正しい振舞いをしていると。自分がすることは立派であると。だから感謝されるのだ。良きことをすれば感謝されるのだと。
 しかし、崎宮に来て生まれて初めて己の振る舞いを真っ向から否定される。不憫なういを可愛がることは良いことである。それをいらぬ世話だと告げられた。玖柳にとっては予想外で理解できぬ事態だった。何故かようなことになるのか。信じられぬ思いでいたが。
 良かれと思ってしたことも、相手にとっては不要ということが世の中には存在する。行いの何もかもを無条件に受け入れ喜ばれることなどなく、善意とて迷惑と罵られ受け取ってはもらえぬこともある――人が当然に学んでいくことを、しかし玖柳にはこれまで一度も経験したことがなかった。それはただひたすらの幸運であったが。
 善意を拒絶されれば憤る感情が生まれる。自然なことである。しかし、そこで捨て鉢にならずに平常心を保てるか。辛い状況になっても恨まずにいられるか。恵まれた状態だけではなく、厳しい状況に陥っても憎まずにいられるか。それこそが真に上等な人間である。
 しかし、免疫のないまま放りだされた玖柳は、突然知らされた現実に大きく傷ついた。対処の仕方がわからぬ出来事を前に、それならばもう何もしてやるものかと投げやりになった。ういに冷たい態度をとり八つ当たった。そうして人などつまらぬと決めつけて、周囲が悪いのだと責め、内に籠ったのである。
 玖柳は畳の上に広がる折り鶴を引きよせる。膝に抱えると藍色、薄緑、黄色、橙と華やかな鶴は先程よりもぐっと重く感じられた。
 ふてくされ心を閉ざした玖柳と比べ、理由もわからず冷たくされたういは、玖柳の豹変に傷つきながらも心配し、気持ちが慰められるようにと千羽の鶴を折って持ってきた。遊んでほしい一心ではなく、真実、玖柳の身を案じてのことであろう。
――十四年の生涯で、かほどに思いの籠った贈り物をされたことはない。
 玖柳より十も年下の身でありながらもずっと人への思いやりを心得ている。哀れな幼子と安易に同情していたが、哀れなのは"人を思う"ということがどういうことか知らなかった玖柳の方である。
 それを新木には見抜かれていた。
 己の傲慢さを僅かも理解せず、自分を良い人間だと思い行動する玖柳を、いかな風に見ていたか。あのひんやりとした眼差しを思い浮かべれば言わずもがなである。
 恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
 とめどなく溢れ出る羞恥に押しつぶされてしまいそうである。一層、押しつぶされてしまえたらとも思う。「違うのだ」と叫びたく、「そうではないのだ」と述べたい。今すぐに新木に会いに行き否定したい。溢れ出るのは懺悔の涙だ。奥歯を噛みしめて咽び泣く。
 みっともない。いたたまれない。格好悪い。
 自分は何をしていたのか。
 これまでのことはなかったことにしてほしい。もう自分はわかったから、あのような自分とはもう違えたから、自分を見下すのはやめてほしい。
 どうか、どうか、どうか――。
 ざわつく心を持てあまし、折り鶴を抱えたままうずくまった。





 どれくらいそうしていただろうか。
 気付けば外は夕魔暮れ。赤い日差しが障子越しに差し込んでいる。
 玖柳は泣き疲れぼんやりとしていたが、それでも導かれるように立ち上がり障子に手をかけて開ける。
 途端、容赦なく西日に照らされる。
 柔らかで温かな光に包まれていると、それまであった粗熱が静まって行くように思われた。あれだけ泣けば気も収まるのは当然かと思うが、うつろだった気怠ささえも妙にさっぱりとしていく。
 そうして、つい今しがたまで心囚われて泣き濡れていたものの正体が、差し込む夕日に炙り出されるように距離を置いて見える。すっと頭の芯が冷え、何か神聖な物に触れているような、それは不思議な感覚だった。
 己の汚名を返上したいと。許されたいと。泣き続けたが、しかし、それもまた"自分のため"であった。
――この期に及んでも先に立つのは自分の身の体裁ばかりだな。
 しかし、自分が考えるべきことはそれだろうか。
 嘆き、悲しむことを、するべきだろうか。
 本当に申し訳ないと思い、変わりたいと願うならば、するべきことが他にある。
 さすれば、どうすればよいのか。
 過去を非難することではなく、泣くことではなく、まして心を閉ざして引き籠ることではない、新しい道を玖柳は考え始めていた。
 早瀬という強大な力を持つ家から出され、その力がなくなったことを辛いと思っていたが。元よりそれは玖柳の力ではない。今度こそ自分で考え行動せねばならない。自分のものではない力に頼ることなく、己の力を得る。それは多くの人がしていることである。
 これまで玖柳は確かに恵まれていた。だが、それ故に知らずにいた世界がある。そこへ突然放りだされ戸惑い絶望したが。しかし、今、それが甘えであったと切なさとともに認識する。
 その日、玖柳は初めて心の底から自分というものの小ささを知った。しかし、同時にこれまで囚われていた妙な矜持が剥ぎ落されていくのを感じる。
 もう、己を哀れむことをやめよう。
 そして、大事にすべきものを見極める。
――かの姫の気持ちに報いたい。
 勝手な同情や、傲慢に哀れむ気持ちからではなく、あの小さな姫の優しさに報いたい。自分がした非道な振る舞いを謝りたい。ういの信頼を取り返したい。そのために、自分が出来ることは何か。
 鮮やかな紅の、燃え立つような夕日が美しい。
 玖柳はそれを目に焼き付けるように沈みきるまで見つめていた。



2012/2/10

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